河原の女
最初の通報は、春だった。
「川の中に女の人が立っているんです」
午後十一時四十二分。
一一〇番通報を受け、黒田と三宅が河川敷へ向かった。
その女は、いた。
橋から二百メートルほど下流。
街灯の光が届かない場所。
川の中央より少し手前に、膝まで水に浸かって立っている。
白っぽい服。
長い髪。
動かない。
三宅が自転車を止めた。
「先輩」
「あぁ」
「この前の人ですよね」
「たぶんな」
二〇三号室の一件から数日しか経っていなかった。
あの夜、帰り道で見た女。
同じ場所。
同じ姿。
二人は堤防を下りた。
通報者の男性が待っていた。
二十代くらい。
ジョギング中だったらしい。
「あれです」
男性が川を指差す。
「ずっといるんですよ」
黒田が聞く。
「何かされました?」
「いや」
「追いかけてきたとか」
「ないです」
「話しかけられた?」
「ないです」
「川に引き込まれたり」
「ないです」
男性が少し困った顔をした。
「でも、あれ絶対おかしいですよね」
「まあ、普通ではないですね」
黒田は川を見る。
女はまだ立っている。
三宅が小声で言った。
「行きます?」
「見てくる」
「私もですか」
「一人で行かせる気か」
「そういう意味じゃないです」
二人は河原へ下りた。
水際まで来る。
女との距離は二十メートルほど。
黒田が声をかけた。
「こんばんは」
女がゆっくり顔を向けた。
三宅の肩が少し強張る。
顔は普通の若い女に見えた。
ただ、肌に生気がない。
髪も服も濡れているはずなのに、水滴が落ちていなかった。
『こんばんは』
三宅が黒田を見る。
黒田はそのまま聞いた。
「警察です」
『はい』
「ここで何してるんですか」
女は少し考えた。
『います』
三宅が小さく息を吐いた。
「それは見れば分かります」
黒田が横目で見る。
「三宅」
「すみません」
女は三宅を見た。
『います』
「……そうですか」
『はい』
黒田は続ける。
「人を驚かせたりしてます?」
『してません』
「川に引き込んだり」
『しません』
「追いかけたり」
『しません』
「物を壊したり」
『しません』
「この辺から動きます?」
女は川下を見る。
『あまり』
「昼間もいます?」
『いません』
「夜だけ?」
『はい』
三宅が口を挟む。
「寒くないんですか」
女が三宅を見る。
『分かりません』
「分からないって、寒いかどうかが?」
『寒い、というのが』
三宅は黙った。
黒田が聞いた。
「名前は?」
女は少しだけ目を伏せた。
『忘れました』
「いつからここにいるの?」
『分かりません』
「ここで死んだ?」
沈黙。
川の音だけが続いた。
『たぶん』
「たぶん?」
『昔なので』
三宅が黒田を見る。
黒田はそれ以上聞かなかった。
後ろで通報者が待っている。
「分かりました」
女が顔を上げる。
「今日はこれで」
『はい』
三宅が小声で聞く。
「帰るんですか」
「帰る」
「女の人は?」
「置いてく」
「いや、そうじゃなくて」
黒田は通報者のところへ戻った。
「確認しました」
「どうでした?」
「そこにいます」
「いや、それは見れば……」
男性は言葉を止めた。
「危険は?」
「今のところ」
「あのままでいいんですか」
「今のところは」
「幽霊ですよね?」
「そうですね」
男性はしばらく黒田を見ていた。
「……そういうもんなんですか」
「何かされたら、また呼んでください」
「何もされなかったら?」
「そのままで」
*
その後、通報は増えた。
一週間で六件。
内容はどれも似ていた。
《川の中に女性がいる》
《動かない》
《こちらを見ていた》
《怖い》
人的被害。
なし。
物的被害。
なし。
交通への影響。
なし。
水防設備への影響。
なし。
川の流れへの影響。
なし。
市の異常事案担当が調査に入った。
簡易的な測定。
水温。
流速。
周辺の電磁的異常。
女の出現時間。
移動範囲。
調査結果は、一枚の書類にまとめられた。
夜間、人型異常存在が出現。
会話可能。
攻撃性確認されず。
接触による健康被害確認されず。
現時点で強制排除の必要性なし。
三宅は書類を見た。
「これで終わりなんですか」
「何か足りない?」
「幽霊ですよ」
「うん」
「そこ、もっと大事に扱わないんですか」
「大事に扱ってるだろ。調べて、危険がないって書いた」
「そういう意味じゃなくて」
「どういう意味?」
三宅は紙を裏返した。
「もっと調べるとか。正体を突き止めるとか」
「調べたい人は調べるんじゃない」
「警察は?」
「事件じゃないだろ」
三宅は窓の外を見る。
「そうですけど」
黒田は書類を閉じた。
「人殺してない。物壊してない。誰か脅してるわけでもない」
「はい」
「じゃあ警察が何するんだよ」
「幽霊がいるって通報されたら、見に行く」
「見に行った」
「それで?」
「いなかったことにする?」
「それはそれで問題でしょう」
「じゃあ、いることにしておけ」
三宅は答えなかった。
*
夏。
女はまだ川にいた。
地元では、少しずつ知られるようになっていた。
最初は避けていた人もいた。
犬の散歩をしている老人。
夜釣りをする男。
ランニングをする会社員。
帰宅途中の高校生。
皆、何度か見かけるうちに、慣れていった。
女はいつも同じ場所にいた。
何もしない。
ある夜。
黒田が一人で巡回していた。
河川敷を通る。
女が立っている。
黒田は自転車を止めた。
「こんばんは」
『こんばんは』
「変わったことありました?」
『ありません』
「そう」
黒田はそのまま行こうとした。
『あの』
振り返る。
「はい」
『上流に自転車があります』
「自転車?」
『川のそばに』
「捨ててある?」
『たぶん』
「どの辺?」
女が上流を指す。
『橋の少し手前』
「分かりました」
『行くの?』
「見てくる」
『危ない?』
「自転車が?」
『分かりません』
「じゃあ、見てくるだけ」
黒田は向かう。
百五十メートルほど先。
草むらの中に自転車があった。
防犯登録を確認する。
二日前に盗難届が出ていたものだった。
黒田は無線を取った。
*
次の日。
三宅が報告書を見る。
「見つけたの、あの人ですか」
「そう」
「協力者じゃないですか」
「別に協力頼んでないよ」
「でも教えてくれたんですよね」
「うん」
三宅は少し考えた。
「何かお礼した方がいいですかね」
「何するの」
「分かんないですけど」
「本人に聞けば」
「聞いて、何か欲しいって言われたら?」
「考える」
「先輩が?」
「お前が」
*
夜。
二人で河原へ行った。
女はいた。
三宅が声をかける。
「昨日、自転車教えてくれてありがとうございました」
『はい』
「持ち主見つかりました」
『そうですか』
三宅は少し待った。
女はそれ以上何も言わない。
「……それだけ?」
黒田が聞く。
「何が」
「いや、喜ぶとか」
「喜んでるかもしれないだろ」
「顔に出ないですけど」
「お前も出てない」
三宅は女を見る。
女は静かに川を見ていた。
「何か欲しいものあります?」
『欲しいもの?』
「お礼です」
『ありません』
「本当に?」
『はい』
「じゃあ、今度から見つけても教えなくていいです」
『分かりました』
三宅が固まる。
「いや、そういう意味じゃなくて」
黒田が言った。
「余計なこと言うから」
*
秋。
市から河川工事の通知が出た。
護岸補修。
工期二か月。
女が立っている場所も施工区域に含まれていた。
市役所の担当者が、黒田に聞いた。
「会話できますよね」
「できます」
「お願いしたいことがあるんですけど」
「俺に?」
「一度会ったことあるので」
「一度じゃないです」
三宅が横から言った。
「何度か会ってます」
「余計なこと言うな」
「でも、私たちより話しやすいかもしれませんよ」
「お前が?」
「人と話すの、先輩よりは」
「比較するな」
市職員は困ったように笑った。
「一緒に来てもらうだけでいいです」
「俺たち二人とも?」
「できれば」
「勤務扱いで?」
「もちろんです」
「じゃあ行きます」
「そこは即答なんですね」
「仕事だから」
夜。
市職員二人と黒田、三宅が河原へ行った。
女はいつもの場所にいた。
職員が声をかける。
「こんばんは」
『こんばんは』
「市役所の河川管理担当です」
『はい』
職員は工事図面を広げた。
女が少し近づく。
「来月から、この辺りの護岸工事をします」
『工事』
「はい」
「この区域に重機が入りますので、工事期間中だけ、少し上流側へ移動してもらえますか」
女は図面を見る。
『ここにはいられない?』
「工事中は危険です」
『私が?』
「作業員もです」
三宅が小声で言った。
「幽霊にも危険ってあるんですかね」
黒田が肘で小突く。
「すみません」
女は上流を見る。
『どこまで?』
担当者が指差す。
「橋を越えなければ、あの辺りなら工事区域外です」
『分かりました』
「ありがとうございます」
『いつから?』
「十一月七日です」
『七日』
「はい」
『終わるのは?』
「予定では十二月二十二日です」
女は少し考えた。
『分かりました』
三宅が聞く。
「忘れませんか?」
黒田が見る。
「お前は黙ってろ」
『覚えます』
三宅は少し驚いた。
「覚えられるんですね」
『覚えます』
「すみません」
話は終わった。
黒田たちは帰った。
*
十一月七日。
工事開始。
女は、約百メートル上流に移動していた。
誰も追い立てなかった。
監視員も置かなかった。
ただ、約束した場所に移動していた。
十二月二十一日。
工事は一日早く終わった。
市職員が女のところへ行った。
「工事終わりました」
『明日じゃなかった?』
「早く終わりました」
『戻っていい?』
「はい」
『ありがとう』
「こちらこそ、ご協力ありがとうございました」
『協力?』
「移動してくれたので」
『約束したから』
「それでも助かりました」
『そうですか』
「はい」
*
冬。
少し問題が起きた。
女を撮影しに来る人間が増え始めた。
SNSに写真が上がった。
《本物の幽霊》
《河川敷の女》
《深夜に必ず出る》
最初は遠くから撮るだけだった。
やがて、近づく者が出た。
強いライトを当てる。
大声で呼ぶ。
川へ石を投げる。
女は何もしなかった。
ただ場所を少し変えた。
ある夜。
黒田と三宅が巡回すると、
河原に若い男が二人いた。
一人がスマートフォンを構えている。
もう一人が川へ向かって叫んでいた。
「こっち向いて!」
女は背を向けていた。
「おい!」
男が小石を投げた。
水面に落ちる。
黒田が声をかけた。
「何してるんですか」
二人が振り返る。
「あ、警察」
「今、石投げました?」
「水にですよ」
「人いますよね」
「幽霊でしょ」
黒田は川を見る。
女はまだ背を向けている。
「本人、嫌がってません?」
「本人って」
「撮られるの嫌ですか?」
黒田が女へ聞く。
少し間があった。
『嫌です』
黒田は男たちを見る。
「嫌だそうです」
一人が笑った。
「いや、でも公共の場所でしょ」
「そうですね」
「じゃあ撮るくらい別によくないですか」
「撮るなとは言ってません」
「じゃあいいじゃないですか」
「石は投げるなって言ってるんです」
「当たってないし」
「当たる前にやめてください」
「幽霊なのに?」
「人が立ってるところに石を投げるな」
男は不満そうだった。
それでも石は置いた。
黒田たちが帰るまで、撮影もやめた。
*
翌日。
市役所に問い合わせが入った。
河原の女を観光資源として使えないか。
地域振興課の提案だった。
夜間ツアー。
案内板。
限定グッズ。
担当者は異常事案担当へ相談した。
「本人の同意取ってください」
「本人?」
「はい」
「必要ですか」
「必要かどうかを決める前に、聞いてください」
「聞いて、嫌だと言われたら?」
「やめます」
「市の企画ですよ」
「市の企画だからです」
担当者は納得した。
数日後。
河原。
「市役所なんですけど」
『はい』
「あなたを地域観光の紹介に使いたいという話があります」
女が黙る。
「写真や紹介文を掲載する可能性があります」
『嫌です』
「分かりました」
『もう帰る?』
「はい。帰ります」
『ありがとう』
「こちらこそ」
企画はその日のうちに止まった。
*
春。
一年が経った。
女はまだ川にいる。
いつもの場所。
黒田は夜勤の帰りに河原を通った。
一人だった。
少し遠回りだった。
自転車を止める。
「こんばんは」
『こんばんは』
「今日は暖かいね」
『そうなの?』
「分からない?」
『あまり』
「そうか」
沈黙。
水が流れる。
女が黒田を見る。
『黒田さん』
「何」
名前を教えた覚えはなかった。
たぶん、誰かが呼んでいるのを聞いたのだろう。
『聞いてもいい?』
「いいよ」
女は少し迷った。
『私は、ここにいていいの?』
黒田は女を見る。
「何かした?」
『何か?』
「人を川に引き込んだ?」
『してない』
「誰か呪った?」
『してない』
「物壊した?」
『してない』
「通行の邪魔?」
『たぶん、してない』
「じゃあいいんじゃない」
女は黙った。
黒田は自転車のハンドルに手をかける。
『でも』
「うん」
『私は死んでる』
「そうみたいだね」
『普通じゃない』
「それで?」
女は答えなかった。
黒田も待たなかった。
「じゃあ帰る」
『うん』
ペダルに足をかける。
少し進んだところで、女が呼んだ。
『黒田さん』
振り返る。
『おやすみ』
「おやすみ」
黒田は走り出した。
*
翌朝。
市役所の異常事案台帳が更新された。
対象番号。
河川区域―一七。
分類。
人型異常存在。
出現時間。
主に夜間。
会話。
可能。
人的被害。
なし。
物的被害。
なし。
公共設備への影響。
なし。
本人からの苦情。
夜間の無断撮影等について数件。
危険度。
低。
対応方針。
特になし。
備考欄には、一行だけ追加された。
《河川工事への協力実績あり》
その夜も、
女は川に立っていた。
犬を連れた老人が堤防を歩く。
女に気づく。
軽く頭を下げる。
女も、
少しだけ頭を下げる。
老人はそのまま歩いていく。
遠くで電車が走る。
車の音。
信号。
住宅の明かり。
川の流れ。
女は何もしなかった。
誰も困らなかった。
だから、
その夜も、
何も起きなかった。




