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二〇三号室

 音がしたのは、午前二時を少し過ぎた頃だった。

 コツ。


 コツ。


 奈緒は目を開けた。


 暗い天井がある。


 カーテンの隙間から、街灯の明かりが細く差していた。


 コツ。


 音は、天井の向こうから聞こえた。


 古いマンションだった。配管が鳴ることもある。どこかの部屋で椅子を引けば、壁を伝って響く。


 そう思おうとした。


 コツ。


 今度は、少し近かった。


 奈緒は布団の中で息を止めた。


 真上。


 ベッドの真上。


 スマートフォンを探る。指先が画面に触れ、白い光が顔を照らした。


 2時13分。


 上の部屋の住人だろうか。


 そう考えてから、違うことに気づいた。


 ここは最上階だった。


 天井の上には、屋根裏しかない。


 コツ。


 コツ。


 音が動いた。


 天井の中央から、ベッドの頭側へ。


 ゆっくり。


 何かが、四つん這いで這っている。


 奈緒は布団を押しのけた。


 足を床につける。


 冷たかった。


「……ネズミ?」


 声が、部屋の中で薄く揺れた。


 返事はない。


 ただ、天井の奥で、


 ミシ、と何かが軋んだ。


 奈緒は立ち上がり、照明のスイッチを押した。


 明かりがつく。


 音が止まった。


 冷蔵庫のモーター音。


 壁時計の秒針。


 自分の呼吸。


 それだけだった。


 天井には何もない。


 白い壁紙。


 小さな染み。


 いつもの部屋。


 奈緒はしばらく動かなかった。


 やがて、息を吐く。


 馬鹿らしい。


 そう思った。


 照明を消そうと、手を伸ばす。


 その時だった。


 天井の中央が、


 ゆっくりと沈んだ。


 奈緒の指がスイッチの手前で止まる。


 白い壁紙が、内側から押されている。


 丸く。


 人の頭ほどに。


 沈んだ部分の縁が、細かく震えた。


 ミシ。


 壁紙に亀裂が走る。


 一本。


 また一本。


 裂け目の奥から、黒いものが垂れた。


 髪だった。


 細い束が、重さに引かれるように落ちてくる。


 奈緒は息を吸った。


 肺が膨らまない。


 髪の隙間から、白いものが見えた。


 額。


 まぶた。


 鼻筋。


 顔が、天井の中から覗いている。


 上下が逆だった。


 女は、天井に顔をつけたまま、奈緒を見ていた。


 目が開く。


 黒目がない。


 ただ、濡れたような黒さだけがあった。


 口が動いた。


『出ていけ』


 声は低くなかった。


 耳元で囁かれたように近かった。


 奈緒は一歩下がった。


 踵が床を擦る。


『ここから出ていけ』


 女の肩が、天井の裂け目から押し出された。


 壁紙がさらに裂ける。


 白い腕が落ちてくる。


 指先が、空中でゆっくり開いた。


 爪が長い。


 奈緒は玄関を見た。


 距離は数歩しかない。


 女の腕が、わずかに揺れた。


 次の瞬間、奈緒は走っていた。


 背後で、何かが床に触れた。


 音はしなかった。


 ただ、空気が変わった。


 首筋に冷気が触れる。


 玄関まであと一歩。


 手を伸ばす。


 その手首を、別の手が掴んだ。


「っ……!」


 冷たい。


 冷たいというより、熱がなかった。


 指が皮膚に沈む。


 奈緒は振り払おうとした。


 爪が食い込んだ。


 皮膚が裂ける。


 痛みで、ようやく声が出た。


 扉を開ける。


 身体を廊下へ投げ出す。


 手首が離れた。


 奈緒は振り返らず、扉を閉めた。


 閉まる直前、


 隙間の向こうに、髪の束が見えた。


 ドン。


 扉が揺れた。


 一度だけ。


 奈緒は廊下にしゃがみ込んだ。


 手首から血が落ちる。


 扉の向こうは静かだった。


 静かすぎた。


 奈緒は震える指で一一〇を押した。


     *


 二人の警察官が到着したのは、午前二時二十九分だった。


 一人は三十前後の男。


 黒田。


 もう一人は若い巡査で、三宅という。


 奈緒は廊下に座っていた。


 隣室の住民が、半開きの扉からこちらを見ている。


 黒田はまず奈緒の腕を見た。


 爪で抉られたような傷。


「救急呼んで」


 三宅が無線を取る。


 奈緒が二〇三号室を指した。


「中に……います」


「誰が?」


「女です」


 黒田は扉を見る。


「知り合い?」


「違います」


「侵入された?」


「違うんです」


 奈緒の呼吸が浅くなる。


「天井から……」


 黒田は急かさなかった。


 奈緒は唇を震わせた。


「幽霊です」


 三宅が一瞬だけ黒田を見る。


 その視線を見て、奈緒の顔がさらに青ざめた。


「本当なんです。嘘じゃないんです。天井から女が出てきて、腕を――」


「分かりました」


 黒田が言った。


 奈緒が黙る。


「……信じるんですか」


「何を?」


「幽霊……」


 黒田は傷口を見る。


「いるんでしょう」


 奈緒は答えなかった。


「中に他の人はいません?」


「いません」


「ペットは?」


「いません」


「ガス使ってます?」


「いえ」


 黒田は三宅を見る。


「管理会社、連絡できるか確認して」


「はい」


 三宅が離れる。


 黒田は二〇三号室の前に立った。


 扉の向こうからは、何も聞こえない。


 奈緒が小さく言った。


「まだ、いると思います」


「そうですか」


「入るんですか」


「確認しないと分からんでしょう」


 三宅が戻ってくる。


「先輩」


「何」


「入るんですか」


「うん」


 三宅は扉を見た。


「怖いですよ」


「俺も怖い」


「……ですよね」


 黒田がドアノブに手をかける。


 二人とも拳銃には触れなかった。


 扉が開く。


 部屋の中は暗い。


 黒田が照明をつけた。


 白い光が、家具と壁を平らに照らす。


 異臭はない。


 荒らされた様子もない。


 床に血が少し落ちている。


 天井を見る。


 中央付近の壁紙が裂けていた。


 裂け目の奥は、普通の天井裏に見える。


 黒い髪はない。


 黒田は部屋へ入った。


 三宅が続く。


 床。


 窓。


 押し入れ。


 浴室。


 どこにもいない。


 三宅が天井を見上げた。


「さっきの人、ここから出てきたって」


「らしいな」


「穴、ないですね」


「ないね」


 三宅が一歩、天井の下へ近づく。


 その時。


 コツ。


 二人とも止まった。


 音は、天井の奥から聞こえた。


 コツ。


 三宅の喉が鳴る。


「いますね」


「いるな」


 音が移動する。


 天井の中央から、


 二人の真上へ。


 コツ。


 そこで止まった。


 壁紙が、ゆっくり膨らむ。


 三宅が息を吸う。


 黒田は一歩下がった。


 裂け目から、髪が落ちてくる。


 一本。


 二本。


 束になって、黒田の目の前まで垂れた。


 その奥から、顔が覗く。


 上下が逆だった。


 女の目が、二人を見ている。


『出ていけ』


 黒田は女から目を逸らさなかった。


「ここ、あなたの部屋ですか」


 女の顔が、わずかに傾いた。


 首が折れたように見えた。


『出ていけ』


「名前は?」


 女の口が開く。


 声が出るまで、少し間があった。


『出ていけ』


「いつから――」


 天井が裂けた。


 女の腕が落ちてくる。


 黒田は横へ避けた。


 指が床を掻く。


 爪が畳に食い込んだ。


「出るぞ」


 三宅の肩を掴み、玄関へ下がる。


 背後で、何かがゆっくり床に降りた。


 音はしなかった。


 ただ、畳が沈んだ。


 三宅が振り返る。


 女が立っていた。


 異様に細い。


 髪が顔を覆っている。


 首だけが、ありえない角度で傾いていた。


 女の足が動く。


 一歩。


 次の一歩は、もう目の前だった。


「出ろ!」


 二人は廊下へ飛び出した。


 黒田が扉を閉める。


 直後、


 内側から手のひらが当たった。


 ドン。


 扉が膨らむ。


 ドン。


 蝶番が軋む。


 ドン。


 三宅が息を整えようとする。


「先輩」


「何」


「やばいですよ、あれ」


「うん」


「どうします」


 扉の向こうで、何かが爪を立てた。


 ゆっくり。


 横へ引く音。


 黒田は二〇三号室を見た。


「とりあえず住民を避難させろ」


     *


 午前三時半。


 住民は一時退避となった。


 消防。


 管理会社。


 市役所の夜間担当。


 異常事案の専門部署。


 人が増えるほど、廊下は静かになった。


 誰も大声では話さなかった。


 奈緒は救急隊から処置を受けている。


 管理会社の担当者が図面を広げた。


「二〇三号室の上は屋根裏です」


 市の担当者が聞く。


「点検口は?」


「共用廊下側にあります」


「中に入れます?」


「人一人なら」


 消防が屋根裏を確認する。


 異常なし。


 二〇三号室の直上にも、人影はない。


 それでも、部屋の中からは時折、


 コツ。


 と音がした。


 研究員が機器を設置する。


 温度。


 電磁波。


 空気組成。


 振動。


 映像。


 測距。


 三宅は廊下の端で、その様子を見ていた。


「こんなに来るんですね」


 黒田が缶コーヒーを開ける。


「怪我人出てるからな」


「専門の人だけでやらないんですか」


「警察は警察の仕事あるし、消防は消防だろ」


「まあそうですけど」


 その時、二〇三号室の中で音がした。


 コツ。


 全員が黙った。


 コツ。


 研究員の手が止まる。


 天井の奥で、何かが這っている。


 森川という小柄な中年男が、工具箱を持って廊下に現れた。


 作業着の袖をまくっている。


 管理会社の担当者が頭を下げた。


「すみません、こんな時間に」


「いいよ」


 森川は図面を受け取り、二〇三号室へ入った。


 天井を見る。


「この辺?」


「はい」


「上は何もないんだろ」


「ありません」


 天井の奥で、


 コツ。


 森川は工具箱を開いた。


「じゃあ一枚剥がすか」


 三宅が思わず振り返る。


「剥がすんですか」


「何を?」


「天井」


「他に見る方法ある?」


 三宅は答えられなかった。


 森川が脚立を開く。


 電動工具の音が鳴る。


 その音に重なるように、


 天井の奥で何かが爪を立てた。


 ギ。


 森川は止まらない。


 ネジが外れる。


 石膏ボードがわずかに下がる。


 裂け目の向こうから、黒い髪が一本だけ垂れた。


 誰も声を出さなかった。


 森川がボードを外す。


 暗い空間が現れる。


 研究員がライトを向けた。


 光が吸い込まれる。


 壁の向こうにあるはずの梁も、断熱材も見えない。


 ただ、暗い。


 深い暗闇が、天井の中に口を開けている。


 研究員がレーザー距離計を向ける。


 数字を見る。


「七・四メートル」


 森川が図面を見る。


「そんなわけないだろ」


 もう一度、測る。


「七・四」


 別の角度。


「七・三八」


 暗闇の奥で、


 何かが動いた。


 ライトの光が揺れる。


 三宅が一歩下がる。


 研究員の顔から血の気が引いた。


「記録してください」


 別の研究員が撮影を始める。


 暗闇の奥から、


 かすかな声がした。


『出ていけ』


 誰も動かなかった。


 声は、空間の奥からではなかった。


 すぐ後ろから聞こえた。


 市の担当者が振り返る。


 誰もいない。


 研究員が機器を見た。


「内部空間の保持条件を――」


「安全に残せます?」


 市の担当者が遮る。


「現時点では分かりません」


「なら住民は戻せませんね」


「ただ、現象としては非常に貴重です。一定期間このまま観測できれば――」


 暗闇の中で、何かが擦れた。


 コツ。


 研究員の声が止まる。


「観測中にまた出ます?」


「可能性はあります」


「人を襲います?」


「先ほどの事例を見る限り、あります」


「じゃあ、このままは無理です」


 研究員は黙った。


 森川が天井を見上げる。


「この部屋だけ切り離せるかもしれんな」


 皆が見る。


「どういう意味です?」


「床と天井の梁、一部補強して、この区画だけ撤去する」


 管理会社が聞く。


「建物持ちます?」


「補強すれば」


「どこまで取る必要あります?」


「それ調べないと」


 暗闇の奥で、


 女が息を吸った。


 誰かの耳元で。


 長く。


 深く。


 研究員が機器を見る。


「現象範囲を測ります」


     *


 夜が明ける頃には、おおよその範囲が分かった。


 二〇三号室の北側。


 幅三・二メートル。


 奥行き二・一メートル。


 上下方向は図面上の構造を超えている。


 ただし、壁を挟んだ隣室では異常がない。


 梁の一部に沿って現象が固定されている可能性が高かった。


 女は数度現れた。


 天井の裂け目から顔を出す。


 壁の中から腕だけを伸ばす。


 誰もいない部屋の隅に立っている。


 現れるたびに、同じ言葉を繰り返した。


『ここから出ていけ』


 黒田が一度だけ聞いた。


「ここで死んだの?」


 女は答えなかった。


 髪の隙間から、黒い目だけが見えた。


「名前は?」


 沈黙。


 女の首が、ゆっくり傾く。


『出ていけ』


 研究員が黒田に言う。


「意思疎通を継続すれば、情報が得られるかもしれません」


 黒田は女を見る。


 女の指が、床を撫でている。


 爪の先が畳を裂く。


「でも今、人襲ってますよね」


「はい」


「だったら先にそっちでしょう」


 研究員は少し考えた。


「そうですね」


     *


 午前十時。


 住民への説明が行われた。


 少なくとも当日は帰宅できない。


 市が宿泊先を用意する。


 管理会社が費用負担について保険会社と協議する。


 建物の安全確認が終わるまで、二〇三号室周辺は立入禁止。


 奈緒は腕に包帯を巻いたまま、説明を聞いていた。


 黒田が廊下に出ると、奈緒が声をかけた。


「あの」


「はい」


「あれ、何なんですか」


「分かりません」


 奈緒は少し驚く。


「分からないんですか」


「まだ」


「除霊とか……」


「しないと思います」


「じゃあどうするんです?」


 黒田は作業員たちを見る。


 森川が壁の位置を測っている。


 研究員が機器を並べている。


 消防が退避経路を確認している。


 二〇三号室の中から、


 かすかに、


 コツ。


 と音がした。


 黒田はそちらを見た。


「壊すみたいです」


 奈緒が二〇三号室を見る。


「部屋を?」


「必要なところだけ」


「……そんなことで大丈夫なんですか」


「分からないですね」


「え」


「だから今から確認するんでしょう」


     *


 工事はその日の午後から始まった。


 簡易の補強材を入れる。


 周辺住民を完全退避。


 消防車両待機。


 救急車一台。


 電源遮断。


 ガス閉栓。


 研究員が計測を続ける。


 森川たちは防護具を着けた。


 ヘルメット。


 安全帯。


 防塵マスク。


 ゴーグル。


 普通の工事現場と同じだった。


 ただ、天井の暗闇だけが、そこにあった。


 作業が始まる。


 天井材をさらに撤去する。


 異常空間が露出する。


 中は暗い。


 何も見えない。


 ライトを向けても、光が戻ってこない。


 レーザーは依然として七メートル以上を示す。


 森川が梁に切断機を当てた。


 金属音が響く。


 その瞬間、


 建物全体が震えた。


 作業員が止まる。


 暗闇の奥で、


 何かが這う音がした。


 ずる。


 ずる。


 黒い空間から、女が出た。


 今度は全身だった。


 天井から逆さまに這い出し、壁へ張り付く。


 髪が床に触れる。


 顔は見えない。


『やめろ』


 初めて言葉が変わった。


 森川が工具を止める。


 研究員が計器を見る。


「現象強度上昇」


 女の指が壁に食い込む。


 壁紙が、指の形に沈んだ。


 市担当者が聞く。


「危険ですか」


 消防が答える。


「現時点で避難路確保」


 女の首が、ゆっくりこちらを向く。


 顔は髪に隠れている。


 それでも、見られていると分かった。


 森川が女を見る。


 顔色は悪い。


「続けていいの?」


 市担当者は研究員を見る。


「作業で現象範囲、広がってます?」


「いいえ」


「縮小は?」


「梁を切った瞬間、わずかに縮みました」


 女の腕が、壁の中から伸びる。


 指先が森川の足元を探る。


 市担当者は森川を見る。


「続行できますか」


 森川はしばらく女を見た。


 女の髪の隙間から、白い目が覗いた。


 それから、


「できます」


 工具を持ち直す。


 女が叫ぶ。


『ここは私の場所だ』


 声が部屋の四隅から返ってきた。


 切断機が回る。


 金属音。


 木材が裂ける。


 黒い空間が脈打つ。


 女が床を這う。


 手のひらが畳を叩く。


 黒田たちは一歩下がる。


 三宅が拳銃に手をかける。


「先輩」


「まだ撃つな」


 女が森川へ向かう。


 這っていたはずの身体が、途中で立ち上がった。


 関節の向きが、いくつかおかしい。


 黒田が前に出る。


「下がって」


 森川が退く。


 女の手が伸びる。


 黒田の制服を掴む。


 冷たい。


 布越しに、指の形が分かった。


 黒田が腕を振る。


「離せ!」


 女の顔が目の前まで来る。


 髪の隙間から、黒い目が覗く。


 皮膚は青白い。


 口だけが、ゆっくり開いた。


『出ていけ』


 黒田は身体を捻って手を外す。


 三宅と消防隊員が黒田を引く。


 森川が叫ぶ。


「切れた!」


 梁の一部が落ちる。


 黒い空間が急激に縮んだ。


 女の身体が、途中から折れた。


 声が低くなる。


『やめろ』


 さらに壁材を外す。


 床を剥がす。


 女の腕が、暗闇の中へ引き戻される。


 それでも指先だけが残った。


 研究員が数値を読み上げる。


「二・四!」


「一・八!」


「一・一!」


 女は壁の中へ半分沈んでいる。


 顔だけが残っていた。


 髪の隙間から、黒い目が黒田を見る。


『ここは――』


 最後の構造材が外された。


 音はしなかった。


 光も出なかった。


 女の口が動く。


 声は聞こえない。


 次の瞬間、


 女は消えた。


 暗闇も消えた。


 そこには、本来あるはずの屋根裏が見えていた。


 配管。


 断熱材。


 梁。


 普通の建物だった。


 研究員がレーザーを向ける。


「四十二センチ」


 もう一度。


「四十二」


 誰も喜ばなかった。


 森川が工具を下ろす。


「終わり?」


 研究員が言う。


「少なくとも現象は確認できません」


 天井裏のどこかで、


 小さく、


 コツ。


 と鳴った。


 全員が顔を上げた。


 しばらく待つ。


 もう鳴らなかった。


 森川が工具箱を閉じる。


「じゃあ直すか」


     *


 三日後。


 二〇三号室は、骨組みの一部を残して大きく解体されていた。


 研究員たちは安全確認を済ませた建材の一部だけを持ち帰った。


 残りは通常の産業廃棄物として処理された。


 再発なし。


 異常値なし。


 奈緒は退去を決めた。


 管理会社も了承した。


 誰も、


「もう安全だから戻ってください」


とは言わなかった。


 安全と、


 住みたいかどうかは別だった。


 黒田と三宅は報告書を提出した。


 事件は担当部署へ引き継がれた。


 その夜。


 二人は自転車で川沿いを走っていた。


 三宅が少し前を走っている。


 街灯。


 虫の声。


 遠くを走る車。


 黒田は眠かった。


 昼間から細かい書類が残っていた。


 早く帰りたいと思っていた。


 三宅が急に止まる。


「先輩」


 黒田も止まる。


「何」


 三宅が川を指差す。


「あれ」


 川の中に、


 女が立っていた。


 膝ほどの深さ。


 白い服。


 長い髪。


 月明かりの下で、


 微動だにしない。


 水面だけが、女の周りで揺れている。


 三宅が小声になる。


「いますよね」


「いるな」


「行かなくていいんですか」


 黒田は女を見る。


 女も、


 こちらを見た。


 髪の隙間から、顔が見える。


 距離があるのに、


 目が合ったと分かった。


 しばらくして、


 黒田が聞いた。


「何かしてた?」


 三宅も見る。


「……立ってます」


「それだけ?」


「はい」


 川の中で、女の足元の水が揺れた。


 女は動かない。


 黒田は自転車のペダルに足を乗せる。


「じゃあいいだろ」


「え」


「帰るぞ」


 黒田は走り出す。


 三宅が慌てて追う。


「いや、でもあれ幽霊ですよね」


「そうだな」


「確認しなくていいんですか」


「誰か困ってる?」


 三宅は後ろを見る。


 川の女は、


 まだ立っていた。


 白い服の裾だけが、水の中でゆっくり揺れている。


「……今のところは」


「じゃあ明日でいい」


「明日行くんですか?」


「通報あったらな」


 二人の自転車が遠ざかる。


 川には女が残る。


 車が橋を渡る。


 コンビニの看板が光る。


 電車の音がする。


 女は、


 何もしない。


 ただ、


 そこに立っていた。


 水面が、足元から少しずつ広がっていく。


 街もまた、


 何事もなかったように続いていた。

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