1,無慈悲
志村が捕まり、1人目の犠牲者が出た少し後。
川原井のいる取り調べ室に新たな連絡が行く、少し前。
人生は無慈悲なものだと、小島衿は感じていた。
今日も専門学校が終わり、バイト尽くしの日々。
彼女は至って真面目だった。
クラスで特に目立つ存在ではないが、悪いやつという印象も受けにくいと先生は思っているのだろう。
しかし、人間はそうはいかない。
クラスの一軍に入れなかった、というだけで、自分は攻撃対象になってしまったのだ。
クラスでは孤立、友達はいるにしてもその日だけと言った関係。
孤立しているからなんだというのだ…。
人と違って何がいけないのか…。
唯一の支えは、バイト先でできた彼氏だった。
それだけが支えであり、心の拠り所でもある。
自分だけの安息の地、そう思っていたのに。
今日という日、彼氏がバ先で他の女と抱き合っているのを目撃してしまったのだ。
小島が見ていたということを彼氏は知らない。
けれども、小島の心は深く抉られ、涙を堪えるので精一杯の状況だった。
自分は一途に、彼を愛していると思っていたのに。
彼氏に別の相手がいる可能性は捨てきれない。
完全に0%と言うことのできるカップルはいないのだ。
誰にでも、別の相手がいるなんて思わない。
誰にでもほかの相手がいるかもしれない。
そして、いたという事実が発覚した時、なぜ自分の相手なのだと失望し、怒り、悲しむ。
帰り道をトボトボと歩いていたが、視界はぼやけている。
目の中は暑く、濁っていた。
涙が溜まっているのだろう。
どうにか目の外に出さないようにと努力する。
ここは東京。
夜といえど、歩く人の数はそこまで少なくない。
そして、泣きながら歩くなんてこと、内気な小島にはできなかった。
本当なら、今すぐにでも、涙のダムを壊して、泣き崩れたかったのだが。
明日からどうやって生きよう。
何を支えに生きていけばいいのか分からない。
泣きたくないと願っているはずなのに、耳に入れたイヤホンからは失恋ソングばかりが流れ出す。
小島は意図して失恋ソングを選んでいた。
指が勝手に歌を選び、悲しいと分かっているはずなのに、止めることができない。
歌詞を自分に重ねることで、慰められているような暖かい気持ちになれるから。
けれど、腐っても失恋ソング。
心を温めるだけではすまない。
暖かな気持ちに遅れて、悲しい気持ちをも連れてきてしまうのだ。
涙が引っ込んだり、溢れそうになったり、感情のジェットコースターになる。
人が自分の近くを歩く度に、絶対にそっちを見ないようにしていた。
人は彼女の状況を知れば、同情して「可哀想」だと言うだろう。
これ以上の不幸は起きないで欲しいと願う、それは小島自身もそうだ。
今の状況よりも悪いことが起きるなんて思ってもいない。
しかし、心のどこかでこう思っていた。
「死んでしまいたい」と。
小島の願いを聞き入れたかのように、天は彼女の味方をしなかった。
願いを聞き入れたのなら味方というべきか?
だが、小島は本当に願っていた訳ではない。
いわゆる、一時の感情。
悲しさと怒りからでてしまったものだった。
神はいたずらが好きらしい。
イヤホンをしながら、人気のない場所まで来てしまったのが間違いだ。
とは言っても、そこを通らなければ家まで辿り着くことはできない。
つまりは、彼女は悲惨な運命を辿ることが決まっていたのだ。
悲しみにくれる彼女に今の渋谷で何が起きているかなんてニュースを見る余裕もない。
実家暮らしであれば、親からの連絡が来るかもしれないが、1人暮しをしている娘に安否を取らない家族だったのだ。
人がほとんどいない場所なので、小島は抑えていた涙を少しずつ解放していった。
頬をつたう涙の温かさが心地よく、服で拭いたりなどは一切しない。
涙は顎から地面へと落ちていく。
見えはしないが、涙の足跡ができていくように思えた。
彼女の耳に入っていく失恋ソングは心をさらに抉っては修復していく。
音量を段々と上げていった。
周りの音が何も聞こえなくなり、失恋ソングだけが耳に響く。
後ろから誰かが近ずいて来るという足音さえも聞こえなかった。
曲がサビに差し掛かる。
心は悲しみなのか、温かみなのか分からない絶頂を迎えそうだった。
現実の感覚では温かみなど一切ないはずなのに、太背中が熱くなったように感じる。
感じたことのない感覚。
その数秒後、温かみを感じた部分にとてつもない激痛が走った。
小島は自分の腹を見る。
何もない、だがハッキリと分かることは、自分は「刺された」ということ。
背中の刺された部分から枝分かれするように痛みが走る。
まるで電撃だった。
刺さったものを、後ろの人間は引き抜こうとしているようだ。
引かれる度に、痛みが増す。
叫び声をあげようとした時、後ろから手が小島の口を塞いだ。
口、鼻をしっかりと抑えられ、声を出すことができない。
背中に刺さった何かは、ゆっくりと引き抜かれる。
その時に、刺された時よりも鋭い痛みが襲う。
目からは勝手に涙が溢れ出る。
痛みと共に、痛みの発生源から何か暖かいものが背中から足にかけて流れ出した。
暗くて、分からないが、足元を埋め尽くしている。
びちゃびちゃと音を立てるものは水の音を出していた。
激痛と恐怖だけに気を取られ、引き抜かれたあと、さらに刺されるなんて考えを忘れていた。
先程よりも刺される瞬間の痛みがハッキリと分かるようになってしまった。
アドレナリンのようなものが切れたのだろう。
皮膚を貫いて体の中に鋭い刃物が無理矢理ねじ込まれていく。
激痛に悶えたり、声を出そうとするが、抵抗虚しく…ともいかなかったのが不思議だった。
小島のことを抑えるその手は、非力といえば非力だったのだ。
手で思いっきり引き剥がそうとしたら、女である小島の力で少し手が離れそうになるぐらいには。
だが、背中に何度も何かを刺される感覚のせいで力が入らずに、無慈悲に何度も刺されるしかなかった。
痛みをほとんど感じなくなり、目の前がぼやけた時、刺した相手が手を離す。
小島はその場に倒れ込み、地面と顔が触れる。
冷たいのかも、顔の下に水があることも感じることはない。
小島は最後に見た。
自分を刺した相手が、自分の手で何かをしているのを。
紙に…何かを書いている?
なぜそんなことを?
謎が残ったまま彼女は意識がなくなっていく。
それが彼女の最後の記憶となった。




