5,サイコ
志村が話し始めるまで、数秒程度。
だが、その時間が永遠かのように思えた。
皮膚から出た冷や汗の1つが相手から見えない位置、首の辺りをツーっと通るのを感じる。
全身が燃えるように熱く感じる中、冷たい足跡を残しながら汗が体から滴り落ちていく。
感覚は不快そのものであった。
志村と目が合っていて、言葉が発せられるのを待っているだけなのに、どうしてこうも時間が長く感じるのだろうか。
川原井は見えない牢獄に囚われている気分になる。
目の前のサイコパスと永遠に話続けなければならないという罰でも下されたかのようだ。
「川原井さん」
やっとの事で志村が言葉を口から出した。
時の流れが元に戻ったように思える。
牢獄に囚われた感覚はまだ消えないが、時間の進みが戻ったような感覚には安堵せざるを得なかった。
おそらく、周りから見ればほんの一瞬の出来事にすぎない。
だが、川原井にとっては時計の針が1つずつ進む音が脳内回線で流れているのではないかと感じるほどに、1秒1秒が遅く感じた。
「川原井さんって俗に言うイケメンですよね」
志村から発せられる言葉は予想の斜め上を行く発言。
それが耳から入る度に、今度は時間の進みがとても早くなったように思えるのだ。
何を言い出すのかと思えば、自分の容姿のこと?
川原井はこれまでに殺された人間たちの無惨な有様を志村の口から聞くことを恐れ、身構えていたというのに、肩透かしを食らった気分になった。
「僕なんかより、ずっと整った容姿をしてる。
それじゃあ、色んな女が寄ってきても不思議じゃない。
どう?そういう経験は?
何人もの女にモテモテで言い寄られたことは?」
志村の質問は川原井の精神を抉りそうになる。
恋人の話しは川原井にとっては地雷でしかないのだ。
態度には出さずとも、声色でイラつきを隠し切ることができなかった。
「そんな経験はありません」
「おっと、これは失礼。
まさか、その見た目で恋人ができたことがない?
もしかして、そっちの経験もない、可愛げなチェリーさんだったりして」
バァン!と川原井が机を叩いた。
右手が机を叩き、左手は拳を爪が食い込むぐらいに握りしめていた。
堪えきれず完全に怒りを顕にした状態だったが、志村は動揺するどころか、その場を楽しんでいるかのようだった。
「いい加減にしてくれ。
俺の事なんかどうだっていいんだよ」
「悪い癖です。
相手のことを知りたくて深入りをしてしまう。
とりあえず落ち着いて下さいよ。
話の入口として聞いただけなんですから」
机の上にあった叩いたままの手を膝の上に戻す。
かなり強く叩いたため、普通なら、痛みでジンジンと血管が分かりそうな感じになるのだが、今の川原井はアドレナリンが大洪水らしい。
怒りから出たアドレナリンは気持ちのいいものではなかった。
スポーツをしていて疲れを知らないのとは別物で、気持ちが高ぶるの意味合いが変わってくる。
先程まで、冷静沈着に取り調べを行うと頭の中で決めていたのに、すぐに乱れてしまう。
拳を握りしめていた左手の力もどうにか緩める。
相手のペースに乗せられているのを感じ、大きく息を吸って吐いた。
「僕、かなりモテるんですよ」
「大した自信だな」
「そうですね。
でも、普通の人からはモテないんですよ。
心を病んだり、何も寄り添うものがない人からモテるんです。
そして、モテるということは、その全員を愛してやらなければいけないということ」
話し方が急に優しくなった。
さっきまで、かなりサイコパス身を感じていたが、今はなぜだか、普通に感じる。
それが演技なのか、本心なのかは分からない。
志村はサイコパスだ。
なら、演技という他にないはず。
目を見るが志村の目は焦点が定まっていないようにずっと動き続けるか、川原井の方をじっと見つめているだけだった。
「1番最初に彼女を作った時、僕のことを好きな人が他にもいました。
だから、彼女に内緒で家に呼んでキスやらハグやら心が安らぐことをしてやったんです。
もちろん、その相手は僕に彼女がいることを知っていましたけどね」
「浮気野郎じゃねぇかよ」
「そう言われたら否定はできないですね。
でも、川原井さんならどうします?
僕と一緒にいることで幸せになる人物が2人いる。
そんな時、どうするんですか?」
「…」
そんな経験がないからこそ、答えを出すことができなかった。
片方を優先するべきだと頭の中では理解している。
自分が恋人と決めて、「彼女」という立場を与えたのなら、それは一途に貫くべきなのだ。
例え、他の人の好意を踏みにじってしまう結果になったとしても。
川原井が愛した女性は障害で1人だけ。
幼なじみの恋人。
他の人からの好意なんて気にしたこともなかった。
「恋人なら、そっちを優先してやるべきじゃないのか?」
「僕にはそれができませんでした。
そんな残酷なこと。
でも、不思議なんですよ。
癒してやっているはずの、今は浮気相手とでも言いましょうか、不服ですけど。
浮気相手がどんどん崩れていくんですよ」
当たり前だろ。
そう言いたかった。
自分を1番愛して欲しいのに、絶対に願いが叶わないと分かっているのだから。
「ハグをしても、手を繋いでも、一緒に出かけても、キスをしても、もういっその事で夜を過ごしたこともありました。
それでも相手は満たされない。
僕に彼女がいるという事実だけで、自分は特別でもなんでもないと言うんです。
でも、僕のことを愛していると。
そして、ある日、言われたんです」
何かを言う前に、志村の目がまたサイコパスの目に戻った気がした。
動向が開き、光を失う。
恐ろしく人間とは思えない目で自分のことを見つめる。
その気迫に押し倒されてしまわないように必死に堪えていた。
「殺してくれ、って」
沈黙が流れる。
川原井と石井は志村から目を離さず、志村は川原井から目を離さなかった。
数秒遅れて、石井が「殺してくれ」という言葉をパソコンに打ち込む。
彼も動揺したのだろう、打ち込むのが遅れるのも理解ができた。
「過去に何度も言われました。
カップルがネタで言うこともあるかもしれないですけど『殺されるなら好きな人がいい』なんてこと。
そのうち、限界が来たんでしょうね。
僕以外の癒しが何もなくなり、僕のことすら1番に自分のものにできなかった。
だから、殺してくれと」
「だから、殺したのか?」
「そうですけど」
キョトンとした言い方だった。
これが初めてではないが、さもこれが当たり前かのような言い方。
川原井はそれが気に入らなかった。
人の命をなんとも思っていないんだ、コイツは。
考える度に火山のマグマのように湧き上がってくる怒り。
爆発しないように耐えているだけでもありがたいと思えと、心の中で悪態をついていた。
既に先程、軽く噴火を起こしたばかりだったが。
「分かります?
その時、浮気相手は僕のいいコマみたいなもんだったんです。
自分の欲求を伝えてくることもなくなっていった。
それは僕に彼女がいて、彼女以上のことは望むことができないから。
その代わりとして、彼女がいない時、僕の相手をしてくれた。
最高でしょ?」
鼻息が荒くなる。
フーフーと息の音がするが気にしている暇はない。
今すぐにでも志村のニヤケ顔を吹っ飛ばしてやりたいと思っていた。
火山は噴火までギリギリのところで蓋をされているかのよう。
蓋はガタガタと音を立てて、隙間から熱気が漏れ出している。
それが川原井の鼻息だった。
「でもね。
そのうち、いうことを聞かなくなっていくんです。
ただ、絶望の縁にいるように、病んでいく。
そうなっていくと、壊れた機械みたいで。
で、言われるんですよ。
殺してくれって。だから…」
ククク、と志村は笑いを堪えていた。
せめてもの配慮なのか、顔を下に向けている。
だが、そんな配慮、なんの力にもならなかった。
ダメだ、抑えろ川原井。
ここで火山を噴火させてしまっては相手の思う壺だぞ。そう言い聞かせた。
「じゃあお前は、人を道具扱いした挙句、殺してくれって頼まれたからって殺したのか!?」
「それが何か?
悪いことみたいに言いますけど、それが人間でしょ?違いますか?
ゆうしゅーな刑事さん」
「川原井さん!」
後ろから石井が声をかけた。
川原井は石井の方を向き、呼吸を整えた。
驚いたことに、呼吸の乱れが酷かったのだ。
石井が止めてくれていなければ間違いなく、火山は噴火していたことだろう。
そして、この取り調べから自分は取り除かれ、信頼と信用を失うことに繋がる。
石井は川原井が不祥事を起こしかけていたことを知っていたため、問題になる前に止めることができた。
彼はホッとしていた。
止めなければ、自分の責任にもなりかねないのだから。
実際のところ、暴力事件を起こしそうになった刑事に取り調べをさせるのもどうかと石井は思っていた。
けれども、川原井が優秀なことには変わりなく、上からの信用があるのも理解している。
悪い部分は見なければいいのだ。
皆そうやって生きているのだから。
ただ今回は相手が悪いってだけ。
「人って、道具じゃないんですか?」
志村から質問が飛んでくる。
視線をまた、志村の目に移す。
今回は先程よりは冷静さを保っていることができている。
しかし、質問の内容に関してはかなり不快感を抱いていた。
「なんでそう思うんだ?」
「だって、人は人を使って色んなことをするでしょ?『自分のため』だけに。
相手のためとか、自己犠牲とか、クソにも匹敵する悪い冗談だ。
出世のため、自分の快楽のため、自分自身の幸せのため、そんなもののために、人を踏み台にすることだってある。
そういうのを聞いてもまだ人間は道具じゃないって言えるんでしょうかね?
自己犠牲なんて、そう簡単にできるやつはいない。
ちょっと自分が危なくなって見てください。
陰口を叩かれる可能性が出てきたり、立場が危うくなれば、すぐに人のことを捨てて逃げ出す」
「じゃあ、あんたは『死ぬ覚悟』がないと、相手のために生きているとは言えないと?」
志村の目が「違うのか?」と訴えかけてくる。
不覚にもこんなサイコパスの言うことを深く考えてしまっている自分がいた。
自分は本当に過去の彼女を愛せていたのか?
相手のために、何ができていたのか?
道具のように扱っていた可能性はないだろうか?
考えが巡る度に、川原井の心の傷は抉られていく。
心臓についた切り傷を爪で開かれているかのように痛む。
そこから出血し、心臓の動きが鈍っていくように感じる。
気にせずに、志村は話を続けだす。
「大抵の人間はそうだ、自分が1番。
でも、それを決して人の前では出さないようにする。
いや、出さないというよりは、隠すんだ。
自分が誠実であるように見せるための1つの手段。
そして、人目を気にすることが無くなれば、自分が自分がと言い始める。
川原井さんは誰かのために命を捨てることができましたかね?」
「あんたはどうなんだ?」
「はい?」
「あんたは命を捨てる覚悟で被害者と一緒にいたんじゃないのか?」
「別に、僕は相手のことを道具だと思ってましたし?
愛してる、なんて薄っぺらい言葉です。
それを信じるなんて、まるで子どもの所業じゃないですか」
また、志村が笑いを堪えながら話した。
「…」
落ち着け。落ち着け。落ち着け。
やつのペースに飲まれてはいけない。
どんなに志村の言葉がたくみで、自分のことを陥れようとしても飲まれてしまえば負けなのだ。
そう言い聞かせるのが辛かった。
自分のせいではないと、同僚に言われ続けた過去。
その通りだと自分を許そうとしたが、恋人の死という現実がそれをさせない。
立ち直ろうと考えていたことを、目の前のちっぽけな人間1人に考えさせられるなんて思っていたかった。
「殺す時も、あっさり殺すんじゃ物足りなくてね。
十分に痛めつけてから、殺した。
面白いんだけどさ。
『愛してるから』って理由をつければ、殺される相手は喜んで痛めつけられるのを受け入れるんだよ。
痛みに耐えて、涙を流して、愛ってのを本当に信じて、俺に殺されるんだ。
愛してもいない相手から。
でも、それを知らない!滑稽でしょ!」
飲み込まれないと抗うのは無駄だった。
取り調べ室自体が、志村のペースに完全に飲み込まれていたのだ。
「このサイコ野郎が!!」
その言葉に反応するように、志村はまた笑い声をあげる。
「ハハハ!最悪でサイコうだろ?」
この時、石井から新たな情報を開示されなければ、川原井は志村に危害を加えていた。
その未来を何とか防げたことは不幸中の幸いと言うべきだろう。
意図せずでは無いが、その状況を止めることができた石井が今のMVPとでも言える。
情報が開示された時、この事件は既に奴の手のひらの上だということが分かった。




