1,洗脳
女は男の家にかなりの頻度で来るようになった。
彼のそばにいると安心する。ただそれだけの理由。
男は包んでくれる。
自分の痛みも苦しみも。
疑いもあった。自分が見た光景と同じことが起きるのではないのかと。
それを打ち消してくれたのは、彼の血の味。彼の腕から流れ落ちる血の跡。自分がそれを舐めとった時、他のスキンシップでは達成できないような満足感に襲われるのである。
口の中に広がる鉄の味。
子どもの頃に興味本位で舐めた針金の味にそっくりだった。
けれど、何倍も暖かく、心地よい味だったのを覚えている。
女は知らず知らずのうちに洗脳されていたのである。
昔からそうだった。
あれこれを叩き込まれ、自分の本当の姿を押し殺してきた。
幼少期の思い出は全て壊されている。
唯一信じてきたものにも裏切られ、絶望のどん底にいたのだ。
なのに、また自分は信じてしまっている。
寄り添ってくれる男の存在を。
とことん自分が人間であることの証明をしているかのような気分だ。
男からは「愛」について教えられた。
愛はありふれている。と。
そこらを見れば、愛と呼べる代物は無限にあるのだ。
ワンナイトという、一見すると愛のないようなものでさえも、1夜だけなら愛と呼べるものが存在するのかもしれない。
カップルがこぞって口にする「愛している」というセリフ。言葉に嘘はない。
ペットを愛でるのも、我が子を大切に育てるのも、友達のために何がするのも全て愛と呼べるものだ。
気の毒な奴へ手を差し伸べてやるのも愛と言えるかもしれない。
「じゃあ、なんで、愛について人間は悩むの?
ずっと探している気がするんだけど」
「いいところに気がつくね」
男は女の方を見てニコッと微笑む。
女はその笑顔が好きだった。
例え、偽りの笑顔だったとしても、美しく、優しい眼差しなのだ。
まるで自分の存在全てを肯定してくれているかのような瞳。
男の瞳の中に自分が映ると、一緒になれているかのような気分になれる。
「永遠じゃないからだよ」
「永遠?」
「恋人ができた時って、相手のことを100%信用してる人は少ないと思う。
というか、限りなくゼロに近いんじゃないかな?
どれだけ信じたくても、相手は人間。
複雑な感情を持って生まれてきてしまった神の失敗作、だと僕は考えてるんだ」
女はポカンとした表情をする。
話を理解していないわけではなかった。
なんなら、深く理解のしようがある話なのだ。
だからこそ、気がつかなかったという事実を目の前にし、ポカンとしてしまった。
「愛してるって言っても、いつまでの愛なのか、それは誰にも分からない。言った本人でもね。
心がいつ変わるかなんて誰にも分からないんだよ。
だから人は、永遠の愛を求め続けてる。
見つかりもしないものを求めてね」
「本当に見つからないの?」
「いや、見つかるよ。
見つけようと思えばね。
でも、誰もそれをしないだけ」
「なんで?」
「愛の証明。それは綺麗で美しいように聞こえるけど、実現するとしたなら、とても辛いことなんだよ」
男の表情は少し曇る。
男は知っているのだ「永遠の愛」の見つけ方を。
女にとって、それは喉から手が出るほど欲しいものだった。
永遠という言葉の響きですら心地よい。
逆さまにしてしまえば、永遠の苦しみ。幸せにも苦しみにもなる言葉。
幸せの方を手に入れさえすれば、もう二度と不安な夜を過ごさなくてすむ。
不安と恐怖という、人間社会の現実から少しは目を逸らして生きていけると思ったのだ。
だが、彼の口から出た言葉はそれと正反対のもの。
「生きてる間は、愛を証明できないんだ。
だからね、僕が君のことを愛していると言って死ねば、それは永遠の愛の証明になる。
覆しようがない、本物の永遠の愛。
でも、君は僕を失う。
それでも、証明したいと思う?」
女は息を飲んだ。
すぐに答えたかった。
でも、簡単に答えが出せる問題ではないと考えた。
喉から手が出るほど欲しいと思っていたのに、その手が今は喉の奥の方に引っ込んでしまう。
永遠の愛の証明。
求めていたはずなのに、手に入れれば、大切なものを失う。
その時、自分は絶望と嬉しさという感情に押しつぶされていくことだろう。
最終的に、自分が自殺する未来が頭の中を駆け巡る。
「したいよ。でも、したくない。
あなたを失うなら、永遠の愛の証明なんてして欲しくない」
「そうか。
逆にさ、君自身はどう?」
「私?」
「そう、僕のために永遠の愛の証明をしてくれる?」
「もちろん」
即答だった。
なんの躊躇いもなく、すぐに言葉が出てきた。
女には洗脳されているという感覚は全くない。
失う恐怖がないのなら、相手のために何でもする覚悟があったからだ。
「僕も君のためなら愛を証明出来るよ。
でも、して欲しくないんだっけ?」
「うん。するなら私が」
「ありがとう。
でも、今じゃない。君が復讐を果たすときにして欲しいんだ。
君に失う気持ちは与えないよ」
上手く丸め込まれていることを女は知らない。
ただ、人の温もりに抱かれているのが気持ちよく、目の前のものに目がいかなくなってしまっているだけなのに。恋は盲目。
こうして、男は日に日に、女のことを洗脳していった。
女は男の言うことは聞くようになり、男も女の要望に答えた。
つまらないものだろうがなんだろうが、男はしてやった。
手を繋ぐ、ハグ、セックスなど。
軽いスキンシップから、濃いものまで、全てを嗜んでいた。
人は絶望した時でも、すぐに別のものに縋りたくなるものだ。
弱った心に寄り添うものを振り払おうとするかもしれないが、心のどこかでは嬉しい気持ちがいっぱいなのである。
心のどこかでは、誰かに助けを求めているのだ。
そして、助けれられなかった瞬間、全てに絶望する。
振り払った相手がもう一度、手を差し伸べさなければ、その行動を逆恨みし、怒りを露わにする。
もちろん、全ての人間がそうだとは言えない。
しかし、人間は感情が複雑な動物。
故に、何が起こるか分からない、めんどくさい生き物であることを男は知っていた。




