8,名前
黒崎と挨拶を交わし、川原井は取り調べ室に戻る。
扉を開け、中に入ると、部屋の中だけが別の空間のように思えた。
今日は何度もその感覚を味わっているが、未だに慣れない。
入った瞬間に感じる部屋の中の空気。
自分自身を包み込み、無理やりにでも部屋の中へ引き込もうとしているのが分かるのだ。
志村は定位置から川原井の姿を見た。
川原井は謎の違和感を覚える。
志村の顔がまた疑問を抱いているかのように見えたのだ。
まるで、被害者の写真を見せた時と同じような反応。眉間にシワがより、すぐに元に戻る。
違和感を感じつつも、その場にいた石井に異常はなかったかを聞く。
石井からは、志村が自分に話しかけてきた、質問には答えていない、という回答が返ってきた。
確認を済ませ、席にもう一度座る。
志村はマジマジと川原井の顔を見ていた。
その顔には、先程までとは何かが違っているようだった。
何か、というのに説明はできはしない。
単に緊張のせいで感覚が研ぎ澄まされているだけなのかもしれないし、気にしすぎの可能性もある。
眉間にシワが寄っているように見えたのだって、考えすぎた末路からなる幻覚のようなものなのかもしれない。
椅子に座り、志村を見つめる。
彼は疑問を抱いているかもしれないが、川原井も疑問を抱いていた。
「なぁ、あんた、本当に人を殺したのか?」
黒崎にも同じようなことを言った。
疑問が膨らみすぎた結果、破裂してしまい、口から言葉が発射されたのだ。
今、自分はムカついて、絶対に刑務所に送ってやると思った男に対して「人を殺したのか」という疑問が頭の中にあったのだ。
くだらない考えであったことは確かだし、この取り調べをしたくないという極度のストレスから生み出された産物のようにも思えた。
事実、証明するものはない。
だが、志村が人を殺したという事実もない。
志村が話したからと言って、本当かどうかは事実確認がされるまでは分からないのだ。
「え?そうですけど?何を言うんですか今更」
あまりの変な質問に志村も困惑を隠すことができていないようだった。
眉間にシワが寄った時とは違う驚き方をしているようだ。
黒崎にも言われたように、志村が人を殺しておらず、犯人役をさせられているとしたのなら、無差別殺人を犯す必要は一切ない。
では、犯人役を志村が名乗り出したというのならどうだろうか?
今、無差別殺人をしている人間と親しく、証拠が消せないほどの殺人を衝動的に犯してしまった。
だから、志村に助けを求め、承諾した志村は犯人役を請け負ったということ。
そこまで考えても、無差別殺人を犯す理由は見つからない。
川原井は、なぜ自分がこんなにも志村のことを犯人ではない方向に持っていこうとしているのか謎だった。
彼はサイコパスであることは話してて分かる。
川原井の辛い過去だって蘇らせてきた。
蘇らせてなお、楽しんでいるように見えたのだ。
愛を語った。
それだけの理由かもしれない。
人類が探し求め続けるもの。
答えに辿り着くことはないかもしれないのに、一生をかけてでも求めるのだ。
愛は道具。それが彼の主張。彼の考えの1つにすぎない。
傍から見れば、心ないサイコパスの主張。
人の心を動かすことのできる言葉が確かにあった。
故に川原井自身は心を動かされた。
亡き恋人のために自分は何をしてやれたのか、彼女は自分を愛してくれていたとして、その状態を永遠に保ち、天国へと旅立ったのだと。
同時に、彼女は自分のことを愛してくれていたのか?という心無い疑問も生まれることになった。
「自首するまでの時間、何をしていたんだ?」
話を切り替えた。
愛について語ったからといって、志村に飲み込まれるのは避けたかったのだ。
自分のくだらない考えなどは頭の片隅の押し入れにでも押し込んでおけばいい。
「どういうことですか?」
「とぼけるな。
死体を調べて死亡推定時刻が出てるんだ。
あんたが自首してきた時間よりも1時間半も間があったんだぞ。
何をしてたんだ?」
「何もしてませんよ。
あんまりよく覚えてないんですけど、放心していたのかもしれませんね。
殺した時のこと、よく覚えていないんですよ。
他の殺した人の様子なら、覚えてるのに。
あ〜覚えてるとしたら、部屋に立ち尽くして、死体を見つめていた自分ぐらい、ですかね」
1時間半も放心?
ありえない。嘘をついている。
それは確実だと川原井は思った。
衝動的に殺してしまったとはいえ、放心していたとしたら長すぎる。
「川原井さん。
さっき、なんで僕のことを犯罪者の立ち位置から遠ざけようとしたんですか?」
これまでとは違い、純粋なクエッションマークが志村の上に見えたように感じられた。
「愛…」
「なんです?」
「あんた愛について語っただろ?
それだけの事だ。
俺の勝手な憶測。これで説明がついただろ?」
言うべきではなかったかもしれない。
石井がパソコンに打ち込む音が耳に入ってそう思った。
会話の内容は色んなところに共有をされる。
上が見たらなんて言うだろう。
白鷺に見られたら…。
変な質問をするなと、叱られるに決まっている。
黒崎はどうか?
自分の意志を汲み取ってくれるだろうか?
彼が自分に任せたのだ、文句を言われる筋合いはないぞと、どこから自信が湧くのか分からなかったが、自分を正当化することに成功した。
「そうですね。
でも、僕は愛なんてものは人を操る道具の一部としか見てませんよ?
付き合っていた女性、殺した女性の名前すら覚えてません。
あ、でもさっき言ったみたいに、殺した描写ならよく覚えてますよ」
「俺の勝手な憶測だ。
聞き流してくれて構わない。
だが、これ以上は時間の無駄になる。
さっさと1時間半、何してたのか答えてもらおうか?」
「あ、でも、覚えている名前が4つありますね」
思わぬ食いつき方だった。
志村が狙っていたのか、それとも川原井の言葉に反応したのかは分からないが結果オーライと言ったところ。
最終的には名前をあげるつもりだったのかもしれない。
それが川原井の話によって引き出された、ただそれだけの事だと思った。
「白石綾。
九条結衣。
柊木琴音。
白鷺加奈子。
何故でしょう…この4人の名前は覚えているんですよね」
ハッと息を飲み、半ば衝動的に椅子から立ち上がった。
そして、石井の方を見る。
最後の名前の苗字。
まさか…と川原井と石井は思ったのだ。
「一旦離れる」と言い、取り調べ室を後にする。
白鷺の所まで走った。




