7,刑事
川原井はトイレの小便器の前で自分のモノを出したまま数分、硬直していた。
尿意を感じ、取り調べ室から出てトイレへと来たはずのなのにまだ一滴も出る様子がない。
早く出して、取り調べ室に戻らなくてはいけないのに、自分の体にイラつきを覚えるのは久しぶりのことだった。
やっとの事で体の外に排出された尿は、本当に催していたのかというレベルのもの。
全てを出し切った感覚がなく、残っているように感じられたが、今は気にしている余裕もなかった。
手を洗い、戻ろうとした時、携帯がなる。
川島からだった。
1度、鏡に映る自分を見た。
酷い顔をしている。何かに怯え、今にも逃げ出してしまいそうな。
それに、病んでいるようにも見えた。
手を洗った手で顔を叩き、電話に出る。
「もしもし、川原井ですが」
『川原井さんですか?川島です』
「今更敬語かよ。気にしなくていい」
『じゃあ遠慮なく。
死体の解析が終わったって情報が入ったんです。
でも、犯人が自首してきた時間と死亡した時刻が合わない。
殺した時間から自首した間に1時間半もあって』
「1時間半も?」
『はい』
川原井は少し考えてから答えた。
あくまでも推定の話。
実際はどうなのか分からないが、調べてもらったのなら信用する価値はあるかもしれない。
「分かった、何かに繋がるかもしれない。
情報提供に感謝する」
そう言って電話を切った。
取り調べ室に戻るまでの少ない道のりで川原井は考えを蜘蛛の巣のように張り巡らせる。
1時間半。
かなりの時間があった。
その間に奴は何をしたのだろう?
考えられることはある。
今、無差別殺人をしている共犯者を自宅に招き入れ、計画を企てていたというもの。
しかし、そうなると自首してきた意味が分からない。
共犯者は人を殺しているという事実がハッキリとしているのに対し、志村は発言のみ。
本当に奴は人を殺したのだろうか?
そんな変な考えが頭の中に飛び交い、頭を掻きむしる。
一応の報告、資料の見直しも含め、1度取り調べ室に戻るのを後にすることにした。
白鷺にも報告をしなくてはと思ったのだ。
報告なんてすることもないが、嫌な基準でいえば、そちらの方が取り調べ室に戻るよりも低かったというだけ。
刑事として有るまじき行為だと川原井は感じたが、精神状態が落ち着かない状態で志村と対面しても飲み込まれてしまうだけだと言い訳を繰り返した。
先程の鏡で見た自分を理解したから尚更だ。
白鷺のところには1人の刑事が来ていた。
ものすごく嬉しそうな形相で話している白鷺を見て川原井は驚く。
彼が楽しそうに話してくることなんて少ないからだ。
ましてや、事件が解決していない今となっては奇跡に近いのではないのか?
だが、もう片方の刑事は目の色を変えずに話している。
スラッと175cm以上はあると見える身長。
整った容姿で、メイクをすれば女性に見えるかもしれないと思えた。
髪はセンターパートできちんと整えられている。
川原井が近くに来ると、2人とも気がついて体を自分の方へと向けた。
その刑事は自分に話しかけてきた。
「君が川原井くんかな?」
男の刑事は自分と年齢は変わらなそうに見える。
だからこそ、少し上からの対応にムッとしたのだ。
「はい」
「川原井、警視庁捜査1課の黒崎さんだ」
「黒崎真尋といいます」
そう言うと黒崎は少し頭を下げた。
警視庁捜査1課?
自分と歳の変わりそうもない人間がそんな立場に…。
おそらくは相当優秀だと見える。
自分との能力の差に心底ガッカリしたのと同時に妬ましさすら覚えた。
だが、川原井は、待てよ、と頭を整理する。
捜査1課の刑事が来たということは、もう自分が取り調べを担当しなくてもいいのではないか。
そう思うだけで心がどれだけ軽くなったことか。
今、鏡で自分の顔を見たのなら、恐ろしく安堵した表情を浮かべているに違いないと思った。
川原井は話を切り出す。
「あの、取り調べの方は…」
「川原井さん、あなたが続けてください」
「はぁ…」
表紙抜けた声を思わず出してしまい、白鷺に睨まれ、すいませんと頭を下げる。
風もないのに、サラサラと何かが風に飛ばされてしまうような幻聴が聞こえた。
「あの、すいませんが、なぜ私が取り調べを続けるのでしょうか?」
「そうですよ、黒崎さん。
コイツは今のとこ、なんの成果も出していません。
黒崎さんが変わった方が懸命かと」
川原井も大いに賛成だった。
自分の能力が低いと言われるのは癪に障るが、事実だと受け止めなくてはならないこと。
1番は、もう取り調べをしたくはなかったのだ。
終われると思ったことがフラグにでもなってしまったのだろうか?
希望が絶望へと変わってしまった。
サラサラと聞こえた音は、自分の中にある安心が砂と化し、風に飛ばされてしまう音だったのだ。
一刻を争う自体なので、言われた通り、取り調べ室に川原井は戻らなくてはならない。
重い足取りで向かう。
途中で後ろから声をかけられた。
「川原井さん」
振り返ると、ゆっくりと大きく歩きこちらに近ずいてくる黒崎の姿があった。
足取りは堂々としていて、言葉は彼を引き止めるように聞こえたのに、近ずく様子は余裕があるように見えた。
ある程度近ずいたところで黒崎は止まる。
「私があなたを取り調べに選んだのには理由があります。先程は何も言わずに取り調べをお願いしてしまったので、話しておかなければいけないと思いまして。
会話の内容はパソコンを通して見させてもらっています。
志村はあなたとの会話を楽しんでいるように思えました」
「それが、事件解決に役立つと?」
半ば、強めに責める口調で言った。
黒崎が言ったことが理解できないからだ。
「根拠はありません。
ですが、今起きている事件は無差別。
ヒントなしじゃ探しようがありません。
志村がヒントを出してくれるかは分かりませんが、彼が自首してきた意味がまだ分からない。
彼があなたと話していて、楽しくなってつい、ボロを出してくれればと思ったんです」
「黒崎さん。
志村は本当に、殺人犯なのでしょうか?」
自分でも何を言っているのか分からなかった。
言った本人が1番キョトンとしている。
逆に、黒崎の方は話を真剣に聞いているようだった。
動いていないのに、グイッとせめ寄られた感覚になる。
「それは、何故ですか?」
「あ、いえ、私の勝手な見解です。
自首してきて…殺したと本人は言っていますが、それを確定させる証拠はないように思えて。
今、無差別殺人を行っている奴の方が、殺しをしたと確定していますし」
「では、川原井さんは、志村が罪を被っているのだと言いたいんですね?」
「はい…。」
「では、無差別殺人を行っているやつが、仮に犯人だったとして、志村が自首をした後に、なぜ人を殺しているのか」
川原井は自分が変な見解をしていたことに気がつく。
言われてみればそうだと思った。
自首をして捕まったのなら、それだけでいいはず。
無差別殺人をする意味がない。
やはり、自分は優秀に見せかけた、ただの刑事にすぎないのか。
悔しさすら、産む元気が川原井にはなかった。
「すいません、勝手な憶測です」
「いえ、1意見として考えておきます。
やつの狙いにハマるかもしれませんし。
気をつけてくださいね。
彼にあまり飲み込まれないようにしてください」
頷いて戻ろうとした時、もう一度、引き止められた。
「あの、川原井さん。
先程は「くん」とつけてしまい申し訳なかったです」
「え、あぁいや、気にしてませんよ」
「そうですか?
かなり、目の色が変わったので、気に触ったのかと」
ほんの一瞬の出来事だけで、そこまで見抜かれていたとは、と関心する。
それと同時に、彼が優秀な意味を理解することができた。
スっと目を逸らして逃げるように取り調べ室へと川原井は歩いていった。




