09. 隠された痛みと訝しむ視線
翌日の昼下がり。太陽が少しずつ西へと傾いている頃。
早朝に宿場町を出た私たちは、正規の街道から外れた迂回路を歩いていた。
――ザクッ、ザクッ。
彼の革靴が乾いた砂利を踏みしめる音だけが空気を揺らす。
服を着替え、宿で足を休めたことで昨日ほど身体は重くなかった。
だが、その代わり。
歩き始めてから数時間経った今、右の足裏全体が痛みだしていた。
「坂がきついだろうが我慢しろ。この山さえ抜ければあとは楽になるはずだ」
数歩前を行くリカーの言葉は相変わらずぶっきらぼうだ。
だが、最初の頃に比べれば幾分か声色は柔らかくなっている。
私は短く「はい」と答えて、歩くことに集中した。
痛む右足を庇うため、右手を手近な岩肌に沿わせ体重を預けながら進む。
呼吸は乱れ、額にはじわりと嫌な汗が滲んでくる。
きついという彼の言葉通り、この山道は過酷だった。
急な斜面と不規則な岩場が続き、足に負担をかけてくる。
だが、今の耐え難い痛みの最大の原因は、山道の険しさそのものではなかった。
今朝がた宿を出る前に、リカーが渡してきた新しい靴だ。
『そんな踵が高い靴じゃ山を越えるのは無理だ。こいつに履き替えろ』
そう言いながら彼がくれたのは、厚い牛革でできた頑丈なブーツだった。
確かに今まで履いていたヒールは、泥と水に塗れボロボロになっている。
それに、山道を登るには向いていなかった。
彼は私の足元を見て、わざわざ靴を用意してくれたのだ。
彼が、私のために買ってくれた靴。
それを受け取った時は飛び上がるほど嬉しかった。
けれど。
宿場町の市場で適当に見繕われたそのブーツは、私の足には合わなかった。
大きさは一回り以上も大きく、中で足が前後に滑る。
その度に、ざらざらとした荒い革の中敷きがやすりのように足裏を削ってくるのだ。
せめてもの抵抗でつま先立ちで歩こうと努力してみた。
だが、急な斜面が続く岩場をその不自然な体勢で歩き続けるのは不可能だった。
結局数十分で諦め、普通に歩くことにした。
最初は、じんわりとした熱を持つ程度だった。
それが、数時間休まず歩き続けた今。
水ぶくれが破れ、生皮が剥がれるような激痛へと変わっていた。
――痛い。
さながら鋭い針の山の上を裸足で歩かされているような気分だ。
靴の中で、生暖かい液体が滲む感覚がある。
間違いなく血が流れている。
靴下はすでに赤く染まっているはずだ。
靴が合わなくて痛いと言えばそれで済む話ではある。
彼ならばきっと文句を言いながらも、何かしらの処置をしてくれるだろう。
頭ではわかっている。わかっているのだが。
その言葉を口にすることはどうしても躊躇われてしまった。
彼に迷惑をかけたくないという気持ち。
これしきで音を上げたくないという意地。
何より、これは彼がわざわざ私を気遣って買ってくれた贈り物なのだ。
その優しさを無下にすることなど、私には絶対にできなかった。
「……チッ、馬さえ使えりゃあ数倍速えんだがな」
前を歩くリカーが立ち止まり、眼下に見える正規の街道を見下ろした。
そこには豆粒のようだが、銀の鎧を着た騎士たちの姿が何人も確認できる。
彼らは数人ずつまとまり、何かを探すように忙しなく動いていた。
「犬共が街道を塞いでる以上、仕方ねえ。……お嬢ちゃん、息上がってんぞ。少し休むか?」
「い、いいえっ。大丈夫、まだ歩けます」
私が慌てて首を振ると、彼は訝しげに目を細めた。
甘えは捨てたのだ。
ここで私が弱音を吐いて休む訳には行かない。
彼のためにも、一刻も早くグレイフォールまで辿り着かなければ。
「……強がんじゃねえよ。顔、真っ白になってんぞ」
彼は溜息をついて私の前まで戻ってくると、革の水袋を乱暴に押し付けてきた。
「ほら、水飲め。ただし一気に飲むなよ」
差し出された水袋を受け取り、私はその注意に従ってゆっくりと水を口に含んだ。
ひんやりとした水が、乾ききっていた喉を潤していく。
私が飲み終わるのを確認すると、彼は水袋を自分の手に戻した。
そして自分が口をつける前に、自身の袖で飲み口をキュッと綺麗に拭った。
そんな誰かに仕えることを前提とした癖を見るたびに、胸の奥が疼いて仕方ない。
「ありがとうございます。少し楽になりました」
「……お前、本当に大丈夫か? さっきから足音が変だぞ」
「岩場に慣れていないだけですよ。ほら、行きましょう。早く追っ手を撒いてしまわなきゃ」
私は痛みを訴える足に無理やり鞭を打ち、自ら進んで歩き出した。
彼は私のことを、文字通り自身の命を削って守ってくれているのだ。
私がこれしきの痛みで立ち止まり、足手まといになるわけにはいかない。
──泣くな。甘えるな。
女王として、必ずこの国を取り戻す。
その誓いを果たすまでは、弱音など絶対に吐けない。
だが、私のそんな決意を嘲笑うかのように、山道は険しさを増していった。
登り坂から一転し、足場が崩れやすい急な下り坂へと変わる。
その斜面を下るたびに、大きすぎる靴の中で足が前へと滑った。
傷ついた足裏が硬い革に激しく擦り付けられる。
「……っ!」
声にならない悲鳴が、何度も喉の奥で押し殺された。
靴の中は、もう完全に血で濡れている感覚がある。
きっと酷い有様になっていることだろう。
体重をかけるたびに焼けた鉄を押し付けられているような感覚に襲われる。
痛みを誤魔化すために強く噛み締めていた下唇から血の味がしてきた。
「──おい、お嬢ちゃん」
「っ、え……?」
不意に呼ばれ、私はハッとして顔を上げた。
少し先で立ち止まったリカーが、振り返ってこちらをじっと見ていた。
彼の背後には、大人の背丈ほどもある切り立った岩の段差が口を開けている。
「ここから先は、さらに足場が悪くなる。足元に気をつけろ」
「わ、わかりました」
私が頷くのを見ると、彼はトンッと地面を蹴って岩の下へと飛び降りた。
そして下から私を見上げ、顎をしゃくって先を促す。
「お前も早く来い。このくらいの段差なら手ェ使えば降りれるだろ」
「……え?」
その彼の指示にさーっと顔を青くする。
確かに普通ならば、そこまで高くはない段差だ。
容易に降りることができるだろう。
だが、今の状況だと話が変わる。
たとえ手を使ったとしても、着地の瞬間に全体重が足裏にのしかかる。
今の傷だらけの足でその衝撃に耐えられる自信など、到底なかった。
――それでも、やるしかない。
ここでモタモタしていれば、彼に怪しまれてしまう。
私は意を決して息を吸い込み、崖の端に手をかけ左足から降りようとした。
そしていざ身体を浮かせた時。
右手をかけた場所が、ぼろっと崩れた。
バランスを崩した身体は右足から地面に落ちてしまった。
ドンッと着地した右足から凄まじい激痛が走り、目の前が真っ白になる。
「……っ! ……っ!!」
悲鳴は、何とか抑えることはできた。
だが、痛みのあまり膝の踏ん張りが全くきかず、その場に蹲ってしまった。
呼吸ができず、嫌な汗が吹き出す。
全身が小刻みに震えているのが自分でもはっきりとわかった。
「おい、大丈夫か!?」
私の様子が明らかにおかしいことに気づいたのだろう。
リカーが焦ったようにこちらへ向かってくる足音が聞こえる。
早く、彼に大丈夫だと答えなければ。
「……大、丈夫です! 来ないでくださいっ!」
焦りと痛みのあまり言葉を間違え、語気も強くなってしまった。
やってしまった。
言い放った直後に後悔したが、取り消すことなどできない。
私のすぐ後ろまで迫っていた足音がピタリと止まった。
──泣くな、甘えるな。
自身に課した言葉が、再び頭をよぎる。
そうだ。彼に寄りかかっているだけの自分は、もう嫌なのだ。
彼の重荷になりたくない。
私は左膝に手をかけて、勢いよく立ち上がった。
くるりと身体の向きを反転させ、数歩前で立ち止まっている彼に話しかけた。
困ったような笑顔をつくり、何でもないように装う。
「心配をおかけしてしまいすみません。その、バランスを崩して……少し驚いちゃっただけ、なんです。もう大丈夫ですので、早く先に進みましょう」
そう言って足を踏み出した私だったが、二歩目が続くことはなかった。
腕をがっと掴まれ、強制的にその場に静止させられる。
「……っ、痛っ。何を──」
「……お前から、ひどい血の匂いがする」
その言葉に、私は思わず肩を跳ねさせてしまった。
彼の顔を見ることができなくなり、俯いたまま固まってしまう。
彼は感情を押し殺したような低い声のまま、静かに続けた。
「なあ。……何か俺に隠してること、あるんじゃねえか」




