10. 彼女の意地と月夜の静寂
「なあ。……何か俺に隠してること、あるんじゃねえか」
空が赤く染まりつつある、荒涼とした山の中で。
私の前に立ちはだかったリカーの声が、風に乗って明瞭に聞こえてくる。
見透かされている、と思った。
それでも、彼がくれた靴のせいだなんて言いたくはなかった。
言えばきっと、彼は自分自身をひどく責めるに決まっているから。
私はそっと息を吐き、意を決して顔を上げた。
「……隠してることなんて、何も無いですよ」
私は震えそうになる声を必死に押さえ込み、彼から目を逸らさずに告げる。
美しくあれ、自立した存在であれ。
そんな王族としての矜持と、初恋の騎士様に情けないと思われたくないという意地が混ざり合う。
「本当です。ただ岩から落ちて、びっくりしただけなんです」
私はひどく困ったような笑顔を貼り付け、もう一度強く言い切った。
リカーは眉根を深く寄せたまま、数秒間、無言で私を見つめていた。
冷たい山風が吹き抜け、乾いた砂埃が私たちの間を通り過ぎていく。
「チッ……今日はここまでにするぞ。もう日が落ちる。この先の岩陰で野営の準備をするから、そこまでは歩け」
やがて、彼は短く舌打ちをしたあと、諦めたように背を向けた。
私はそれにほっとして了承の返事をしてから大きく息を吐き出す。
そして、じくじくと主張してくる右足の痛みに顔を歪めた。
彼を騙し通せたわけじゃないのはわかっていた。
血の匂いに敏感な彼が、私の足元の惨状に気づいていないはずがないのだ。
彼はただ私が頑なに口を閉ざしたから、追求を保留にしただけだ。
◇◇◇
岩陰に着き、野営の準備を終えた頃には、辺りは真っ暗になっていた。
巨岩が風を遮る窪地には小さな焚き火が熾され、パチパチと音を立てている。
赤々と燃える炎が前を温めてくれるが、風が吹くとやはり寒さの方が勝る。
買ってもらった麻のワンピースと外套だけでは、少し心もとなかった。
私が小さく身震いをしたのを見ると、彼は宿場町で買ったのであろう毛布をこちらへと放り投げてきた。
「強がるなって言っただろ。寒いなら寒いって言え、アホか」
ぶっきらぼうにそう悪態をつくと、彼は立ち上がって私を見下ろしてきた。
焚き火の爆ぜる赤い光が、彼の険しい表情を不規則に照らし出す。
その瞳には自分の不甲斐なさを噛み殺すような、ひどく暗い色が混じっていた。
「……少し、周囲の様子を見てくる。それ被って、火のそばから絶対離れるなよ」
「わかりました。暗いから気をつけてくださいね」
にこりと笑って伝えると、彼は眉間に皺を寄せてこちらを見てきた。
何か言いたげな、ひどく複雑な表情で数秒そのまま止まる。
そして小さくため息をつくと、無言で暗闇の奥へと歩いて行った。
ザク、ザクという彼の足音が完全に遠ざかり、姿が見えなくなるのを待つ。
それを確認したあと、そっと痛む右足を自身の身体へと引き寄せた。
そのまま、震える手でブーツに手をかける。
彼がいない今のうちに、足の状態を確認しなければ。
少しでも痛みを和らげる処置をしなければ、明日はきっと歩けない。
「……っ、あ……ぅっ」
硬い牛革のブーツを脱ごうとした瞬間、声にならない悲鳴が漏れた。
脱げない。完全に固まってしまっている。
剥がれた生皮と大量に流れた血が硬い革の内側にべったりと張り付いているのだ。
私はその事実に一瞬絶望したが、すぐに切り替えて決意を固めた。
こうなったら無理やりにでも、ブーツを足から引き剥がすしかない。
力任せに引き抜くと、メリッという嫌な音がした。
それと同時に、逃げ場のない激痛が襲ってくる。
無数の針で内側から神経をズタズタに引き裂かれるような焼けるような痛み。
あまりの衝撃に目の前が白くなり、指先は石のように強張って動かなくなる。
焚き火の明かりに照らされた足裏は、靴下が破れその酷い様相を露にしていた。
全体が赤黒く腫れ上がり、痛々しいほどに肉が剥き出しになっている。
私は顔をしかめながら、ワンピースの裾を少しだけ引き千切った。
そして、傷口に当てて縛ろうとする。その時だった。
彼の足音が、暗闇の奥から近づいてくるのが聞こえてきた。
「――っ!」
あまりにも早すぎる。
私は絶望に歯噛みしたが、彼はただのならず者ではなく超一流の護衛なのだ。
危険な山中で護衛対象の傍を離れる時間が、最低限なのは当然のことである。
自分の迂闊さを呪いつつ、私は咄嗟に引き千切った布を足裏に当てた。
そして、血まみれの右足をブーツの中へと強引に押し込んだ。
「……あ、ぐっ……!!」
傷口が硬い革に擦り付けられ、思考を飛ばしそうになるほどの激痛が走る。
泣くな、甘えるな。
その言葉を何度も繰り返しながら、必死に表情を取り繕う。
目をぎゅっと強く閉じて痛みを腹の底に飲み込む。
そして、何事もなかったかのように焚火の前に座り直した。
「……戻ったぞ。周囲に犬共の気配はねえ」
暗闇から姿を現したリカーは、焚き火を挟んだ向かい側に腰を下ろした。
そして、手にしていた乾いた薪を、炎の中へと無造作に放り込んだ。
「お疲れ様です。いつもありがとうございます」
「……」
リカーは何も言わず、炎越しに私を見つめてきた。
長く、重い沈黙が続く。
枝が爆ぜる音と山風が岩を撫でる音だけが、やけに大きく耳の奥で響いた。
「リカー? どうしたんですか?」
「なあ。……本当に、何も隠してねえのかよ」
その声は低く落ち着いていたが、少し震えているようにも感じた。
彼は決して声を荒らげて怒鳴りもしない。
私の足元を無理やり確かめようと、力ずくで押さえつけることもしない。
無言で、私の瞳の奥を真っ直ぐ射抜くように見つめ続けている。
嘘をついているのは分かっている。
頼むから、お前自身の口から言ってくれ。
言葉に出さずとも、その目は何よりも雄弁に私に語り掛けてきていた。
「本当に……何も無い、ですよ」
私は毛布の下で両手を固く握りしめ、彼の視線から逃げずに答えた。
明確に拒絶し、否定する。
その瞬間、彼の瞳はひどく戸惑ったように揺れた。
眉間の皺がさらに深く刻まれる。
「……そう、かよ」
永遠にも似た沈黙の後。リカーは、ふいっと視線を外した。
木の枝を更に焚火に追加しながら、彼は静かに言葉を紡ぐ。
「依頼主のお前がそう言い張るなら、俺はその意思を尊重する。ここなら犬共もそう簡単には追いつけないからな。……だが……」
彼は両手を組んで膝の上に置き、自身の額を組んだ手に当てて深く俯いた。
重々しく空気を吸い込み、自らの無力さを噛み締めるように吐き出す。
「いや……。何でもない」
彼の肩はわずかに震え、隠しきれない苦渋が滲んでいた。
膝の上で組まれた彼の拳も、白くなるほど強く握りしめられている。
数秒の葛藤の後、彼は小さく息を吐き、元の用心棒の仮面を被った。
「なら、もう寝ろ。明日の山下りは、今日よりさらに険しい道になる」
「はい……。おやすみなさい、リカー」
彼はそれ以上何も言わず、岩肌に背を預けて深く目を閉じてしまった。
そのひどく寂しげな横顔を見つめながら私は手元の毛布を引き寄せる。
靴の中で、雑に縛った傷口がズキズキと熱を持って激しく脈打っている。
痛い。気が狂いそうなほど痛い。
だが、この痛みは、不器用な彼が私を守ろうとしてくれた証だ。
私は絶対に、この血塗れの足で最後まで歩き抜いてみせる。
彼に荷物を背負わせるだけの、無力なお姫様には戻りたくない。
決意と意地を胸に、私は目を閉じた。
だが。
そんな私の虚勢は、翌日、最も残酷な形で打ち砕かれることになることを。
この時の私は、まだ知る由もなかったのである。




