08. 嘘つきの蜂蜜酒と確かな動揺
宿の裏手にある共同の浴場は、石造りの簡素で薄暗いものだった。
重い木戸を開けると、白い湯気とオリーブ石鹸の青臭い匂いに包まれる。
浴場にある大きな木桶でお湯を掬い、頭から勢いよく被る。
髪や肌にこびりついていた不快な泥。
夜の森で骨の髄まで染み込んでいた寒さ。
それらが綺麗に溶かされていく。
「……っ、痛……」
それと同時に、すりむいた膝や木の枝で切った腕の小さな傷がピリピリと痛む。
だが、その痛みすらも生き延びた証のように思えて、不思議と不快ではなかった。
王宮の滑らかな大理石の湯船。
専属の侍女たちが用意してくれていた、甘く香る薔薇の香油。
そんな夢のようなものは、ここには一切ない。
あるのはどこまでも過酷で理不尽な現実だけだ。
雨の中、王宮を飛び出してから三日経った。
外に出てからは全てが初めての経験で、精神的にも肉体的にも辛いのは事実だ。
だが、ここで立ち止まって泣き言を言っている暇はない。
私が歩みを止めれば、彼まで死なせてしまう。
私はごしごしと全身を擦り、自分の中に残っている甘えをすべて洗い流した。
一通り汚れを落として、脱衣所に戻る。
そして、リカーが用意してくれた簡素な麻のワンピースを手に取った。
飾り気がなく少し大きめの、村娘が着るような茶色い布地だ。
それに袖を通し、濡れた金髪を目の荒いタオルで適当に拭き上げる。
着慣れない布の感触に少しだけ戸惑いながら、私は宿屋一階に併設された酒場へと足早に戻っていった。
◇◇◇
酒場へ一歩入ると、むわっとした熱気が身体全体を包んだ。
店内は混んでおり、活気にあふれている。
給仕が銀トレーを持ちながらパタパタと店内を駆け回る音が、それを物語っていた。
無法者が集まる名も無き宿場町らしく、酸えたエールや香辛料の強烈な匂いが店内に漂っている。
私は足を止め、その喧騒の中から一つの背中を探し当てた。
店の一番奥。ランプの光が届かない、薄暗い死角になるテーブル席。
壁を背にしながら店内の動向を鋭く監視できるその場所にリカーはいた。
彼もまた、身体を洗ってきたのだろう。
擦り切れてボロボロだったシャツは、安物だが新しいものに変わっている。
顔の泥汚れもすっかり落ちていたが、無精髭はそのままだった。
「遅えぞ、お嬢ちゃん。湯船で溺れて死んだのかと思ったぜ」
「すみません、髪の泥を落とすのに少し時間がかかってしまって」
私がテーブルに近づくより早く、リカーがこちらを一瞥して皮肉を言う。
そして、言い訳をする私の姿を上から下まで確認したあと、ハッと笑った。
「ま、泥まみれよりかはマシになったな。んじゃ、とりあえず奥に座れ。壁側にだ」
彼に促されるまま、私は彼と向かい合う形で長椅子に腰を下ろした。
それとほぼ同時に料理が運ばれてくる。
分厚く切られた得体の知れない獣の肉と黒パン、そして濁ったスープ。
肉からはジュージューと脂が弾ける音が鳴り、刺激的な香辛料の匂いが立ち昇っている。
「食え。明日は険しい山を越える。無理にでも腹に入れとかねえと途中で確実に動けなくなるぞ」
「はい、いただきます」
私はリカーが渡してくれたナイフを握り、硬い肉に刃を立てた。
彼もまた、自分の皿の肉を無造作に切りながら、行儀悪く口に放り込んでいく。
無言で咀嚼する、二人だけの空間。
周囲の喧騒がまるで遠い世界の出来事のように感じられた。
食べながらちらっと彼を見る。
あの日から忘れられない、十年前の初恋の騎士様。
既に確信はしている。
そして彼が他人のフリをする以上、私から暴くことはしない。
――だが、彼があの人だという決定的な証拠が欲しかった。
ドクドクと暴れる心臓の音を必死に抑え込みながら、私は好機を伺った。
肉を食べ終わったリカーが、手元の木製ジョッキに手を伸ばし、中に入った安物のエールをゴクゴクと煽っている。
油断している今がその時だと思い、静かに話を切り出した。
「ねえ、リカー」
私は努めて穏やかに、世間話でもするかのようなトーンで切り出した。
エールを飲み下す音が一つ響く。
「昔ね。内緒で私に蜂蜜入りのミルクを作ってくれる……嘘が下手で、とっても優しい騎士様がいたの」
その言葉で得られた反応は、明らかなものだった。
たった数秒ではあるが、リカーの身体が完全に硬直したのだ。
無精髭に覆われた顎がこわばり、喉仏が小さく上下する。
わずかに開かれた唇の間から、吸い込みかけた空気が行き場を失って漏れた。
動揺を隠すように、彼はテーブルに木製のジョッキをゆっくりと置く。
その手も、ほんの少しではあるが震えを伴っていた。
沈黙が、痛いほどにテーブルを満たす。
やがてリカーは大きく息を吐き出した。
そして、何もなかったかのように、ひどく抑揚のない声で答えた。
「……そいつはさぞかし情けなくて、頼りない騎士様だったんだろうな」
彼はそう吐き捨てると、わざとらしく視線を店の入り口の方へと逸らした。
絶対に、私と目を合わせようとはしない。
彼が吐き出した溜息が、空気に溶けていく。
私はそっと顔を伏せた。
本人とはいえ、昔の騎士様のことを悪く言われ、傷つかなかったかと言えば嘘になる。
少しの間、私たちの間に気まずい空気が流れた。
彼はそれに耐え切れなくなったらしく、ガタッと音を立てて立ち上がった。
そして、徐に近くの給仕の元へ向かい声をかけたのだ。
「おい、そこの」
「は、はい! どうしました?」
「……ミルクはあるか。温めたやつだ」
「……はい? えぇっと、それは──」
注文を聞いた給仕は、耳を疑ったように聞き返そうとした。
凡そこの酒場では聞かないような注文だったからだ。
しかし、リカーの眉間に刻まれた深い皺。
それに威圧するように組んだ腕を叩く指の動きを見て、慌てて言葉を飲み込む。
「あっ、な、なんでもありません! や、山羊の乳ならいくらでも用意できます」
「なら、一つ持ってきてくれ。できるだけ早く、だ」
「ひっ……かしこまりましたっ!」
逃げるように厨房へ戻った給仕の背中を見送りながら、私は目を丸くした。
驚きのあまり手に持っていたナイフを止め、じっと彼を見つめる。
リカーは私の痛いほどの視線に気づいているはずなのに、頑なにこちらを見ようとはしなかった。
──それから待つこと数分。
先ほどの給仕が湯気を立てる木製のマグカップをおずおずと運んできた。
彼はそれを無言で受け取ると、私の前に押しやってくる。
「…………ほらよ」
「え……これ、私に?」
「お前以外に誰が飲むんだよ……」
彼はぶっきらぼうにそう吐き捨てると、腕を組んで深く椅子に背を預けた。
相変わらず、視線は酒場の入り口付近に向けられている。
「……ふ、ふふっ。あははっ」
「おい、なんだよ。急に笑い出して……」
気がつけば、私の口から自然と笑い声が漏れていた。
その声に反応して、ようやくリカーがこちらを見た。
不機嫌そうに眉を寄せて仏頂面をしている。
だが、私は気づいてしまった。
薄暗いランプに照らされた、彼の顔。
その無造作に伸びた髪の隙間から覗く耳の先だけが、真っ赤に染まっていることに。
「ねえ、リカー」
「……なんだ」
「ありがとうございます。とっても美味しそうですね」
私は笑いながら、温かいマグカップを口元へと運んだ。
一口飲むと山羊乳独特の強い風味と、少し焦げたような匂いが鼻を抜ける。
正直に言えば、決して美味しいとは言えない野性味溢れる味だった。
けれど、これまで生きてきた中で飲んだどんな飲み物よりも甘く感じられた。
「……甘くもなんともねえだろ、そんな安物」
「いいえ、これで十分です。冷え切った体には何よりのご馳走ですよ」
私はもう一口、ゆっくりと噛み締めるように味わいながら飲み込んだ。
その温かさが、三日間の過酷な逃亡生活で擦り切れていた神経を優しく解きほぐしていく。
「お前、本当に世間知らずのお嬢ちゃんかよ。こんなもん飲んで笑ってやがるなんて……」
「世間知らずだからこそ、なんでも新鮮に楽しめるんです。それに──」
呆れたような彼の声からは、先ほどまでの刺々しさがなくなっていた。
私はそんな彼に向けて、満面の笑顔を向けた。
「あなたが用意してくれたものなら、なんだって嬉しいんです」
「……っ、調子狂うこと言ってんじゃねえ」
リカーはその笑みを見て居心地が悪そうに眉根を寄せる。
そして、手元のジョッキを乱暴に手に取り、残っていた安酒を一気に煽った。
視線を逸らしてエールを煽る彼の耳の先は、まだ微かに赤みを帯びたままだ。
酒場は夜が更けるにつれて、さらに騒がしさを増していく。
私たちはそれ以上言葉を交わすことなく、ささやかな晩餐を楽しんだのだった。




