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07. 彼女の微睡みと秘密の合図

 




 太陽の光が地平線の彼方に見え始めてきた頃。

 延々と続いていた森の木々が途切れ、視界がふっと開けた。


 むせ返るような腐葉土と湿った苔の匂いが別の匂いへと変わる。

 安い薪が燻る煙の匂い、焦げたような串焼きの匂い。

 それらが目的の宿場町に着いたことを何よりも雄弁に伝えてきていた。



「着いたぞ、宿場町だ。……ま、正式には町ですらねえけどな。国に認められてねえ無法者やゴロツキの吹き溜まりだ。追っ手の目を誤魔化すにゃちょうど良い」



 彼のその声を聞いた瞬間、安堵からか私の膝からカクンと力が抜けた。

 危うく汚水まみれの地面に座り込みそうになる。


 極度の緊張と、連日の強行軍。

 王宮の柔らかい絨毯しか知らなかった私の足は、泥と擦り傷にまみれ、とうに限界を超えていた。



「おい、しっかりしろ。こんなところで倒れたら、ただの野垂れ死にだぞ」

「……っ、はい、わかって、います」



 リカーの手が私の腕を掴み、強引に引き上げる。

 私は痛む足を動かし、彼の背に隠れるようにして寂れた宿場町の門をくぐった。

 すれ違う傭兵や行商人たちの、値踏みするような視線が刺さる。

 彼の外套を着ていても、足元から出るドレスの裾までは隠しきれないからだろう。


 それに気づいた彼は低く舌打ちし、私の肩を抱いて足早に大通りから離れた。

 そして路地裏にある、古ぼけた二階建ての宿屋の扉を開けた。



「部屋を一つ、人数は二人だ。余計な詮索はすんな。……明日にはここを出るから面倒はかけねえよ」



 リカーは宿屋の主人の胡乱げな視線を、ドスの効いた声でねじ伏せた。

 カウンターに銀貨を置き、引き換えに錆びた鍵を受け取る。



「ほら、行くぞ。足元、腐ってるから気をつけろ」



 ギシギシと不快な音を立てて軋む階段を上る。

 二階の部屋は、大人四人がぎりぎり並んで寝れるほどの空間だった。

 傾いた小さな窓と、木造の古いベッドが二つ置かれている。



「とりあえず今日のねぐらはここだ。犬共もこのゴミ溜めまでは鼻が利かねえだろうよ」



 リカーは私が部屋の奥に入るのを確認すると、再び扉のノブに手をかけた。



「それじゃあ俺はこの先必要なものを買ってくる。お前が着る目立たねえ服とか、日持ちする食料とかもな」

「あ……待って、私も行きます――」

「いや、駄目だ。お前、今自分がどんだけ酷い顔色してるかわかってんのか」



 咄嗟に着いていこうとした私を制止し、彼は大きくため息をついた。

 そして私の近くまで大股で歩いてくると、ひょいと私の身体を担ぎ上げたのだ。



「きゃあっ……!?」

「とりあえず、まず寝ろ。たった数日でも、お嬢ちゃんにはそれなりに堪えたろうからな」



 そのまま二歩移動し、カビ臭いベッドの上へとぼすっと落とされた。

 ベッドに手をつき、不満をあらわにして彼を見る。

 それでも彼が意見を変えることはなかった。



「ここは危険だ。俺がいない間、誰が来ても絶対に扉を開けるなよ」



 冷たく厳命するような言葉。

 だが、それとは裏腹に彼は私を寝かせ、毛布を私の肩までかけてくれる。

 一瞬だけ額に触れたその手は、熱がないか確かめているように感じた。



「俺が戻った時は合図をする。短く二回、少し置いて一回だ」



 彼は言葉と同時に、近くの壁を指の背でトントン、トンと叩いてみせた。

 乾いた木の音が、静まり返った室内に反響する。

 私はそのリズムを忘れないよう、頭の中で何度も反芻した。



「それ以外の不規則な音が鳴った時は無視しろ。無理やり踏み込んできそうな気配を感じたら、窓の板を蹴破ってでも一人で逃げろ。いいな?」

「短く二回、少し置いて一回……ですね。分かりました」



 私の返事を聞き届けると、彼は短く頷いて扉の向こうへと消えていった。

 扉が閉まり、室内がしんと静まり返る。


 ──短く二回、少し置いて一回。


 そのリズムを心の支えにするように、私はベッドの中で丸くなった。

 まぶたが鉛のように重い。


 次にあの扉がノックされる時、どうか彼の合図でありますように。

 祈るような思いを抱えたまま、私は眠りについたのだった。




 ◇◇◇




 視界が、白く柔らかな光に包まれている。


 そこは、王宮にある美しい庭園だった。

 手入れされた色とりどりの薔薇が咲き誇っている。

 その日、幼い私は王宮の厳しい授業に耐えかねて部屋から逃げ出していた。

 庭園の隅の方で小さく丸まり、一人で泣いている。



『──見つけましたよ、姫様』



 そんな静かで落ち着いた声とともに、私の上に影が落ちた。

 ガチャリと白銀の甲冑が触れ合う金属音がする。

 それが、迎えに来たのが彼だということを悟らせた。



『……リカルド、様……』



 太陽を背にして立ち止まったその人は、長い脚を折り曲げて目の前に跪いた。

 そして、剣ダコのある手のひらで私の頭を優しく撫でる。



『どうしてこんな所に隠れているのですか。家庭教師の先生方が、お城中を血眼で探しておいでですよ』

『……だって。だって、嫌なんだもん!』



 私は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、思い切り唇を尖らせた。

 溢れ出した涙が頬を伝い、ドレスの袖を濡らしていく。

 私は小さな拳を握りしめ、八つ当たりするように彼を睨んだ。



『刺繍の授業なんて、指に針が刺さって痛いだけだわ! 歴史の暗記だって、昔の王様の名前なんて覚えたって何にもならないじゃない! もう授業になんて戻りたくない!』



 駄々をこねる私を、彼は咎めることもなく慈愛に満ちた瞳で見つめていた。

 困ったように眉尻を下げながら、柔らかな微笑を浮かべている。



『姫様は、この国の未来を背負って立つ大切なお方です。今は辛くとも、そのお勉強がいつか必ず、姫様ご自身を助ける盾となるのですよ』

『王女様になんてならなくていい! ずっとお勉強ばかりで、誰も私とお外で遊んでくれないもの! いっそこのまま、お城から出ていきたい……!』

『……うーん、困りましたね。それほどまでに思い詰めておいででしたか』



 そう言うと、リカルド様は私の手を包み込むように握りしめた。

 手袋越しに、彼の体温が伝わってくる。

 その掌は日向のような温かさに満ちていた。

 彼がいつも身に纏っている白檀ムスクの香りが鼻をくすぐる。



『それなら──授業に戻るよりも先に、まずは姫様の心を慰めた方が良さそうですね』



 彼はそう言うと、私の身体を両腕でふわりと抱き上げた。

 その胸から聞こえてくる鼓動は、とても心地よい一定のリズムで鳴っていた。


 そうして内緒で案内されたのは、彼がいつも書類仕事をしている部屋。

 すなわち、近衛騎士団長の執務室だった。



『ここで少し、待っていてくださいね』



 そう言って出ていった彼は数分後、小さな木製のマグカップを持ってきた。

 ふわりと立ち昇る、甘くとろけるような花の香り。

 それは、大人たちがよく飲んでいる黄金色の飲み物と同じ匂いがした。



『これは……お父様たちが飲んでる、お酒……?』

『ふふっ。さすがに本物のお酒は、姫様には少し早いですよ』



 彼はくすくすと上品に笑うと、私に温かいマグカップを差し出した。

 私の手を取り、両手でしっかりと握らせる。



『いつも頑張っている姫様へ、私からの特別なご褒美です。温めたミルクに、たっぷりと蜂蜜を溶かしてあります』



 彼は悪戯っぽく微笑むと口元に人差し指を立てた。

 そして、私に向かって片目をつぶってみせる。



『本物の蜂蜜酒ハニーミードは、いつか立派な大人になった時に私がお酌いたしましょう。今はこれで我慢してください。……このことは私と姫様、二人だけの秘密ですよ』



 一口飲むと、ミルクの優しい甘さと温かさがじんわりと広がっていく。

 授業の辛さも、寂しかった心も、全部その甘さが溶かしてくれた。


 マグカップ越しに見上げた彼の瞳。

 それは、まるで澄み切った青空を映したかのように美しかった。


 大好きな私の騎士様。

 いつか大きくなったら、貴方のお嫁さんになりたい。

 幼い私がそう無邪気に願うほど、彼は誰よりも私を甘やかし守ってくれていた。




 ◇◇◇




 まぶたを開き、私はゆっくりと現実の世界へと意識を引き戻した。

 甘い蜂蜜と薔薇の香りはどこにもない。

 代わりに鼻を突いたのは古ぼけた宿特有の埃と、淀んだカビの匂いだ。


 薄暗い宿屋の部屋。

 窓から差し込む夕日に目を細める。

 そっと顔を入口の方に向けると、扉の前に彼は座っていた。


 その手には何かを持っている。

 手のひらサイズのそれは、西日を浴びて鈍く銀色に輝いているように見えた。


 私が上半身を起こすと、彼はハッとしてそれを革袋の中に入れこちらを向いた。



「……起きたか、お嬢ちゃん」



 リカーが顔を向けてくる。

 手入れもされていない泥だらけの無精髭に、無造作に伸びた銀髪。

 口が悪く安い煙草の匂いを纏った、スラムの底辺を這いずる用心棒。


 けれど、その奥で静かに光る藍玉色の瞳。

 それはあの白銀の騎士の瞳と、寸分の狂いもなく同じ色をしている。



「リカー」



 私は寝起きの掠れた声で、彼の名を呼んだ。

 痛かった足の筋肉からは、深い眠りのおかげか嘘のように痛みが引いている。

 代わりに、胸の奥がぎゅっと締め付けられるように痛んでいた。


 私が今ここで縋り付いてしまえば、彼はどうするだろうか。

 きっと私を巻き込まないため、さらに冷たい嘘を重ねて私を突き放すだろう。

 最後には十年前のあの日のように、私の前から姿を消してしまうに違いない。


 だから、今はまだ絶対に言わない。

 私は毛布の中で、自分の両手をきつく握りしめた。

 彼が意地でも他人を貫くと言うのなら、問い質すことはできない。



「……どうした? そんな変な顔して」



 彼は怪訝そうな顔でこちらに来ると、確認するように再び額に手を当ててきた。

 どこまでも私のことを心配してくれる彼の態度に、胸がじんわりと温かくなる。



「泥だらけのまま寝たから、気味の悪ぃ夢でも見たか?」

「いいえ。ただ、少しだけ……すごく懐かしい夢を見ていたんです」

「あ? 懐かしい夢だ?」

「はい。とっても優しくて甘い夢ですよ」



 私はゆっくりと首を振り、彼に向けて笑顔を作ってみせた。

 核心には触れなかったその発言に、リカーは眉をひそめて首を傾げる。



「……まあ、何でもいいが。とりあえずさっさと顔洗ってこい。裏手の公共浴場ならこの時間は空いてるはずだ」

「はい、そうさせてもらいます。泥を落としてさっぱりしたらご飯にしましょう」



 リカーは短く頷くと、買ってきた着替えと石鹸や麻のタオルを渡してくれた。

 その流れのまま彼はこちらに背を向け、部屋の扉を開ける。

 途端に、外の喧騒と夕飯時の匂いがどっと部屋の中に流れ込んできた。

 その広く逞しい背中を見つめながら、私は自分の唇にそっと指を当てた。



『二人だけの秘密ですよ』



 夢の中で彼が言った言葉を、今度は私が胸の奥で密かに繰り返す。

 今の彼はまだ、私がすべてに気づいていることすら知らない。


 開いた扉から差し込む西日が差し込む。

 埃の舞う安宿の空気が、一瞬だけ王宮の庭園のように輝いて見える。

 私はその背中に向けて、声に出さない誓いを立てた。


 今はまだ、このカビ臭い部屋でいい。

 いつか必ず、あなたをあの薔薇の咲き誇る場所へ連れて帰ってみせる。


 私は彼が手渡してくれた石鹸を握りしめ、彼の後に続いたのだった。







明日からは毎日19:10投稿です

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