06. 無意識の護衛と月下の剣舞
彼に導かれるまま、森の中を黙々と歩く。
周囲には雨上がりの湿った苔の匂いが漂っている。
昨日の慌ただしさが嘘のように、周囲は静けさと穏やかさに満ちていた。
分厚く堆積した腐葉土のおかげで、昨日とは打って変わって歩きやすい。
「……おい。足元、木の根っこが浮いてるぞ。気をつけろ」
「大丈夫です、わかっていますよ」
私の数歩前を歩くリカーが、枝を払いながら低く声をかけてくる。
あの猟師小屋を出たあと、辺境を目指し歩き始めてから早くも半日が経過していた。
少しは乾いたとはいえ、相変わらずドレスは重い。
ふくらはぎもとうに悲鳴を上げている。
だが、昨夜の逃亡劇に比べれば、今の疲労など取るに足らないものだった。
――それにしても。
黙々と歩き続ける中、私の中に小さな違和感が芽生え始めていた。
余裕ができたことで気づいた不自然さ。
それは、リカーの立ち位置だ。
彼は決してただ適当に前を歩いているわけではない。
常に私の斜め前――右半歩先という、奇妙なほど絶妙な距離と角度を保ち続けている。
私が水溜まりを避けて左に寄れば、彼もまた左へと射線をずらす。
私が息を整えるために立ち止まれば、彼もピタリと足を止める。
それはただの偶然ではない。
私の死角となる方向を常に彼自身の身体で塞ぎ、危険を察知する陣形。
前方や側方から攻撃されても、自身の体を盾にして私を守ることができる位置。
極めて洗練された盾の立ち位置そのものだった。
「ねえ、リカー」
「あ? なんだよ、もうバテたのか?」
「違います。貴方、どうしていつも私の右斜め前を歩くんですか?」
私が何気ない風を装って問いかけると、リカーの肩が微かに揺れた。
前を向いているため表情を伺い知ることはできないが、明らかに動揺しているのがわかる。
「わざわざ歩きにくい位置にいなくても、普通に私の真正面を歩けばいいのに」
「……何言ってんだ。たまたまそこが歩きやすいだけだろ」
「嘘ですよね。私が右に寄れば右に、左に寄れば左に動いているじゃないですか」
私は歩みを止めず、彼の背中へと言葉を投げ続ける。
「まるで誰かを守るための訓練を、何年も受けてきたみたいですよ」
「…………」
私の指摘に、彼はガシガシと面倒くさそうに首の後ろを掻いた。
あー、と低い声で唸りながら斜め上の方を向き、緩く首を振る。
「……スラムじゃ、背後を取られたら即座にナイフが飛んでくるんだよ。だから、お前を盾にしてるだけだ」
「スラムの路地裏と、この人気のない森の中では勝手が違うでしょう?」
「同じだよ。お前みたいな隙だらけの素人を背後に置いてたら、いつ俺の背中に流れ弾が当たるかわからねえだろうが。これはただの自衛だ、自衛」
彼はぶっきらぼうにそう吐き捨てると、わざとらしく歩調を速めた。
まただ。今朝、彼が無意識にやってしまった毒味の時と全く同じ反応。
彼はなんでもかんでもスラムの習慣だと言い張って、強引に誤魔化そうとする。
あんなにも洗練された行動を、路地裏のならず者が身につけられるはずがないのに。
◇◇◇
陽が完全に落ち、森が暗闇に包まれた頃。
私たちは適当な巨木の根元に野営地を作り、小さな焚き火を囲んでいた。
パチパチと燃える火の温もりと向かい側に座る彼の存在。
それが、私に不思議な安堵感を与えている。
火に照らされた彼の藍玉色の瞳は、どこか遠くを見つめているように静かだ。
「そろそろ寝ろ。明日の夕方までには、最初の宿場町につけるはずだ」
「わかりました。貴方も……無理せず、少しは休んでくださいね」
彼が短く頷くのを見て、私は「おやすみなさい」と就寝の挨拶を口にした。
そして、浅い眠りにつこうとゆっくり目を閉じようとした。
まさにその時だった。
それまで絶え間なく吹いていた夜風が、不自然なほどピタリと止んだ。
鳥や虫たちの鳴き声が一斉に消え去る。
耳鳴りがするほどの重く、息苦しいほどの異常な静けさが辺りを支配した。
「……っ?」
肌が粟立つような異様な雰囲気を感じ取り、私はハッと目を開けた。
すると、つい数秒前まで向かいに座っていたはずのリカーの姿が完全に消え失せていた。
いや、正しく言うと消えたのではない。
彼は音もなく立ち上がったあと、素早く焚き火へと移動していた。
燃え盛る炎をブーツで一蹴りしただけで、一瞬にして綺麗に揉み消したのだ。
「リカー……?」
「しっ……声出すな。息も殺せ」
炎が消え、視界が完全に見えなくなる。
すると、彼は私の右腕を引っぱり、背後にあった巨木の裏側へと強引に押し込んだ。
「いいか、お嬢ちゃん。ここから絶対に動くな。何があってもだ」
リカーの声は低く、警戒心に満ちていた。
微かな月明かりに照らされ、闇の中で光る彼の藍玉色の瞳が、森の奥の見えない何かを鋭く睨みつけている。
「追っ手……なんですか?」
「ああ。だが、ただの犬じゃねえな」
「えっ……?」
「足音どころか、気配の消し方にまで年季が入ってる。暗殺専門の部隊だろうな」
その言葉に、私の心臓が恐怖で早鐘を打ち始める。
暗殺部隊。叔父はついに私を生け捕りにする方針を捨てたのだ。
この森で確実に私の息の根を止めるために、本気で牙を剥いてきたのだろう。
「リ、リカー、逃げましょう! 相手が何人いるかもわからないのに……っ」
「逃げたところで、暗闇から背中に毒矢を撃ち込まれて終わりだ」
「でも……!」
「大丈夫だ。ここで全部、俺が片付ける」
リカーは腰に提げた長剣の柄に手をかけると、私に向かって振り返った。
そして恐怖に震える私を安心させるように、ニヤリと不敵な笑みを浮かべてみせた。
「夜更かしは肌に悪いぜ、お嬢ちゃん。目ェ瞑って羊でも数えてな」
そう言うが早いか、彼は私の返事も待たずに木陰から暗闇へと歩み出た。
その直後、空気を裂く微かな音と共に黒装束を着た五つの影が現れる。
四方八方の闇から不意打ちしてきた彼らは、一斉にリカーへと襲いかかった。
その手には、光を反射しないように黒く塗られた短剣が握られている。
「……っ!!」
私は悲鳴を飲み込み、木の陰からその光景を息を詰めて見つめていた。
多勢に無勢。しかも相手は、音もなく命を刈り取る暗殺の専門家たちだ。
いくら彼の腕が立つとはいえ、五人を同時に相手どるのは不可能ではないのか。
だが、そんな私の絶望は、次の瞬間信じられない驚きに変わった。
──ガァァァンッ!!
激しく重い金属音が、夜の森に響き渡る。
リカーは襲い来る五本の凶刃を、長剣で全て綺麗に弾き返してみせたのだ。
「なっ……!?」
感情を殺しているはずの暗殺者が、驚愕の声を上げる。
だが、リカーは彼らに体勢を立て直す隙を与えなかった。
「もっと牙といでから出直してこい。その程度のナマクラじゃ俺は殺せねえよ」
雲が風に流れ、青白い月光が広場を照らし出す。
その光の中で、リカーの身体が滑らかに沈み込んだ。
右から喉を狙って襲い来る刃を、最小限の動きで躱す。
そのまま一歩深く踏み込み、柄頭で相手の鳩尾を素早く正確に打ち抜く。
ごはっとくぐもった音を立てて、まず一人崩れ落ちた。
続けざまに背後から迫ったナイフを、振り返りもせず背面打ちで叩き落とす。
そのまま手首を返し、残る三人の顎を同じように連続で刈り取っていった。
舞うような、という表現すら生ぬるい。
それは一切の無駄を削ぎ落とし、極限まで研ぎ澄まされた圧倒的な剣技だった。
私は木の陰に隠れたまま、息をするのも忘れその光景に見入っていた。
血の一滴も流れない美しいとすら思える光景。
スラムの傭兵がやるような、ただの力任せの喧嘩では決してない。
その滑らかな体重移動の仕方。
敵の呼吸と瞬きを読み切った間合いの取り方。
そして何より、彼が意地でも敵を斬らないという事実。
彼の剣は徒に相手の命を奪うのではない。
ただ制圧し無力化するためだけに振るわれる。
どこまでも気高く優しい、その剣術の型。
(嘘……。あの動き、あの足運び……)
私の脳裏に、十年前の記憶が鮮やかに蘇る。
王宮の鍛錬場。
幼い私が飽きもせずに毎日見つめ続けていた、あの眩しい光景。
歴戦の近衛騎士たちを束ねていた人。
誰よりも格好よく、誰よりも強かったあの人。
彼は、どんな悪人であっても決して無駄な殺生を好まなかった。
王国の誇りにして私の初恋の騎士様。
あの日、白銀の騎士が振るっていた美しい剣の軌道と。
今、月明かりの下で静かに剣を振り抜いている用心棒の動きが。
寸分の狂いもなく、綺麗に重なり合った。
時間にして、ほんの一分にも満たない出来事だった。
最後の一人が白目を剥いて地面に倒れ伏した時、森には再び静寂が戻っていた。
リカーは短く息を吐くと手首を軽く回し、剣を鞘に戻す。
そして、面倒くさそうに首を鳴らしながら、私が隠れている巨木の方へ歩いてきた。
「終わったぞ。羊はちゃんと数え終わったか?」
いつもの、人を食ったような声だ。
だが、私を見下ろす彼の顔を見た瞬間。
私の中でずっとくすぶっていた疑念は、絶対に覆しようのない確信へと変わっていた。
泥だらけの無精髭。
肩ほどまでだらしなく伸びた銀髪。
粗野で乱暴なスラムの言葉遣い。
彼がどれだけ汚れた用心棒の皮を被ろうと隠しきれないものはあるのだ。
その魂の高潔さ、偽りきれない優しさ。
それは、十年前に姿を消したあの日から何一つ変わっていない。
「……っ、はい。ちょうど今、数え終わったところです」
私は震えそうになる声を押さえながら、木の陰からゆっくりと歩み出た。
泣いて縋り付きたい衝動を、奥歯を噛み締めて堪える。
彼が自ら名乗らないのなら、私からその皮を剥ぐような真似はしない。
彼にはきっと、正体を明かせない重い理由があるはずだから。
「なんだよ、その顔。まさか怖くて腰抜かしたとかじゃねえだろうな」
私は何も言わず、ただじっと彼の瞳を見つめ続けていた。
すると、彼はひどく居心地が悪そうに視線を逸らす。
そして軽く舌打ちをすると、乱暴な手つきで私の頭をワシワシと撫で回した。
昨夜の雨の中と同じ、不器用で温かい手だ。
「違います。ただ、少しだけ――」
私は、彼の大きな手のひらの心地よい温もりに目を細めた。
必死に涙を堪え、彼に向けて微笑んでみせる。
「少しだけ、貴方がすごく頼もしい用心棒に見えたんですよ」
「ハッ、今更かよ。いくら褒めても、俺は貰った金貨の分しか働かねえからな」
彼は照れ隠しのようにそう吐き捨てると、そそくさと野営地の後片付けに向かってしまった。
「ほら、ぼーっとすんな。ここももう安全じゃなくなった。荷物をまとめろ、夜通し歩くぞ」
「……っ、はい、すぐに行きます!」
私は頷くと、急いで立ち上がった。
そして、その背中を追いかけながら心の中でそっと呟く。
――ずっと探していました、リカルド様。
月明かりだけが頼りの、冷たい夜の森を再び進む。
満足に眠れず、疲れは溜まっている。
けれど、私の足取りはこれまでのどんな時よりも力強く前を向いていたのだった。




