05. 奪われたパンと不器用な気遣い
真っ暗な沼の底へ沈んでいたような感覚から、徐々に意識が浮上していく。
私は目を開け、ぼんやりと小屋の天井を眺めた。
耳を澄ませば、昨夜までの激しい雨音は嘘のように消え去っていた。
代わりに遠くから小鳥のさえずりと、風に揺れる葉っぱたちの音が聞こえてくる。
「……んっ……」
私はまだ酷く気怠さの残る身体を寝返らせようとして、ふと違和感を覚えた。
自分の全身が、酷く重い何かに包み込まれていることに気がついたのだ。
それは、昨夜私の命を繋ぎ止めてくれた彼の外套だった。
そして、その重い外套の下で思い出す。
自分は今、肌着一枚しか身につけていない。
途端に顔の温度が跳ね上がり、羞恥心が押し寄せてくる。
慌てて身を起こすと、肩から外套がずり落ちてしまった。
その隙間から、ひやりとした朝の空気が容赦なく入り込んでくる。
「……起きたか、お嬢ちゃん。具合はどうだ?」
ふと、部屋の隅から声が聞こえてきた。
ビクッと肩を大きく揺らし、声のした方へ勢いよく顔を向ける。
そこには、窓から差し込む朝日を背にしたリカーがあぐらをかいて座っていた。
彼は上半身、薄汚れて擦り切れたシャツ一枚の姿だった。
自分の外套を私に被せ、彼自身は一晩中その恰好で夜を明かしたのだ。
その事実が胸を締め付け、私はギュッと外套の襟元を握りしめた。
「お陰様で、良くなりました。本当にありがとうございます。ですが……すみません。私のせいで寒い思いを──」
「アホか。スラムじゃこれより寒い夜なんて腐るほどあるんだよ。俺の心配より自分の心配をしろ」
彼は私と目を合わせないようにしながら、面倒くさそうに立ち上がった。
そして私の近くにある木箱の上へ、乱暴に二つのものを放り投げてくる。
それは石のように硬そうな黒パンと、水が入った古い革袋だった。
「ほら、さっさと食え。死にたくなきゃ無理にでも腹に入れといた方がいい」
「あ……はい。ありがとう、ございます」
私が礼を言ったあと、外套に包まったまま手を伸ばした時だった。
リカーはふと動きを止め、「あ、待て」と短く制止した。
そして、私よりも早くその黒パンを手に取ると、自分の口で端を小さく齧る。
続けて革袋の水も一口だけ含んで飲み込んだ。
数秒間。彼は自分の喉の奥の感覚を確かめるように沈黙した。
「……ん。大丈夫だな。もう食っていいぞ」
彼はそう言って、パンと皮袋を差し出してきた。
私はそれらを受け取りながら、信じられないものを見るように彼の顔を見つめた。
今のは、明らかにただの味見やつまみ食いの動作ではない。
食べ物に異物が混入していないか、自分の身体を使って確かめるための仕草。
王宮で暮らす私が、毎日の食事の前に礼儀作法として見てきたものと全く同じだった。
「え? 貴方、今……私の食事の毒味をしたのですか?」
「…………は?」
「だって、わざわざ私が食べる直前に一口ずつ、確かめるように食べましたよね?」
私の問いに、彼がほんの一瞬だけ目を見開いたのが分かった。
だが、すぐにわざとらしく舌打ちをし、そっぽを向いてしまう。
「いや……そんなんじゃねえよ。スラムじゃ他人から貰った食い物が腐ってるか、自分で確かめてから口に入れるのが当たり前なんだ」
「しかし、貴方は私の分を……」
「お前みたいな温室育ちは少しでも古いもん食ったら一発で腹壊して足手まといになるだろうが。俺のために仕方なくやっただけだ」
早口で捲し立てるその言い訳は、どこか焦っているようにも聞こえた。
彼は驚きのあまり手を止め、食事に口をつけない私をちらりと見る。
そして、どこか不機嫌そうに呟いた。
「……それともなんだ。俺が口つけたもんは、汚くて食えねえってか」
「そ、そんなことありませんっ!」
私は慌てて黒パンを両手で掴み、思い切り齧り付いた。
硬くてボソボソとしていて、顎が痛くなりそうだ。
お世辞にも美味しいとは言えない。
だがこれは、彼が私のために身をもって安全を証明してくれた食べ物だ。
その事実が何よりも嬉しく感じられ、噛み締めるほどに胸の奥が温かくなった。
しばらくパンをもぐもぐと咀嚼しながら彼の先ほどの仕草について考える。
毒味。
それは王族を守る近衛騎士たちが見せる、もっとも基本的な忠誠の証だ。
彼がいくらスラムの習慣だと言い張っても、あんなにも自然に誰かを守るための行動を取れるはずがない。
しかも彼の反応から見るに、おそらく無意識にやっていた。
マーサが、命を賭して私を託せるほど信用していた剣の腕。
それに、あの無意識の毒見の癖。
ありえないと理性が否定する。
私の記憶にいるあの人は、十年前に大罪人として王宮から姿を消したはずだ。
それに、今目の前にいる彼と記憶の中の騎士はあまりにもかけ離れすぎている。
雑念を打ち消すようにぶんぶんと頭を降って、私は食事に集中した。
それから五分もしないうちに食べ終わる。
するとタイミングを見計らっていたかのように、リカーは床に羊皮紙の古い地図を広げた。
「……食い終わったなら今後の話をするぞ。一回しか言わねえからよく聞けよ、お嬢ちゃん」
彼の真剣な声音に、私はこくりと頷いた。
「王都はもう完全に敵の手の中だ。主要な街道はすべて封鎖され、近くの街には間違いなくお前の手配書がばら撒かれてるだろうな」
「そう、ですね……」
「つまり、まともに追っ手から逃れて動ける場所はもう国内には一つしかねえ」
彼は汚れた指先で、地図の一番北をトンッと叩いた。
そこは黒く塗りつぶされた、国境沿いの山岳地帯だ。
「北の辺境にある防衛砦――グレイフォールを目指すぞ。あそこにはまだマシな連中が溜まってるはずだ」
「辺境……? でも、あそこは重罪人や王都から追放された罪人たちが送られる最果ての流刑地でしょう? そんな危険な場所に自ら行くなんて……」
「だからこそ、だ」
そう言いながら、リカーの右手が背負っている革袋に触れた。
そこに入っている何かを、親指でなぞるように一撫でする。
「王都の法が届かねえ吹き溜まりだからこそ犬共も容易く鼻を突っ込めねえんだ。それに、あそこにはお前の叔父のやり方に反発して追い出された連中がいる」
「……」
「今のお前にとって一番の安全圏であり、反撃の足がかりになる場所だ」
彼の言葉には単なる推測ではない、奇妙なほどの確信がこもっていた。
まるでその辺境の地に、自分のよく知る誰かがいることを知っているかのようである。
「はっきり言って、ここから先は茨の道だぜ」
リカーは地図から私へと視線を移し、挑発するかのように意地悪く口角を上げた。
「整備されてねえ道を進まなきゃいけねえし、何日歩くかもわからねえ。泥水だろうと啜るくらいの覚悟がなきゃ途中で野垂れ死ぬぞ。……それでも行くか?」
「――行きます」
私は外套を握りしめたまま、迷いなく即答した。
怖いものはたくさんある。自分の無力さも、痛いほど思い知った。
でも、彼とならば、不思議とすべてを乗り越えられる気がしたのだ。
「叔父に奪われた国を、必ず取り戻します。そのためなら泥水だって飲んでみせましょう。だから、私を辺境まで連れて行ってください」
私の決意を聞いた彼は、再びため息をつき呆れたように私を見つめた。
「本当に、面倒な金づるを拾っちまったもんだ」
「……後悔、していますか?」
「いいや、後悔はしてねえよ。……ま、金貨袋一つじゃ到底割に合わない仕事なのは確かだけどな」
彼は自嘲気味に鼻を鳴らすと、窓から差し込む朝日に細い目を細めた。
その横顔は、主君に絶対の忠誠を誓った騎士が浮かべるような顔つきをしていた。
「お前が玉座に戻った時にはたっぷり追加料金を支払ってもらうからな。せいぜい覚悟しとけよ」
玉座に戻った時には。
それは彼なりの、最後まで絶対に裏切らないという不器用な宣誓のように感じられた。
その言葉が、私の胸をひどく高鳴らせる。
「――そうですね。その時は、貴方が一生かかっても使いきれないくらいの大金をお約束しましょう」
私は微笑み、彼に向けてしっかりと頷いた。
彼はその返答に満足したかのように頷くと、立ち上がって小屋の扉を開けた。
「なら休憩は終わりだ、さっさと着替えろ。終わったらすぐに出発するぞ」
振り返りもせず、小屋の外に出た彼はそのままゆっくりと扉を閉めた。
おそらく、私の着替えを見ないという彼なりの配慮なのだろう。
それに感謝しつつ、私は彼から借りていた重い外套を脱ぎ、泥だらけのドレスに再び袖を通した。
もう雨は降っていない。
ギィと音を立てながら古びた扉を押し開けると、小屋の壁に寄りかかっていたリカーが歩き出した。
昨日の豪雨が嘘のように空は青く晴れ渡っている。
雨に濡れた森の葉が、燦々と降り注ぐ太陽の光を反射してキラキラと輝いていた。
それはまるで砕け散ってもなお気高く輝き続ける、王冠の破片のようで。
何よりも眩しく、そして美しく見えた。
明日も12:10、19:10にそれぞれ一話ずつ投稿予定です。




