04. 小屋に響く鼓動と安酒の残り香
どれくらい、彼に抱かれたまま雨の森を進んだだろうか。
視界は完全に暗闇に閉ざされ、時間の感覚すらとっくに失われていた。
「……今日はここで休むぞ。昔の密猟者が使ってた、古い狩猟小屋だ」
リカーは不意に立ち止まり、私に声をかけてきた。
目の前には、ぼんやりと小屋の輪郭が見える。
「こんな森の奥深くなら、しばらくは追っ手の犬共も来ねえだろう」
ギーッと軋む不快な音を立てて木の扉が開かれた。
途端に、長年締め切られていた空気が押し寄せてくる。
湿ったカビと埃の匂いと、古い獣の脂と血の匂いが混ざり合ったような匂いだ。
本来ならば吐き気を催すような劣悪な環境だ。
だが、絶え間なく続く雨から解放されたというだけでも、今の私にとっては天国のような場所に思えた。
「……っ、あれ……?」
小屋の中に入り、ゆっくりと彼の腕から硬い床へと降ろされた時だった。
彼の支えを失った私の両膝がカクンと折れ曲がる。
泥水をたっぷりと吸い込み重くなったドレス。
そして極限まで冷え切り、全身の感覚すら失われた私の身体。
それらがもう自力で立っていることすら許してくれないのだ。
嫌でもそう理解させられる。
床に倒れ込む寸前、リカーが素早く私の肩を掴んだ。
「っと……。おい、大丈夫か、お嬢ちゃん」
「ごめ……なさい。足に、全く力が……」
普通に謝罪の言葉を発したつもりだった。
だが、自分の口から出た声は自分でも驚くほど酷く掠れ、か細く震えている。
言葉の形がうまく作れない。
顎の筋肉が激しく震え、歯の根が噛み合わなくなっている。
「……おい、顔色がやべぇぞ。完全に限界超えてんじゃねえか」
「あ……う……っ」
「待て、喋るな。そこで大人しく座ってろ、すぐに火を熾す」
リカーは眉間に深い皺を刻み、舌打ちをしながら私を再び抱き上げた。
そして、部屋の隅に放置されていた、埃まみれの粗末な木箱の上へと座らせる。
彼は暖炉らしき石組みの跡に近づくと、自身の革袋から火打石を取り出した。
そこに残されていた古い薪の残骸へ向け、手際よく石を打ち付け始める。
――カチッ、カチッ。
暗い小屋の中に、オレンジ色の火花が何度か散る。
だがその小さな光は、何度やっても薪へと燃え移ることはなかった。
彼が焦ったように火打石を叩く間も、私の体は恐ろしいスピードで冷え続けていく。
寒い。あまりにも寒すぎる。
私は両手で自分の二の腕を必死に摩り、少しでも熱を作ろうと努力してみた。
だが、指先の感覚はとっくに凍りついているのだ。
触れている自分の肌が、まるで死人のように冷たいということしかわからない。
「あー、クソッ! ダメだ、この薪、芯の奥まで完全に湿り切ってやがる」
リカーの苛立たしい、怒気を孕んだ舌打ちが小屋に響いた。
火が、使えない。
その絶望的な事実を脳が理解した瞬間だった。
今まで辛うじて耐えていた緊張の糸。
それがプツンと切れてしまった。
「……さむ、い……っ」
体の中から、得体の知れない強烈な寒気がせり上がってくる。
ブルブルという生理的な震えを超えている。
全身の筋肉が痙攣するように大きく跳ね始めた。
視界の端が白く明滅し、呼吸が異様に浅くなる。
――怖い。死にたくない。
これは、ただの寒さではない。
命に関わるものだと本能が伝えてくる。
「エクラ!?」
バランスを崩し、木箱から床へと滑り落ちそうになった私の身体。
それを見て、慌てて床を蹴りこちらに駆けつけたリカーは、床に着く寸前のところで抱き留めてくれた。
――エクラ?
彼は今、私の名前を呼んだのか。
酒場で出会ってから、私は彼に一度も名乗っていないはずだ。
いつの間に私の名前を知ったのだろう。
お飾りだとしても、王女の名前くらいは誰でも知っているのだろうか。
靄のかかった頭の片隅でぼんやりと考える。
「おい、しっかりしろ! 目ェ開けろ! このまま寝たら、本当に死ぬぞ!」
「だい、じょ……ぶ……わたしは……」
彼が必死に叫ぶ声がガンガンと頭に響く。
私は彼を安心させようと思い、笑って答えようとした。
だが口元はピクリとも動いてくれない。
何とか絞り出した声も酷く掠れたものだった。
彼は舌打ちをし、何かを迷うように視線を彷徨わせた。
そして、数秒の葛藤のあと、覚悟を決めたかのように私を抱える腕の力を強める。
「……くそっ。手段を選んでる余裕はねえ。悪ぃ、脱がすぞ」
「……えっ……?」
言うが早いか、彼は一切の躊躇なくすぐさま行動を起こした。
私を包んでいた彼の毛皮の外套を勢いよく引っぺがす。
そして、背中のドレスの紐を強引に引き千切ったのだ。
「な、にを……っ、いや……っ」
「黙れ! 動くな、暴れるな! この服を着たまんまじゃ、体温が奪われる一方だぞ!」
彼の必死な様子に二の句が継げなくなる。
そもそも抗議して暴れるような力も、今の私には残されていなかった。
無抵抗でされるがままになる私から、彼は水を吸ったドレスを剥ぎ取った。
薄い肌着一枚になった肌に、小屋の冷気が直接突き刺さる。
「さ、む……っ、死んじゃう……っ」
「死なせねぇ為にやってんだよ。あと……これからやることは、あくまでも仕事の一環としてやる。だから、変な勘違いすんなよ」
自分に言い聞かせるかのように、彼は低く呻いた。
直後、衣擦れの音が聞こえてくる。
彼もまた手早く自身の濡れた上着を脱ぎ始めたのだ。
そして、先ほど私から奪った大きく分厚い毛皮の外套をバサリと空中で翻す。
次の瞬間、彼は自身の身体ごと、私を外套の中へとすっぽりと包み込んだのだ。
路地裏で騎士をやり過ごした時とは、比べ物にならないほどの密着。
肌着一枚の薄い布地を通して彼の熱が伝わってくる。
「……っ!? リ、カー……っ、熱……っ」
「暴れるなっつってんだろ。死にてえのか、お前は」
逃げ出そうとする私の背中からぐっと彼の腕が回される。
そして、強く抱きすくめられた。
彼の大きな体躯と黒い外套によって作られた、完全な密室だ。
彼の心臓はバクバクとうるさいくらい鳴っている。
その心音が何よりも雄弁に、彼が今ひどく焦っているのだと伝えてくる。
「……っ、はぁっ、はぁ……っ」
「落ち着いて、ゆっくり息をしろ。……震えが完全に止まるまで、絶対に俺から離れんな」
彼の体温は、長時間雨に打たれていたとは思えないほどに高かった。
肌着越しに彼の体温が少しずつ、ゆっくりと流れ込んでくる。
凍っていた血が溶け出し、全身を巡り始めるのがわかった。
――恥ずかしい。
徐々に落ち着いてくるにつれ、そんな感情が吹き出してくる。
生まれてから十八年。
つい先日成人したとはいえ、今までこんな経験は一度もなかった。
これは、命の危機を脱するための緊急措置だ。
わかっている。だとしても。
出会ったばかりの彼とこんな風に半裸で肌を寄せ合っているなんて。
淑女の教えが、頭の奥で激しく警鐘を鳴らしている。
だが、そんな羞恥心や葛藤を消し飛ばしてしまうほどに、彼が与えられる温もりは抗い難いものだった。
「……あたたか、い……」
「はあ……当たり前だ。前金貰ってんのに勝手に死なれちゃ、用心棒の名が廃るだろうが」
私が微かに喉を鳴らすと、抱きしめる腕の力がほんの少しだけ緩んだ。
彼は相変わらずぶっきらぼうな悪態をつく。
けれど、私を包み込むその腕は世界中の誰よりも優しかった。
暗い死の淵へと落ちかけていた私を、光の差す方へと引き戻そうとしてくれている。
――ドクン、ドクン。
彼の心音を聞きながら、私の意識は少しずつ微睡みの中へと溶けていく。
ふと思い出す。
ずっと昔。私がまだ、母様を亡くしたばかりのほんの小さな子供だった頃。
厳しい淑女教育と孤独に耐えきれず泣いていた私を、誰かがこんな風に抱きしめてくれたことがあった。
『――泣かないでください、姫様。私がずっとお守りしますから』
あの日私を安心させてくれた、優しくて温かい心臓の音。
その鼓動が、彼の心音と重なり合っていく。
まさか、そんなはずはない。
彼はただの、金で雇ったスラムの用心棒なのだから。
はっきりとしない頭で、そんな夢とも記憶ともつかない幻を見ながら。
私は彼の腕の中で、深く、安らかな眠りの底へと沈んでいったのだった。




