03. 泥だらけの少女と不機嫌な抱擁
一部が崩落した城壁を、彼の手を借りて乗り越える。
そのまま、私たちが向かった場所。
そこは王都の北にある広大な原生林だった。
空を覆い尽くす雨雲が、僅かな月明かりすら奪い去っている。
一歩先さえ全く見通せないほどの深い闇が、私たちを待ち構えていた。
ざわざわと冷たい風が吹き抜けるたび、濡れた木々の葉が騒めく。
その不気味な音が、私の胸の奥底にある言いようのない不安を煽り立てた。
落ち着こうと、震える唇を開いて深く息を吸い込む。
湿った腐葉土の匂いと、生臭い泥の匂いがした。
王宮の美しく整えられた薔薇園の香りとは対極にある、生々しい死と自然の匂いだ。
「……っ、ふぅ……っ、はぁ……っ」
重く冷たい空気を肺から吐き出す。
そして、前を歩く彼の姿を見失わないよう必死に追い縋った。
森のぬかるんだ地面は想像を絶するほど歩きにくかった。
泥が生き物のように靴底にまとわりついてくる。
休むことなく降り続く雨とその足元が、私の体力と体温をどんどん奪っていく。
徐々に、頭の芯が痺れるように思考が鈍ってきた。
長時間冷たい雨に打たれ続け、極限状態の緊張を強いられたせいだろうか。
それでもただ前だけを向いて足を引きずった。
だが、それがいけなかった。
疲労で足元の注意が疎かになっていたのだ。
暗闇と同化し、泥の中に隠れるようにして隆起していた太い木の根。
それに靴の先を思い切り引っかけた瞬間、私の体はあっけなくコントロールを失った。
「あっ……!」
思い切りつんのめり、視界がぐらりと傾く。
咄嗟に手をついて身を守ることすら、今の私にはできなかった。
凍りついた筋肉は全く動かず、私は冷たい泥濘の中へと顔から倒れ込んでしまった。
――バシャッ!!
泥が激しく跳ね上がり、ドレスから髪まで全身を汚してしまう。
なまじ驚いて口を開けたまま転んでしまったせいで、生ぬるい泥が口内に侵入してきた。
「げほっ、ごほっ……っ!」
慌ててむせ返りながら吐き出すが、ぬるりとした不快な感触が舌に残る。
淀んだ泥水と土特有の味が混ざり合って気持ちが悪い。
「あーあー。何やってんだ、お嬢ちゃん」
頭上から降ってきたのは心底呆れ果てたような、ひどく面倒くさそうな声。
顔を上げると眉間に深い皺を刻みながら見下ろしてくるリカーの姿があった。
「うっ……すみま、せん。足が、滑ってしまって……っ」
私は慌てて身を起こそうとした。
だが、冷え切って痙攣する足は泥に取られ、ずるりと滑って再び膝をついてしまう。
足手まといにならないと言っておいてなんてザマだ。
そんな嘲笑するような声が脳裏をよぎる。
惨めで、悔しくて、情けなかった。
私が、外の世界でいかに無力であるかを嫌というほど思い知らされる。
今まで必死に堪えていた涙が溢れそうになる。
それでも、ここで泣きだすわけにはいかなかった。
ここで私が甘えたことを口にすれば、彼は私をあっさりと切り捨てるだろう。
彼は同情や忠誠心で動く騎士ではない。
そして、依頼料は既に払い終えている。
彼にとって、私を捨てて逃げることなど造作もないのだ。
私は鬱屈した感情を吐き出すように、手で地面を強く叩いた。
その反動を利用して無理やり立ち上がる。
そして精一杯の強がりで口角を引き上げ、彼に向かって笑ってみせた。
お飾りとはいえ王女だったのだ。
本心を隠し、笑うことには慣れている。
「……っ、ほら、大丈夫です! さあ、早く先を急ぎましょう……!」
ガクガクと震える膝を、王族としての精神力だけで無理やり押さえつける。
泥に濡れたまつ毛を瞬かせ、彼の藍玉色の瞳を真っ直ぐに見返した。
汚れたドレスも、剥がれ落ちた淑女の矜持も、今の私にはどうでもいい。
今の私にとって一番恐ろしいのは、彼に見捨てられ一人で死ぬことだけだ。
「…………はぁぁぁぁ」
私の笑顔を見たリカーは、顔を右手で覆った。
そして、わざとらしいほど盛大なため息をつく。
「……あー、クソ。マジでやってらんねえ」
「ど、どうしたんですか。何か問題でも――」
「いや? 何でもねえよ。ただな……」
彼はそこで一度言葉を切った。
雨に濡れた銀髪をガシガシと乱暴に掻き、私の方を向く。
「お前のそのちんたらした歩みに合わせてたら、一生追っ手を撒けねえ」
私が一歩後ずさるより早く、彼は迷いのない動作で行動を起こした。
彼の左腕が私の背中へ、もう片方の腕が膝の裏へと素早く差し込まれる。
次の瞬間、私の視界はぐるりと反転し、重かった足があっけなく地面から離れた。
「きゃっ……!?」
泥だらけになった私の身体は、彼によっていとも容易く宙へと掬い上げられた。
私の頭は彼の胸板に押し付けられ、足は完全に空中に放り出されている。
いわゆる『お姫様抱っこ』だ。
それを自分がされているのだと理解した瞬間、心臓がドクンとけたたましく鳴った。
「え、ちょ、なっ……何を……!?」
「何って、見りゃわかんだろ。足手まといの荷物運びだ」
「お、降ろしてください! 私の泥で、貴方の服まで汚れてしまいます!」
極度のパニックに陥った私は、彼から逃れようと必死に腕の中で暴れた。
酒場を出てから既に一時間以上経っている。
その間、彼はずっと神経を尖らせ私を守り続けている。
間違いなく私よりも彼の方が疲れているはずだ。
国の精鋭騎士すべてを敵に回す。
小袋に入った金貨だけでは余りにも割に合わない依頼。
そんな重荷を、彼に背負わせている自覚はあった。
だからこそ、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。
だが、彼はそんな私の焦りなど無視するように、ひどく面倒くさそうに宥めてくる。
「おいおい……落ち着け、暴れるな。泥に落とすぞ」
「だって、重いでしょう!? 私、自分で歩けますからっ!」
私は必死に抗議したが、彼は私を降ろす気はないようだ。
寧ろ、私を支える腕の力を強め、がっちりと固定してくる。
「歩ける? 三歩歩くたびにふらついて転んでる奴が言うセリフじゃねえな」
「うっ……」
「俺の仕事は、お前を生かしたまま玉座へ届けることなんだろ?」
「そ、それは、確かにそう言いましたけど……っ」
「それなら、こんなところでちんたらしてる暇はねえ。だから、今は大人しく運ばれろ」
それは言い返す隙も与えられない、絶対的な強者の命令だった。
「……っ」
私は言葉をなくし、彼の胸に顔を押し付けたまま押し黙った。
つい先ほど、路地裏で彼に守られたばかりなのに。
時を置かずに、またこうして彼に頼り切ってしまっている。
その事実が、どうしようもなく胸に重くのしかかった。
誰よりも美しく、気高くあれ。
自立した存在であれ。
王宮での私はそう振る舞うよう育てられていた。
だがそんな淑女教育など、この過酷な現実の前では何の役にも立ちやしない。
こうして泥まみれのまま無様な姿を晒しているのがその証拠だ。
「……リカー。本当に、重くないですか……?」
私は彼を見上げることすらできなかった。
俯いて顔を見せないようにしながら、消え入りそうな声で尋ねる。
「あ? 聞こえねえよ。雨音に負けるような声で喋んな」
「だから……っ、私、重くないかって、聞いてるんです……!」
私のやけくそ気味な声を、彼は鼻でふんと笑い飛ばした。
そして、わざとらしく嫌味な笑みを浮かべてみせる。
「アホか、軽すぎるくらいだわ。王宮の飯は空気ででもできてんのか?」
「う、嘘……。ドレスだけでもこんなに重いのに……」
「はっ、全く気にならねえな。お前から貰った金貨袋のがよっぽど重えよ」
どこまでも憎まれ口を叩く、不機嫌で刺々しい声。
けれど、私を抱え込むその両腕は揺れを最小限に抑えるように気遣われていた。
――ザクッ、ザクッ。
彼の重いブーツが、泥を踏みしめる音が続く。
追っ手がいつ背後から迫ってくるかわからないというのに。
死の恐怖と隣り合わせの逃避行なのに。
耳に届く彼の力強い心音。
火傷しそうなほどの高い体温。
雨に濡れた煙草と安酒の混ざった匂い。
そのすべてが私の心にあった死への恐怖を溶かし、安心感をもたらしてくる。
「……ごめんなさい。そして、ありがとうございます」
「雇い主に礼を言われる筋合いはねえよ。これはただの仕事だ」
「それはわかってますけど――」
「俺がお前を運んだ方が、圧倒的に早く遠くへ逃げられる。ただの効率の問題だ」
ただの仕事。ただの効率的な行動。
そう言って私を単なる荷物として扱っている。
だが、泥だらけの私を躊躇いもなく自分の胸に抱き込んで温めてくれている。
それは紛れもない事実だ。
その不器用すぎる優しさを、私はもう疑うことなどできなかった。
「少し、目ェ瞑ってろ。この先は木の枝が低い。顔に当たるぞ」
頭上から降ってきた声に従い、私は素直に目を閉じた。
視界が完全な暗闇に閉ざされる。
彼から伝わる熱と心音が、より一層鮮明に私を包み込んだ。
死の恐怖も、己の惨めさも、骨の髄まで凍える寒さも。
すべてが、彼の腕の中という安全圏の中で、ドロドロと溶けて消えていく。
私は無意識のうちに、彼の胸元へと顔をすり寄せていた。
彼は十年前に絵物語で憧れた、キラキラとした騎士様とは真逆の存在だ。
常に口が悪くて、そっけなくて、不機嫌なスラムの用心棒。
──でも。
今の私にとっては、彼の両腕の中こそが、世界で唯一心を休められる場所となっていた。
冷たい雨が降りしきる、底なしの暗い森。
その果てに何が待ち受けていようと、今はただこの温かさに身を委ねていたかった。
明日は12:10、19:10にそれぞれ一話ずつ投稿予定です。




