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02. 確かな安心感と覆い被さる心音

 



 店を出てから数分後、私たちはスラムの路地を走っていた。

 雨は依然として降り止むことを知らず、私の全身を容赦なく叩きつけている。

 水を吸ったドレスは重く、王城から休まずに駆けてきた足も既に限界に近かった。



「……おい。足が遅えぞ、お嬢ちゃん。あいつらに捕まりてえのか?」



 前を行くリカーが苛立たしげに私の方を振り返ってくる。

 彼の性格を反映したような冷たい藍玉色の瞳が私を鋭く睨む。


 どこまでも突き放すようなその物言いに、ぎゅっと胸の奥が痛んだ。

 だが、今の私には彼しかいない。

 彼に見放されれば、そこですべてが終わってしまう。


 私は疲れを訴える足を叱咤し、速度を上げて彼の背中に追いついた。



「ご、ごめんなさいっ! 息が、もう続かなくて……っ」

「はあ……。ほんの少し走っただけでこれか。先が思いやられるな」



 彼は深くため息をつきながら、ガシガシと首の後ろを掻いた。

 それが面倒な時に出る彼の小さな癖なのだと気づく余裕すら、今の私にはない。

 呆れたようなその声に、思わず不安がよぎる。

 このまま路地裏に置き去りにされるのではないか。


 だが、そんな不安を裏切るかのように、彼の走る速度が先程よりもわずかに落ちた気がした。


 石畳の凹凸に足をとられそうになりながら、私は必死に彼に食らいつく。

 街灯一つない暗闇の路地裏。

 そこを、彼は自分の庭のように迷いのない足取りで進んでいく。

 走りながら、私は店を出てからずっと抱えていた疑問を彼に向けて投げかけた。



「あのっ、今は一体どこへ向かっているんですか?」

「…………」

「逃げると言っても、王都の大通りは既に叔父の兵によって封鎖されて――」

「いいから黙ってついてこい。この先に抜け道があるんだよ」



 彼は振り返ることなく、淡々と私の言葉を遮った。



「抜け道、ですか?」

「ああ。城壁の一部が崩れ落ちてる場所がある。そこから外へ抜けるぞ」

「まさか、城壁を登るおつもりですか?」

「そのまさかだよ」



 リカーは鼻で笑うと、少しだけ歩調を緩めてこちらを横目で見た。



「手ェくらいは貸してやるから安心しろ。それとも、まさか今更泣き言なんて言わねえよな?」

「え……?」

「私のようなお上品なお姫様にはそんなお行儀の悪いことはできません、とかさ」



 どこまでも私をからかうような、人を食った軽薄な発言。

 その言葉が、王族として育てられてきた私の心をちりちりと刺激した。

 氷のように冷たい雨粒が頬を打つ痛みも忘れ、私は彼の瞳を真っ直ぐに見返す。



「ええ、登ります。絶対に、貴方の足手まといにはなりません」



 私は彼から視線を逸らさずに宣言する。

 そして、両手でフロントの布地をがっと掴んだ。

 白い太ももが露わになるまで一気に上へと引き上げる。

 淑女としての品位をかなぐり捨てた、なりふり構わない行動だ。


 ドレスという防壁が無くなった足に、雨風が容赦なく叩きつける。

 肌が粟立ち、瞬く間に体温が奪われていく。

 だが、今は何よりも生き残るための動きやすさを優先する。


 その一連の動作を横目で見ていたリカーは、意外そうに片眉を上げた。



「へえ。言うだけはあるな。その覚悟は嫌いじゃねえ」

「緊急事態、ですから。……変な目で見ないでくださいよ」

「ばーか、ガキをそんな目で見れるわけねえだろうが」



 彼はジト目でこちらを見ると、速度を落とし私の方へ手を伸ばしてきた。



「だけど、まだ遅ぇ」



 戸惑う暇など与えられず、強引に腕を掴まれ彼の方へと引っ張られる。

 秋の冷たい雨が降りしきる中だと言うのに、彼の手は火傷しそうなほどに熱かった。


 私は彼に腕を引かれる形で速度を上げた。

 下町の細い路地をまっすぐに突き進んでいく。

 そのまましばらく道なりに走っていくと、前方に巨大な黒い影が迫ってきた。

 目的である、王都の城壁だ。


 ――その時だった。


 私の腕を引きながら前を走っていたリカーが、何の前触れもなく足を止めた。

 慣性が働き、私は彼の背中に勢いよくぶつかってしまう。



「……っ、痛っ。どうしたんですか、急に……」

「少し黙れ」



 彼は短く舌打ちをすると、掴んでいた手を離し僅かに顔を傾けた。

 遠くの音を探り当てるような仕草だ。


 私も同じように耳を澄ませてみるが、雨音しか聞こえない。

 だが、彼の耳はそれ以外の致命的な何かを確実に捉えたらしい。


 先ほどまでの軽薄さが嘘のように彼の横顔に緊張が走る。

 無言のままこちらを見下ろす瞳に、私は背筋が凍るような悪寒を覚えた。



「リカー……? 何が――」



 不審に思い、再び問いかけようと口を開いた瞬間だった。

 彼は私の腰に腕を回すと、片手で軽々と私の体を抱え上げたのだ。



「きゃっ……!?」



 悲鳴を上げる間もなく、脇に抱えられたまま乱暴に運ばれる。

 そして、近くの建物の隙間へと強引に押し込まれた。

 人一人が辛うじて入れるかどうかといった、極端な狭さだ。


 ――ドンッ。


 鈍い音と共に、私の背中が湿ったレンガの壁に強く押し付けられた。

 それと同時に、私の頭の真横に彼の手が突かれる。


 逃げ道は完全に塞がれ、視界のすべてが彼の大きな体で覆い隠された。

 一拍遅れて、自分の体全体が彼によって完全に閉じ込められていることに気づく。



「な、何を……っ」

「しっ……声出すな」



 混乱と羞恥で抗議しようとした私の口を、彼の手が乱暴に塞いだ。

 顔と顔が触れ合いそうなほどの至近距離。

 息もできないほど強く、私たちの濡れた体がぴったりと密着している。

 耳のすぐ近くで、彼が静かに息を吐き出した。



「……っ」



 極度の緊張状態のせいか、全身の感覚が異常なほどに研ぎ澄まされていく。

 目の前の彼から漂う、安酒と煙草の匂い。

 強く男を感じさせるような体の香り。


 王宮の華やかな香水とは対極にある、生々しく暴力的な匂いだ。

 普段ならば顔をしかめるはずなのに、今はなぜか頭がクラクラと痺れてくる。


 ただの契約関係。

 金で買われたこの男が、私を裏切らない保証などどこにもない。

 それなのに、彼の腕の中にいるという事実が何故だか安心感を生んでいた。


 口を塞がれたまま少し落ち着きを取り戻し、そっと耳を澄ませる。

 トクン、トクンと、一定のリズムを刻む彼の心臓の音が聞こえた。

 私の胸の鼓動と重なり合うそれに、自分の意思とは関係なく顔に熱が集まっていくのがわかる。


 暗闇で本当によかったと、私は心の底から安堵した。

 耳まで真っ赤に染まったこんな顔を見られたら、恥ずかしさで死んでしまう。


 だが、そんな甘やかな錯覚は直後に聞こえてきた音に打ち砕かれた。

 雨音に混じって、ガチャガチャという重々しい金属音が近づいてきたのだ。


 ――追っ手だ。


 一瞬にして顔から熱が引き、全身の血が凍りついたように強ばる。



「くそっ、完全に見失ったぞ! この路地裏を徹底的に探せ!」

「大通りの方へ向かった可能性もある! 二手に分かれてしらみ潰しにしろ!」



 すぐそこだ。

 私たちが息を潜めている隙間のほんの少し先を、騎士たちが駆け抜けていく。


 雨音が激しいはずなのに、彼らの声がやたらとうるさく聞こえる。

 騎士たちが掲げるランタンの橙色の灯りが、無数に落ちてくる雨粒に乱反射する。

 その光が、私たちが隠れる路地裏へちらちらと何度も差し込んできた。


 ――怖い。見つかりたくない。


 もし見つかれば、私はもちろん、目の前の彼も確実に酷い目にあう。

 寒さと恐怖で身体がガタガタと震え、歯の根が合わなくなる。

 私は無意識のうちに、密着している彼の服をぎゅっと握りしめていた。


 その小さく震える私の手に気づいたのだろうか。

 リカーは壁についていた右手を静かに離すと、私の後頭部へそっと添えた。

 そして、私の顔を自身の胸に完全に押し付けるようにしながら、さらに強く抱き寄せたのだ。



「……」



 声は出さない。

 だが、その腕の力強さが大丈夫だと伝えてくれている気がした。


 どれくらいそうしていただろうか。

 永遠にも感じられた数分が過ぎ、やがて騎士たちの足音は完全に遠ざかった。

 周囲には、雨が石畳を容赦なく叩きつける音だけが残る。



「……もう、いいか」



 追っ手の気配が完全に消えたことを確認すると、彼は私からそっと体を離した。

 急に冷たい空気が入り込み、ひどく名残惜しいような喪失感が胸を過る。


 何はともあれ、ひとまず危機は去ったのだ。

 そのことに安堵し、私は息を吐き出そうとした。

 その時ふと、疑問が頭に浮かんだ。


 あまりにも不自然だ。

 なぜ彼はあれ程早く正確に、追っ手の接近を察知できたのだろうか。

 彼が立ち止まった時、足音など微塵も聞こえなかったはずだ。



「……な、なんで……なんで騎士たちが来るのが、わかったんですか?」



 ドクドクと早鐘を打つ心臓を押さえつけながら、震える声で問いかける。


 もしかして、最初から追っ手の動きを把握していたのではないか。

 私を袋小路に誘い込み、恩を売るために芝居を打っているのではないか。


 疑心暗鬼に陥り、黒い感情が溢れてくる。



「あの距離……足音なんて、雨の音で全然聞こえなかったはずなのに……」



 不安を隠せず、彼を見上げる。

 すると、リカーは面倒そうに目線を斜め上へと逸らした。



「……言っただろ。俺は用心棒だからな。人より少しばかり、耳がいいんだよ」



 誤魔化している。そう直感した。

 いくら耳が良くても、この豪雨の中で追っ手の気配を完璧に察知できるわけがない。

 少なくとも、彼がただの酒浸りのゴロツキでないということはわかった。

 私の中で彼に対する警戒心が再び強まり、声が自然と固くなる。



「リカー。貴方、一体――」



 何者なの、と。

 その決定的な言葉を紡ごうとした私の口は、続く言葉を失った。

 なぜなら彼の手が伸びてきて、私の頭に置かれたからだ。



「え……?」



 驚いて固まる私に、彼は何も言わない。

 ただ、怯える子供を慰めるかのように、どこか労わるように。

 優しく、ぽんぽんと二度、不器用な手つきで私の頭を撫でたのだ。


 そして、それ以上の追及は許さないというように無表情を作った。



「俺の素性を気にしたって、一文の得にもならねえだろ」

「で、でも! 貴方がもし、追っ手である叔父の兵と繋がっていたら……!!」

「ばーか」



 彼は頭から手を離し、呆れたように私の額を軽く小突いた。



「繋がってるなら、酒場でわざわざあいつらをボコボコにしたりしねえだろ。それに、お前をこんな狭い路地裏で抱きしめて隠してやる義理もねえ」

「っ……! そ、それは……」

「アホな勘繰りしてねえで、さっさと行くぞ。雨が降ってるうちにこの壁を抜けなけりゃ、明日の朝には俺たち二人ともあの世行きだ」



 頬がカッと熱くなるのを感じながら、私は言葉に詰まった。

 彼はそんな私に背を向け、さっさと歩き出してしまう。

 その背中を見つめながら、私は頭にそっと手を伸ばした。


 冷たい雨に打たれているというのに。

 彼の手の感触と熱が、まだはっきりとそこにあった。



「……本当に、何なんですか……」



 私は誰に聞こえるでもなく小さく呟いた。

 口ではひどく突き放す癖に、どうしてあんなに甘やかすような真似をするのか。

 自分はなぜ、会ったばかりの彼にこれほどの安心感を抱いてしまうのか。


 彼の真意も、不規則に跳ねる自分の心の正体も、何もわからない。


 私はドレスの裾をぎゅっと握り直すと、暗闇の先へと進む彼の背を必死に追いかけたのだった。






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