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01. 気高き亡命王女と借金まみれの用心棒

 



 ざあざあと雨が降る中、下町の路地裏を汚水を蹴り上げながらひた走る。

 ドレスが泥に塗れるのも知ったことではない。

 今この状況において命以外に大切なものなど何もないのだから。



「はぁっ……はっ……っ!」



 背後からは、騎士たちの怒号や足音が雨音に紛れて聞こえてくる。

 泣きそうになるのを懸命に堪えながら、足を動かす。

 太ももに括り付けた金貨の入った袋が、やたらと重く感じられた。



 たった数時間前まで、私は王宮の晩餐会で微笑むだけのお飾りの王女だった。

 だが、叔父であるオズワルドが謀反を起こし、すべてを奪い去ったのだ。


 毒を盛られ、泡を吹きながら崩れ落ちた父様の姿。

 私を凶刃から庇い、血の海に沈んだ乳母であるマーサの温もり。

 彼らの死に際の顔が脳裏から離れない。



『姫様、下町の酒場へお逃げください! リカーという用心棒をこの金で買うのです……!』



 血まみれの手で押し付けられた金貨の重み。

 それだけが、今の私をこの世界に繋ぎ止める唯一の希望だった。

 彼女の為にも、ここで死ぬわけにはいかない。


 生き延びる。

 泥を啜ってでも生きて、絶対にこの国を取り戻す。


 王都の外れにある、悪臭と暴力が支配するスラムの奥深く。

 入り組んだ迷路のような路地を、マーサから聞いたとおりに突き進む。


 やがて、雨音の向こうから下品な笑い声が漏れ聞こえてきた。目的の酒場だ。

 私は躊躇うことなく、重い木製の扉を両手で押し開けた。


 むせ返るような熱気と、安いエール、そして獣脂の焦げる匂いが顔を打つ。

 ずぶ濡れで泥だらけの女が飛び込んできたことで、喧騒がピタリと止んだ。

 店内の空気が凍りつき、まるで水を打ったような静寂が落ちる。


 好奇心と、値踏みするような下卑た客たちの視線が私に突き刺さる。

 私は震える手を握りしめ、カウンターの端へと目を向けた。

 マーサは、確かにそこが『伝説の用心棒』の指定席だと言っていた。


 そして事実、そこに男はいた。

 ……いた、のだが。



「……嘘、でしょ?」



 思わず呆けた声が口をついて出た。

 無精髭を生やし、安酒と煙草の匂いを全身から漂わせる銀髪の男。

 どこからどう見ても、路地裏に転がっているただの酔いどれだった。


 足元には薄汚れた革袋と、装飾の一切ない質素な剣が転がっている。

 くたびれた外套はあちこちが擦り切れ、伝説と呼ぶにはあまりにみすぼらしい。

 だが、私にはもう彼しか頼るあてがないのだ。


 私は震える脚を叱咤し、グラスを傾ける男の隣に立った。



「貴方が……リカー、ですね?」



 男は面倒くさそうに片目を開けた。

 濁った藍玉色の瞳が私を舐め回すように観察し、ふんと鼻を鳴らす。

 明らかなハズレくじを引いたという、あからさまな嘲笑だった。



「人違いだぜ、お嬢ちゃん。お伽話の騎士なら他所で探しな」



 掠れた低い声。彼は無精髭の生えた顎をポリポリと掻きながら、私を手で払う。

 その怠惰で人を食ったような態度に、恐怖よりも苛立ちが勝った。



「騎士など探していません。他でもない貴方を探していたのです」



 私は濡れたドレスから金貨の袋を取り出し、カウンターに叩きつけた。

 ガシャンッ! と、硬貨同士が激しくぶつかりあう音が店内に響く。



「どうかこの金貨で、貴方を雇わせてくれませんか!」

「チッ……いいから帰れ。いくら積まれても、ガキのお守りはお断りだ」

「帰る場所などありません! お願いです、マーサのためにもどうか……!」



 マーサの名を出した瞬間。

 男――リカーの藍玉色の瞳が、わずかに見開かれた。

 彼は小さく舌打ちをし、目を伏せる。

 そして何かを言いかけた、まさにその時だった。


 ――ダンッ!!


 背後の扉がけたたましい音を立てて蹴破られた。



「王女を見つけたぞ! 生け捕りにしろ、腕や足の一本はなくしてもいい!」



 雨風と共に、銀の甲冑に身を包んだ五人の騎士がなだれ込んでくる。

 ギラギラと殺気を放つ抜き身の剣に、客たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。

 私は反射的に身をすくめ、後ずさった。


 ──逃げ場がない。


 絶体絶命の危機に喉が引きつり、心臓が早鐘のように打ち鳴らされる。

 つい先ほどまで、私は温かいベッドで眠るだけの存在だったのだ。

 武装した騎士たちを前に、私の貧弱な護身術など何の役にも立たない。

 逡巡している間にも、死神のような騎士たちが距離を詰めてくる。



「……っ!」



 私は恐怖に顔を歪め、ぎゅっと目を閉じた。

 両腕で頭を庇い、床にうずくまる。

 すぐ正面まで迫った騎士の息遣いが聞こえ、剣が空気を切り裂く鋭い音が鳴った。


 ここで終わりなのか。

 絶望で視界が真っ暗に染まりかけた、その時だった。


 ――ガァンッ!!


 耳をつんざくような鋼の衝突音が、酒場に響き渡った。



「なっ……!?」

「はぁ……うるせえ犬共のせいで、すっかり酒が不味くなっちまった」



 驚く騎士の声と、酷く面倒くさそうな男の溜息。

 恐る恐る目を開けると、視界いっぱいに大きな男の背中が広がっていた。

 彼は質素な長剣の腹で、大柄な騎士が全力で振り下ろした一撃を、いとも容易く受け止めていたのだ。



「貴様、何者だ!」

「何者でもねえよ。ただの、運の悪い酔っ払いだ」



 リカーは軽口を叩きながら、手首の返しだけで騎士の巨体を弾き飛ばした。

 そして振り向きざま、床にへたり込む私の襟首を片腕でぐいっと掴み上げたのだ。



「きゃあっ……!?」

「お嬢ちゃんは、俺がこいつらを片付けるまでそこで縮こまってろ」



 放り投げられた先は、頑丈なカウンターの裏側だった。

 直後、バサリと頭から何か重たいものを被せられる。

 それは安い煙草と酒の匂いが染み付いた、毛皮の外套コートだった。

 視界は完全に闇に覆われ、外の様子は一切見えなくなる。



「……ったく。本当にあの婆さんは、面倒ごとばかり押し付けやがる」



 心底ウンザリしたような、けれどどこか寂しげな声。

 まるでマーサと長い付き合いがあったかのような言い草だ。



「いいか、そこから絶対に出るなよ。耳も塞いでおけ」



 乱暴な口調とは裏腹に、ぽんと頭に置かれた彼の手は温かかった。

 だが、その安堵も一瞬でかき消される。


 彼の手が離れた途端に凄まじい破壊音と、男たちの悲鳴が酒場に響き渡ったのだ。


 骨が軋み、砕ける生々しい音。

 重い鎧がへこみ鈍い音。

 人が壁に叩きつけられる衝撃音。

 私はそれらの音を聞き咄嗟に耳を塞いだ。


 王宮では決して知ることのなかった、荒々しい暴力が支配する空間の中にいる。

 普通なら、発狂するほど恐ろしいはずだ。

 だが、私を包み込む外套の温もりと煙草の匂いが、不思議と私の心を落ち着かせていた。


 そうして数十秒も経たないうちに、争う音がピタリと止んだ。



「……おい。もう出てきていいぞ」



 被っていた外套を取りそろそろと顔を出す。

 眩しいランプの光に目を細めると、そこには無傷で立つリカーの姿があった。

 彼は左手をあてながら、自身の首を気怠そうに回している。


 床には、五人の騎士が泡を吹いて転がっていた。

 誰一人として斬られた傷はない。

 彼はたった一人で精鋭であるはずの騎士たちを全滅させたのだ。



「……終わったん、ですか……?」



 震える声で尋ねる私を見ながら、彼は剣を腰に戻した。

 そしていかにも面倒くさそうにしゃがみ込む。



「ああ。自分の足で立てるか?」

「あ……は、はい……」



 差し出された右手におずおずと手を伸ばすと、力強く握られ勢いよく引き上げられる。

 彼はそのままカウンターに向かい、残されていた金貨の袋をさっと回収した。

 そして、床に転がる彼の荷物を手に取り無造作に肩にかける。



「それで? これからどこまで逃げるつもりなんだ、お嬢ちゃん」

「…………」

「まさか、この端金で俺に一生付き添えなんて図々しいことは言わねぇよな?」



 挑発的に見下ろしてくる藍玉色の瞳と目が合う。

 その言葉に、私ははっと我に返った。


 そうだ、彼は忠誠心で動く騎士ではない。

 金で雇った用心棒なのだ。

 雇い主である私が、明確な目的を示さなければならない。


 私は深く息を吸い込み、冷え切った身体を奮い立たせた。

 王族としての矜恃をかき集め、目の前の男を真っ直ぐに見据える。


 ドレスは泥にまみれ、髪は濡れそぼっている。

 それでも私は、誇り高き王の娘なのだ。

 狂った叔父に屈し、むざむざとこの国を明け渡すつもりなど毛頭ない。

 この『伝説』の力を借りて、必ず全てを取り戻す。



「一生なんて言いません。それに、ただ逃げ続けるつもりもありません」



 外套の温もりが残っているせいだろうか。

 自分でも驚くほど、澄んだ強い声が出た。



「私の全財産で、貴方を買いました。だから――」



 私は彼の目から視線を逸らさず、はっきりと宣言した。



「私がこの王国を取り戻すその日まで、貴方の力を貸してください」



 私の言葉に、リカーは一瞬だけ目を丸くした。

 まじまじと私の顔を見つめたあと、肩を揺らして低く笑い始める。



「……ハッ! そりゃまた、とんでもなく大層な依頼だ」



 銀髪をガシガシと掻き回すその顔からは、先ほどまでの怠惰な色は完全に消え去っていた。

 代わりに浮かんでいたのは、獲物を見つけた飢えた獣のような笑み。



「──いいぜ。お嬢ちゃんが国を取り戻すまでとことん付き合ってやるよ」



 それが、伝説の用心棒と、全てを失った私の契約が成立した瞬間だった。



「……んじゃ、さっさとここを出るぞ。それをしっかり羽織ってついてきな」



 彼は私が抱きしめていた外套を指さした後、背を向けて歩き出した。

 私は慌ててブカブカの外套に袖を通し、その大きくて頼もしい背中を追いかける。


 外に出ると、雨はまだ降り続いていた。

 けれど、見上げる鉛色の空は不思議ともう恐ろしくは感じない。

 私の胸の内にあった絶望は、いつの間にか確かな希望の炎へと変わっていたのだった。






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