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31. 女王の戴冠と永遠の契約【完】

 




 処刑場でのあの大逆転劇から、一ヶ月が過ぎた。


 王都を包んでいた物々しい空気はどこへやら。

 街は今、かつてないほどのお祭り騒ぎに沸いている。

 石畳の道には色とりどりの旗がはためき、広場では楽士たちが軽快な曲を奏でている。

 人々は今日という新しい時代の幕開けを心から祝福していた。


 王宮の鏡の前に立つ私は、深紅の正装に身を包んでいる。

 金糸で精緻な刺繍が施されたドレス。

 首元で輝く王家の宝飾。

 そしてつい先ほど戴冠式で私の頭上に置かれた、純金の王冠。


 鏡の中に映っているのは、もう泥にまみれて森を駆け抜けていたお嬢ちゃんではない。

 一国の運命を背負う、女王としての私の姿だった。



「……ふう」


 私は小さく溜息をつき、豪華な耳飾りを指でなぞった。


 この一ヶ月、私は休む間もなく働いた。

 叔父の残党の処分に不当に解体された騎士団の再編。

 そして何よりリカルド様の名誉を完全に回復させるための布告。


 やるべきことは山積みで食事をする暇もないほどだった。

 だが、私の心は不思議と澄み渡っていた。

 あの日、断頭台の上で彼の手を握りしめた時に私の迷いはすべて消え去っていたから。


 戴冠式の祝宴が続く中。

 私は喧騒を逃れて、一人で王宮の奥にある私室のバルコニーへと向かった。


 夜風が火照った肌を心地よく冷ましてくれる。

 遠くで上がる祝杯の声を聞きながら、私は暗がりに佇む人影を見つけた。

 彼はバルコニーの手すりに寄りかかり、夜空を見上げている。



「……やっぱり、ここにいた」



 私の声に、彼が肩をビクンと揺らして振り返った。

 そこにいたのは、スラムの用心棒リカーとしての薄汚れたコート姿ではない。

 王国最強の武の象徴たる『白銀騎士団長』の正装を着ていた。


 今の彼は泥を綺麗に洗い落としている。

 整えられた白銀の髪が月光に映えて、かつての美しい騎士の姿を取り戻していた。

 着せられた上質な礼服がよほど窮屈なのだろう。

 襟元をだらしなく緩め、不機嫌そうに眉をひそめていた。


 そのアンバランスさがどうしようもなく彼らしくて。

 私は思わずふふっと笑みをこぼしそうになる。


 だが、彼は私と目が合うとサッと表情を引き締めた。

 そして、私から明確な距離を取るように三歩下がり、大理石の床に恭しく片膝をついたのだ。



「……素晴らしい戴冠式でした。おめでとうございます、女王陛下」



 低く、平坦な声。陛下というひどく余所余所しく、冷たい響き。

 その言葉に、私の口に浮かびかけていた笑みはスッと消えてしまった。



「……何の真似ですか、リカルド」

「臣下の礼をとっているだけです。これからは俺のような下賎な者が、気安く貴女に触れるわけにはいきませんからね」



 彼は伏し目がちにそう言うと、どこか自嘲するような、ひどく寂しげな笑みを浮かべた。



「俺の役目は、貴女をその玉座にお連れするまで。十年間、スラムの泥水をすすり、金のために何でもやってきた俺の過去は、光り輝く玉座の隣には相応しくありません」

「……」

「表の騎士団長は、カシムに任せます。あいつなら、貴女を立派にお支えするでしょう。……俺は、王家の暗部として裏の汚れ仕事を引き受けます。これからは、誰の目にも触れない影から貴女をお守りしますよ」



 淡々と語られる、彼なりの最も合理的な身の振り方。

 それを聞きながら私の胸の奥で、黒い感情が沸き上がり始めていた。

 悲しみとはまた違う、ドロドロとした負の何か。


 まただ。

 この男は、またそうやって自分の幸せを投げ捨てようとしている。

 私の名誉と安全のためだけに、献身的に尽くすのだ。


 十年前、私を逃がすために大逆人の汚名を被った時も。

 あの小屋の中で、王殺しの犯人として投降した時も。

 彼はいつだって、自分だけが日陰で血を流すことを選ぶのだ。


 その、底なしに優しくて、狂おしいほどの自己犠牲。

 今までは、それに守られて涙を流すしかなかった。

 でも、今の私はもう、あの日の無力な少女ではない。



「……光り輝く玉座ですって? 勘違いしないでください」



 私は極めて低い声で呟くと、履いていたヒールを乱暴に脱ぎ捨てた。

 そして、片膝をつく彼に向かってゆっくりと歩み寄っていく。



「な……っ、おい! 何してんだ、足が冷えるだろうが!」



 突然の私の凶行に、リカルドはリカーの声で慌てて顔を上げる。

 私は、脱ぎ捨てたヒールを足で脇へと蹴り退けた。

 そして素足のまま、冷え切った大理石の床を踏みしめた。


 ドレスの裾から、私のむき出しの素足があらわになる。

 そこには、王族の娘が持つべき白い肌はなかった。


 過酷な逃避行で水ぶくれが潰れ、血にまみれた時の傷跡。

 生々しく消えることのないそれが、はっきりと刻み込まれていた。



「……ッ」



 私の足の傷跡を見た瞬間、リカルドの藍玉色の瞳が痛ましげに大きく揺れる。

 小さく息を呑む音も、この静かなバルコニーでははっきりと聞こえた。



「よく見てください、リカルド。私が歩いてきたのは貴方と同じ、泥と血にまみれた道です」



 私は素足のままさらに彼へと一歩、距離を詰める。

 冷たい石の感触が、私の怒りの熱をさらに鋭く研ぎ澄ましていく。



「この傷跡がある限り、私は綺麗なだけの女王になんてなれないし、なるつもりもありません。……私は泥の味も、血の匂いも知っています。貴方が一人で背負ってきた地獄を私も一緒に這いずり回って、この玉座を掴み取ったんです」

「エクラ、俺は……」

「黙って聞いてください! これは女王命令です!」



 私は、逃げようとする彼の言葉を鋭く切り捨てた。

 そして、片膝をついたままの彼の襟首を両手でつかんだ。

 そのまま強引に彼を立ち上がらせる。



「……っ!?」



 私の突然の腕力に、彼がバランスを崩した。

 顔と顔が、鼻先が触れ合うほどの至近距離になる。



「貴方は用心棒としてはもうクビです。報酬の支払いもこれ以上はしません」



 驚いたまま固まっている彼を、真っすぐに見つめる。

 確かな愛情を乗せながら、私は彼に絶対的な命令を下した。



「その代わり、今度は私の王配になってください。──これは決定事項です。貴方に拒否権はありません」



 それは、女王としての勅命であると同時に。

 一人の女としての、退路を断った逆プロポーズだった。



「俺は……っ、俺は貴女の経歴に、永遠に消えない泥を塗るだけの存在だぞ……!」

「その泥ごと愛していると言っているのよ、この分からず屋!!」



 血を吐くように呻く彼を、私は涙声で怒鳴りつけた。

 そして、彼を掴んでいた両手をそっと離したあと。

 自らのドレスの胸元からある物を取り出し、彼の手のひらへと強引に押し付けた。


 ――チャリン。


 鈍く重い金属音が、二人の間に落ちた。

 それは真っ二つに割られた『白銀騎士団の勲章』の片割れだった。

 彼が十年間、革袋の底で大事に隠し持っていたあの純銀の塊。

 私は王都を取り戻した後、王室の鍛冶師に命じてあの勲章を物理的に二つに割らせたのだ。



「な……勲章が、割れて……」

「もう半分は、ここにあります」



 私は、自分の首元に輝く銀のチェーンを引き出した。

 そこには、もう半分の銀の勲章がペンダントトップとして私の心臓の上で揺れていた。



「私に必要なのは、影に隠れて私を見守る番犬じゃありません。玉座の隣で、私と一緒に泥を被ってくれる夫です」



 私は彼の手に半分の勲章を握らせ、彼の手のひらごと両手で包み込んだ。



「これからは痛みも泥も名誉も、すべて半分こです。貴方には一生私の隣で、私の我儘に付き合ってもらいます」



 そう、はっきりと彼に告げた。

 バルコニーに、永遠にも似た沈黙が降りる。

 恥ずかしいことを言っている自覚はあった。

 段々と顔が赤くなってくる。


 リカルドは、自分の手のひらに握らされた半分の勲章と。

 私の首元で揺れるもう半分の勲章を、交互に見つめ続けていた。

 しばらくして、彼の肩が微かに震え始める。



「……ははっ」



 それは、最初は微かな息漏れのような音だった。

 だが、すぐにその音は深い笑い声へと変わっていった。

 腹の底から湧き上がるような、どうしようもない諦めと歓喜が混ざったような声。



「はははっ……くくっ……あー、クソッ……」



 彼は空いている方の手で、自分の顔を覆うようにして天を仰いだ。

 彼のその様子を見て、私は悟った。

 彼の中で十年間張り詰めていた『自己犠牲』という名の堅牢な鎧。

 それが今、粉々に砕け散ったのだ。


 彼が顔を覆っていた手をどけた時。

 そこにいたのは恭しい臣下でも、傷ついた騎士でもなかった。

 十年前の高潔な英雄の姿ともまた違う。

 辺境のスラムで私を過保護に守り抜いてくれた顔つきだ。



「……本当に、とんでもなく世話の焼ける我儘な女王様だな」



 彼は低い声でそう呟いたあと、私の腰を自らの腕で強引に引き寄せた。



「きゃっ……!」



 私の身体がふわりと浮き上がり、冷たい石床から足が離れる。

 彼は素足の私を、まるで羽根のように軽々と抱き上げた。

 そして、そのまま自身の胸の中にすっぽりと閉じ込める。



「――謹んでお受けいたします、我が女王陛下。あんたが飽きて俺を追い出すその日まで、地獄の果てまでお供させてもらうわ」



 彼は私を抱き上げたまま、悪戯っぽく、けれどこの上なく甘い視線で私を見上げた。



「覚悟しろよ。影に隠れなくていいって言うなら、もう二度と、遠慮なんかしてやらねえからな」

「ふふっ、望むところですよ。私の方こそ遠慮しませんからね」



 私は彼の首に両腕を回し、挑発するように微笑んだ。

 彼は「ハッ」と短く笑い、そのまま私の唇を一切の隙間なく塞いだ。


 夜風が、私たちの間を優しく吹き抜けていく。

 もう、追っ手の足音に怯える必要もない。

 過去の亡霊にうなされる夜も来ない。

 私たちはただ、互いの熱と、泥にまみれた十年の記憶を溶かし合わせるように。

 深く口づけを交わし続けた。



「一生付き合ってやるよ、俺のエクラ」



 唇を離した彼が、私の耳元で低く甘く囁いたその誓いは。

 世界中のどんな王冠よりも重く、私の心を永遠の幸せで満たしてくれた。


 冷たいバルコニーの特等席。

 偽装夫婦から始まった私たちの逃避行は、決して消えない泥の勲章と共に、誰よりも過保護で甘い、永遠の愛の物語へと辿り着いたのだった。






最後までお付き合いいただきありがとうございました!

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