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27. 女王の演説と白銀の決起

 




 安酒の匂いと男たちの暴力的な熱気が、屯所の酒場に充満していた。

 百名近い非番の騎士たちが、使い古した革鎧姿で巨大な木製ジョッキを高く掲げている。



「裏切り者の死に乾杯!」

「とうとう俺たちの十年分の恨みが晴れるぞ!」

「あの金の亡者の首が飛ぶ日をどれだけ待ち望んだことか! ざまぁみろ!!」



 鼓膜を突き破らんばかりの歓声。床を踏み鳴らす音。

 そして、下品で残酷な笑い声。

 それは、この世で最も醜悪で吐き気を催すような最悪の祝宴に映った。

 自らの命と尊厳を削って、彼らを生かし続けてきた大恩人の公開処刑。

 そうとは知らずに、ゲラゲラと笑い飛ばすかつての部下たちの姿が、ひどく滑稽で悲しかった。


 その狂気じみた喧騒の中。

 最後の一人が店に入ったことを確認したカシムが、音もなく静かに動いた。

 彼はそっと酒場の分厚いオーク材の扉を閉めると、重い鉄のかんぬきに手をかける。


 ――ガチャン。


 鈍く重い金属音が鳴り、逃げ場のない完全な密室が出来上がった。

 その音が酒場の淀んだ空気を微かに震わせたが、狂乱する男たちは誰一人として気づかない。


 私は奥の小部屋から歩み出ると、軋む木の階段をゆっくり上った。

 高い踊り場へと立ち手すりに手をかけ、狂態を晒す彼らを見下ろす。

 用意された服は、相変わらず村娘が着るような質素で地味なものだった。

 だが、私は真っ直ぐに背筋を伸ばし、腹の底から彼らを制圧するための声を張り上げた。



「……騒ぎを、収めてください」



 凛とした私の声が喧騒の隙間を縫って、酒場の隅々にまで響き渡った。



「私は第一王女、エクラ・フォン・ガランサスです」



 一瞬にして、水を打ったような静寂が酒場全体を支配した。

 高く掲げられていた無数のジョッキが、空中でピタリと止まる。

 百人近い荒くれ者たちの視線が、一斉に踊り場の私へと突き刺さってきた。

 薄暗い室内の光に照らされた私の姿を見て、やがて、一人の柄の悪い騎士が鼻で嘲笑った。



「なんだぁ? どこから迷い込んだ浮浪児かと思えば……王女様だと?」

「本物の王女様が、なぜこんな国境の掃き溜めに泥だらけで突っ立ってんだ!」

「まさか、あの裏切り者の助命嘆願にでも来たのか! 笑わせるな、偽物め!」



 飛んでくる、耳を塞ぎたくなるような卑劣な野次と、むき出しの明確な殺気。

 だが、微塵も恐怖は感じなかった。

 私は王族としての矜持を保ち、ひどく埃っぽい空気を肺の奥へと吸い込む。

 そして、できる限り冷静に、彼らの凝り固まった理性を解きほぐすような声で語りかけた。



「……皆さんの怒りは、痛いほど理解しています」



 彼らのすり減った革鎧と、刻まれた深いシワ。

 私はそれらを見ながら、気持ちが伝わるように言葉を紡ぐ。



「王国最強と謳われた『白銀』の誇りを理不尽に奪われ、この過酷な辺境に追いやられた苦しみ。それがどれほど深く、耐え難いものであったか。私には計り知れません。……ですが、どうか真実を聞いてください。彼はあの夜、国を裏切ってなどいません」

「はっ! 真実だと!? あの男が王様を殺そうとしたのは、揺るぎない事実だろうが!」



 嘲笑交じりの怒声が飛ぶ。

 私は手すりを強く握りしめ、真っ向からその言葉を否定した。



「違います! あの夜、父を毒殺し、私たちに濡れ衣を着せたのは、叔父のオズワルド公なのです!」

「なんだと……?」

「考えてもみてください。当時、父王の最も厚い信任を得ていた彼が、なぜ急に暗殺などを企てるのですか? 何の利益があるというのですか? すべては、正当な王位継承者である私を排除し叔父が玉座を簒奪するための、あまりにも卑劣で用意周到な罠だったのです。……リカルドは、ただ私を逃がすためだけに、自ら大罪人の汚名を――」

「寝言は寝て言え! この偽物め!!」



 私の必死の説得を、最も残酷な言葉が、真っ二つに切り裂いた。



「あの自分の保身しか頭にねえ、薄情な金の亡者が! 王女のために泥を被るわけがねえだろうが!!」



 私の言葉を遮るように、酒場全体から下劣な笑い声が巻き起こった。

 誰も、私の言葉に耳を貸そうとはしない。

 十年という歳月が彼らを腐らせたのだ。

 自分たちは裏切られた被害者だという、都合のいい言い訳で頭が麻痺している。

 理を尽くした言葉も、真実を伝えようとする誠意も、この泥に塗れた男たちには届かない。


 私のこめかみの奥で、何かが決定的にひび割れる冷たい音がした。


 ――今、彼らはなんと言った? 保身しか頭にない、薄情な金の亡者?


 最後まで騎士の誇りを捨てなかった彼を。

 常に私のことを気にかけてくれた、私のたった一人の騎士様を。

 頑丈な砦の奥で、彼の血肉をすすって生きてきた彼らが笑い飛ばしたというのか。



「……彼を、金の亡者と呼ぶのですね」



 私の声は、先ほどまでの外交的な響きを完全に失っていた。

 声音が、地獄の底を這うような氷点下の低さへと変わる。

 私の両手は、きつく強く握りしめられていた。爪が掌に食い込み、血が滲む。


 始めは彼らの心に寄り添い、理性的に説得してまとめ上げようと思っていた。

 だが、もう怒りを抑えきれない。

 愛する人を侮辱された、暴力的なまでの純粋な怒り。

 それが私の理性を一瞬にして焼き尽くし、視界を真っ赤に染め上げていく。



「黙りなさいッ!!!!」



 空気を切り裂くような、怒りに満ちた一喝。

 それは、少女の悲鳴ではない。

 覇気と殺意に満ちた女王の怒号だった。

 圧倒的な声量に騎士たちが怯んだ隙に、私は懐から血染めの遺書を乱暴に取り出し頭上高く掲げた。



「彼が金目当てで毒殺を企てたのなら! なぜ父は、死の淵で『リカルドは裏切っていない』と書き遺したの!!」



 私は乾いた羊皮紙に記された父様の言葉を、声を張り上げて読み上げた。

 彼は私が成人するまでの時間を稼ぐため、あえて泥を被ったのだという事実。

 そのことを強調して、全員に聞こえるように朗読する。


 突きつけられたその言葉と、見間違えることのない王家の紋章。

 その二つに、嘲笑していた騎士たちの顔が引きつり、強張った。

 ざわめきが明確な戸惑いへと変わっていく。


 だが、私は彼らに息をつく暇を与えなかった。

 さらに、彼らの心臓を直接貫く、決定的な証拠を懐から引き抜く。


 獅子と百合の意匠が入った『白銀騎士団長の勲章』だ。

 純銀の塊が薄暗いランプの光を冷たく反射する。

 彼らがかつて命を預け憧憬の念を抱いた、慈悲の英雄の絶対的な証。



「本当に欲に目が眩んだ男なら! なぜ真っ先にこの純銀の塊を売り払わなかったの!! 泥水をすすりながら十年間も、一日たりともこれを手放さずに、大事に抱えていたのよ!!」



 逃げ場のない物理的証拠と、彼らが信じていた前提を完全に覆す矛盾の噴出。

 それらを前にした騎士たちの顔から、みるみるうちに血の気が引いていくのが分かった。



「な……なんだ、それは……。どうして、そんなものを……」

「じゃあ……俺たちは、なぜ辺境に追いやられたんだ……? 国に見捨てられたわけじゃ、なかったのか……?」



 激しく動揺し、互いに顔を見合わせる彼らを、私は決して逃がさなかった。

 隠されていた真実を余すことなくぶつけ、彼らの心臓を直接鷲掴みにして握り潰す。



「国からは、とっくに見捨てられているわ。だから考えてみなさい! 補給も完全に絶たれたあなたたちが、なぜ十年間も剣を錆びさせず、誰一人飢え死にすることなく! この不毛な砦で生き延びてこられたのかを!!」



 私のその決定的な言葉を受け。

 踊り場の下、カウンターの横に沈黙して立っていたカシムが、ついに動いた。

 彼は血を吐くような、あまりにも悲痛な声で呻いた。



「……この砦は十年間、団長からの『名無しの送金』がなきゃとっくの昔に餓死して全滅していた。スラムの底であいつが自分の血を売り、泥に塗れて稼いだ金でな」



 信頼している副団長の、重すぎる自白。

 それが、彼らの息の根を止める致命的な一撃となった。

 ざわざわと響いていた戸惑いの声が、悲鳴のような絶望へと変わっていく。



「彼は……あなたたちを失わないために。自分を恨むあなたたちを養うために! たった一人で泥を被り、命を削って、今日まで金を送り続けていたのよ!!」



 私は階段の手すりから、大きく身を乗り出した。

 絶望に顔を激しく歪める騎士たちへ、最後にして最大の言葉の刃を振り下ろした。



「あなたたちは十年間、憎き恩人の血肉を食らって、のうのうと生きてきたのよ!!」



 その言葉がとどめとなった。

 無数の木製ジョッキが、騎士たちの震える手から音を立てて床に落ちていく。

 血のように赤黒い安エールが、石造りの床を無惨に濡らしていった。


 自分たちは先ほど、何に向かって乾杯したのか。

 どれほど最悪で、悍ましい祝杯を挙げていたのか。

 それを完全に悟り、騎士たちが次々とその場にガクンと膝をつき、無様に崩れ落ちた。



「あぁ……ああああぁっ……!! 俺は、俺はなんてことを……!!」

「俺たちは、なんということを……団長、俺は……っ!!」



 荒々しく、ひどく醜い男泣きの嗚咽が、埃っぽい酒場に反響していく。

 それは凄まじい罪悪感と、騎士としての精神の完全な崩壊を意味していた。

 自らが恩人の命を削って生かされていたという事実が、彼らの十年間の誇りや矜持を粉々に打ち砕いたのだ。



「団長を……団長を、今すぐ助けに行くぞ!!」



 突如、罪の意識に耐えきれなくなった騎士が叫んだ。

 血走った目をしながら、弾かれたように立ち上がり、剣の柄を握りしめる。



「武器庫を開けろ! 今すぐ『白銀の重鎧』を出してこい! 玉砕覚悟で王都へ乗り込み、俺たちの命と引き換えに、なんとしても団長を助け出すんだ!!」



 贖罪のための暴発。自らの死に場所を求めるような、狂気を孕んだ怒号の連鎖。

 それが次々と騎士たちへ伝染し、酒場は異様な熱狂に包まれようとしていた。

 だが、私はその自己満足の特攻戦術を、決して許しはしなかった。



「駄目よ!! 重い鎧なんて着ていれば、絶対に処刑に間に合わない!!!!」



 私の鋭い一喝が、暴走しかけた男たちの足をその場に縫い留める。



「過去の誇りになんて縋るな! 必要なのは、自己満足の死に場所じゃない。彼を確実に助け出すための速さと、敵の首を刎ねる剣一振りだけよ!!」



 防御を完全に捨て、軽装で王都の正規軍と正面衝突する。

 それは、自殺行為に等しい狂気の戦術だ。

 息を呑み戸惑う騎士たちの前に、ゆっくりと歩み出たのはカシムだった。


 彼は酒場の壁にかかっていた、美しい銀の胸当てを乱暴に引きはがした。

 それは、十年間、彼らが心の支えとして大切に飾っていた『白銀騎士団の象徴』だ。



「……殿下の言う通りだ!!」



 カシムはその誇り高き銀の胸当てを、躊躇いなく硬い石の床へと叩きつけた。

 ガシャンッ、とひどく冷たい音が響き渡る。

 さらに彼は自らのブーツでその銀の板を勢いよく踏みつけ、無惨にひしゃげさせた。



「俺たちは十年間、こんな見栄だけの鉄屑に縋って真実から目を逸らしていた! 俺たちの誇りは鎧じゃない、あの男の背中だ! 必要なのは、団長を救うための剣だけだ!!」



 砕け散った銀の破片が、薄暗い床に散乱する。

 それは、彼らを縛り付けていた過去の呪いが、完全に解け落ちた瞬間だった。


 行動一つで、重鎧を身につけるという未練を強制的に断ち切ったのだ。


 騎士たちは一瞬呆けたあと、次々と自らの腰の剣だけを力強く握り直した。

 そして、踊り場に立つ私に向かって、全員が深く片膝をつく。



「我らが女王陛下に!!」



 密室の酒場に死兵となる覚悟を決めた男たちの、地鳴りのような咆哮が響き渡る。



「この命! リカルド団長を奪還し、貴女に真の玉座を捧げるために!!」



 カシムがその光景を満足げに見て、鉄の閂を乱暴に外した。

 分厚いオーク材の扉が、内側から大きく蹴り開け放たれる。

 直後、嵐のような勢いで、怒りと覚悟に燃える騎士たちが馬屋へと向かって駆け出していく。


 彼らの頼もしい背中を見送りながら、私は深く息を吐き出した。

 あとは、彼の命のタイムリミットに間に合わせるだけだ。


 私は胸の前で、彼が残してくれた白銀の勲章を、祈るように強く握り締めた。

 銀の冷たさが、私の心を研ぎ澄ませていく。


 私は、これから最愛の彼を取り戻すために。

 そして、私からすべてを奪った者たちから真の国を取り戻すために、王都へ向かう。


 少女の面影を完全に捨て去り、真の女王としての確かな覚悟を、心に刻み込んだのだった。






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