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26. 王女の狂気と偽名の奉仕

 




 暖炉の火の粉が爆ぜるパチパチという音だけが響く中。

 私は薄暗いランプの光を挟み、カシムと真正面から向き合った。



「……叔父が父を毒殺し、私に罪を着せました。リカルドは私を逃がすため、父様を殺した犯人だと言ってオスカーに連行されていきました」



 これまでの逃避行のすべてを絞り出すように語る。

 十年前の真実。スラムでの再会。

 彼と協力しながら泥水をすすりながら辺境を目指した日々。

 そして一昨日、彼が王殺しの犯人として投降したこと。

 黙って聞き入っていたカシムは、ひどく痛ましげに深く目を閉じた。



「そう、ですか……。やはり、陛下の手紙は真実であったのですね……」



 それは、胃の腑から直接血を吐き出すような、酷く掠れた呻き声だった。

 カシムは重い腰を上げ、カウンターの奥にある鍵付きの引き出しを開けた。

 そして、何かを手に取り戻ってくる。


 彼の手によってテーブルの上に置かれたもの。

 それは、赤黒い染みがべったりと付着した、一通の丸まった羊皮紙だった。



「一昨日、瀕死の王直属の密偵がこの砦に辿り着き、これを私に託して息絶えました」

「それは……」

「陛下が崩御される直前に書かれた遺書です」



 カシムから手渡された羊皮紙を、私は震える両手で開いた。

 そこに記されていたのは乱れに乱れた筆致だった。

 毒を盛られた後、生死を彷徨う父様が必死で残したことがわかるような文字。

 インクの掠れと涙か汗で滲んだ跡が、父様の無念の深さを物語っている。



『私を、毒牙にかけたのは……弟だ。

 十年前のあの日、リカルドは裏切ってなどいない。

 彼はエクラが成人するまでの時間を稼ぐため、あえて大逆人の泥を被った。

 身を挺して、弟の目から遠ざけてくれたのだ。

 もし娘が、エクラが、そちらへ逃げ延びた時は……。

 どうか、あの子の力になってやってくれ』



 震える両手から、ポツリ、ポツリと冷たい雫が零れ落ちた。

 父様の最期の言葉が記された羊皮紙に、私の涙が不格好な暗い染みを作っていく。



「お父、様……っ」



 十年。あまりにも長すぎた十年の歳月。

 叔父の陰謀によって大逆人の汚名を着せられ、国を追われた騎士リカルド。

 彼が私のために泥を被り、すべてを犠牲にしてきたという揺るぎない証拠。

 この手紙があれば、残酷な運命をようやく覆すことができる。

 私は、震える指先で羊皮紙の端を白くなるほど強く握りしめた。



「……お願いします、カシム。父様の遺志を継ぎ、力を貸してください」



 枯れ果てた喉から、祈るような声が漏れる。

 誤解は解けた。

 ならば、父に忠誠を誓ったこの辺境の騎士たちが、再び立ち上がってくれる。


 私はすがるような思いで、薄暗いランプの光の向こうにいる騎士を見つめた。

 だが、カシムの反応は、私の淡い期待を無惨に打ち砕くものだった。



「……それは、できません」



 それは隙間風の音よりも冷たく、重い拒絶だった。

 私は息を呑み、信じられないものを見る目で彼を見返す。



「なぜ……? 父様の言葉が、信じられないというのですか?」

「いいえ。私は信じます。貴女の話も全て、紛れもない真実でしょう」



 カシムは深く刻まれた眉間の皺を寄せ、疲れたように目頭を揉んだ。

 十年前から変わらない、彼が重圧に耐える時の小さな癖だ。

 そのひどく痛ましげな表情のまま、彼はゆっくりと首を横に振る。



「ですが、外にいる連中は違う。彼らにとってリカルドという男は……十年前に突然国を裏切って、家族も誇りも奪った仇なのですよ」

「それは違いますっ! 彼は私を、この国を守るために……!」

「ええ。私はその真実をたった今知りました。ですが、他のものにはどう説明しますか」



 カシムの声が、微かに震えていた。

 それは怒りではなく、部下たちを縛り付ける呪いに対する悲嘆だった。

 その事実が、鋭い刃となって私の胸に突き刺さる。



「十年間、彼らはリカルドへの憎悪だけでこの辺境で生き抜いてきた。そんな男が守ろうとした貴女を、彼らが素直に受け入れるはずがないのです」

「そんな……」

「それに、我々はこの地で細々と命を繋ぐ残党に過ぎない」



 カシムは自嘲気味に笑うと、どこか遠くを見るような目をした。

 かつての栄光や英雄と呼ばれていた彼の姿を思い出しているのだろうか。

 その表情は酷く悲しそうに見えた。



「正規軍が守りを固める王都に、このわずかな戦力で正面から挑む。それは火を見るより明らかな、全滅という名の自殺行為です。そんな無謀な戦いに長い年月を共にした仲間を駆り立てることなど、私にはできない」



 視界が、絶望でじわりと滲んでいく。

 ランプの灯りがぼやけ、幾重にも光の輪となって散った。

 リカルドがあれほど命を懸け、泥水をすすって繋いでくれた細い糸。

 それが、こんな辺境の薄暗い砦で、あっけなく途切れてしまうというのか。


 奥歯を強く噛み締めると、口の中にじわりと鉄の味が広がっていった。

 俯き服の裾を強く握りしめる私に、カシムが腹の底から重い溜息を吐き出す。



「……ただ、リカルドという男の真意を、私ももっと早く疑うべきだった」

「え……?」



 顔を上げた私の前で、カシムは再び机の奥を探り始めた。

 そして取り出されたのは、麻紐で無造作に束ねられた一束の古びた紙切れだった。



「この砦には、十年前からずっと出所不明の支援金が届いていました。差出人は偽名でしたが、今ならわかります。……これを見てください」



 手渡された紙束を受け取り、私は思わず息を呑んで硬直した。

 端が擦り切れ、泥や正体不明の黒い染みが付着した薄汚い紙切れ。

 そこには、この辺境の砦を維持し、部隊を養うための膨大な額の送金記録が記されていた。



「おそらく団長がスラムで、用心棒や裏稼業をして稼いだ金でしょう」



 手の中の紙束が、まるで燃える石炭のように熱く感じられた。

 これは金などではない。彼の血肉そのものだ。



「あの男は、我々に恨まれることを承知で、裏から我々を生かしていたのです」



 カシムの瞳には、かつての主に対する深い敬意と、己の無知への悔恨が入り混じっていた。



「その血塗られた金で生き延びたこの命を、無謀な反乱で無駄に散らすわけにはいかない」

「カシム……」

「陛下の仰る『力になれ』とは、復讐の剣になるという意味ではないはずです」



 暖炉の火の粉がパチリと爆ぜ、静寂に包まれた部屋に乾いた音を響かせる。

 カシムは私を真っ直ぐに見据え、静かに、だが揺るぎない決意を持って断言した。



「この辺境の地で殿下を安全に匿い、静かにその命をお守りすることだと判断したのです。……それが、あの馬鹿な団長の願いでもあるはずですから」



 彼なりの、最大限の忠義なのだろう。

 私を生かすことこそが、リカルドへの最大の報いだと信じているのだ。

 だが、その言葉は、私の心に燻っていた火種に油を注ぐ結果にしかならなかった。



「匿うですって……? ふざけないで!」



 気づけば私は、椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がっていた。

 激しい怒りと焦燥が、全身の血を沸騰させるように駆け巡る。



「彼のためにも、私は早く国を取り戻さなくちゃいけないの! 彼が私のために捨てた十年間を、私が彼に返さなきゃいけないのよ!」



 感情のままに叫ぶ声が、薄暗い砦の石壁にカンカンと反響する。

 だが、激昂する私に対し、カシムはひどく静かな声で告げた。



「もう……間に合わないんです、殿下」

「え……?」

「昨夜、王都から伝書鳩で報せが届きました。今から十日後に、オズワルド公が新たな王として戴冠式を行います」



 オズワルド。父を毒殺し、私からすべてを奪った憎き叔父の名前。

 その名を聞いた瞬間、背筋に氷柱を突き立てられたような悪寒が走った。



「そしてその日に……大罪人リカルドの公開処刑も行うそうです」

「っ……!」



 ドクン、と心臓が嫌な音を立てて跳ねた。

 処刑。リカルドが、殺される。

 私を逃がすために、自ら囮となって捕らえられた彼が殺されてしまう。



「ここからでは、どう足掻いても間に合いません!」



 カシムが、悲痛な叫び声を上げた。

 現実という名の、あまりにも分厚い壁が立ちはだかる。



「ここから完全武装して行軍したところで、どう頑張ったところで間に合わない。早馬を夜通し飛ばして、ようやく届くのが十日という距離なんです。……無謀だ。諦めてください、殿下」



 諦めろ。

 その言葉が、頭の中をぐわんぐわんと反響している。

 パチパチという暖炉の音が、急に遠くの出来事のように聞こえた。

 手の中にある父の遺書と、リカルドの血に塗れた領収書。

 二人が命を懸けて繋いでくれた私の命は、彼らを見捨てることでしか成立しないというのか。



「今、諦めろと言ったの?」



 私の口から紡がれた声は、自分でも驚くほど低く、そして冷たく澄み切っていた。



「殿下……」

「嫌よ。国も、彼も! 全部取り戻すの! 一つだって諦めてたまるものですか!」



 カシムが宥めるように手を伸ばすが、私はそれを鋭い視線で睨み制止した。



「彼を見殺しにして、この辺境で私だけが安全に生きていくなんて、できるわけがないでしょう!」

「しかし、現実問題として距離が……!」

「重装甲で速度が落ちるというのなら、鎧を捨てて軽装で行けば間に合うでしょう!」



 頭の中で、何かが弾ける音がした。

 王族としての常識。安全な策。堅実な戦術。

 そんなものは、今の私には足枷にしかならない。

 必要なのは、常軌を逸した狂気だ。



「不眠不休で馬を飛ばせば、ここからでも十日で王都に着けるはずよ!」

「なっ……! 正気ですか!?」



 カシムが目を見開き、今日一番の驚愕の声を上げて立ち上がった。

 彼が乱暴に立ち上がった拍子にランプが大きく揺れ、二人の影が壁で激しく踊る。



「鎧も着ずに、正規軍と正面からやり合えと仰るのですか!? 相手は万全の準備を整え、分厚い城壁に守られた王都の精鋭部隊ですよ!?城壁から降り注ぐ矢の雨を、素肌で受けるつもりですか!」



 彼の言う通りだ。

 丸腰で要塞に突撃するなど、戦術以前の愚行極まりない。

 犬死にだ。カシムの怒りは、指揮官として当然のものだった。



「ええ、狂気の沙汰よ。自殺行為だと笑えばいいわ」



 だが、私は一歩も引かなかった。

 むしろ一歩前に踏み出し、怯むカシムを真っ直ぐに見据えて言い放つ。



「でも、十年間。貴方たちは彼に守られてきたのでしょう」

「……ッ!」

「彼の血の滲むような送金で命を長らえてきた貴方たちなら、その狂気に乗れるはずよ」

「……ッ、殿下、それは……」



 カシムは息を呑み、言葉を失った。

 一番痛いところを突かれた顔だった。


 生き延びてしまった負い目と守られていた屈辱。

 そして、騎士としての捨てきれぬ誇り。

 それらが彼の胸の中で激しくせめぎ合っているのが手に取るようにわかる。


 私は姿勢を正し、王族としての威厳を込めて深く、静かに頭を下げた。



「カシム、お願いがあります」

「殿下? 何を……頭を上げてください!」

「今からこの酒場に、かつて白銀騎士団だった者たちを集めてください。一人残らず、全員を」



 顔を上げた私の瞳は、薄暗いランプの光の中で、爛々と異様な光を放っていたことだろう。

 恐怖はない。ただ、腹の底から湧き上がる熱い思いだけが全身を支配していた。



「私は、最後まで諦めたくありません。どうか私に、彼らを説得する機会をください」



 ギュッと握りしめた拳から、自らの爪が食い込んで血が滲む。

 泥水をすすり、私の命を繋いでくれた彼の背中を今度は私が守る番だ。

 背後で暖炉の炎が大きく爆ぜ、私の狂気に満ちた決意を表すように赤々と燃え上がっていた。






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