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25. 最果ての防衛砦と白銀の記憶

 




 幾度、濁った泥水をすすり、幾度、冷たい土の上に倒れ伏しただろうか。


 感覚を失っていた足裏の傷は再び裂け、薄汚れた包帯の上に、じわりと新しい血を滲ませている。

 木の根で転んでできた膝の擦り傷からも、細い赤い糸のような血がとめどなく流れていた。


 刃のように冷たい夜の山風が、私の頬を容赦なく打ち据えていく。

 荒い呼吸をするたびに、肺の奥でひどく鉄錆びた血の味がした。

 それでも私は、決して歩みを止めなかった。

 止まれば、彼の処刑に間に合わないかもしれないから。


 鬱蒼とした辺境の深い森を抜け、視界が急に開けた先。

 荒涼とした土埃と、強い鉄錆の匂いが鼻を容赦なく突く、命を拒絶するような灰色の荒野の果て。

 そこには、月光を遮るほどに巨大な、黒々とした石造りの城壁が、絶望のように聳え立っていた。


 王国から追放された者たちや、罪人たちが集う最果ての吹き溜まり。

 北方の蛮族の脅威から国を守るための、血塗られた防衛砦――グレイフォールだ。



「……着いた。やっと……っ。ここに、彼の……」



 極度の疲労でかすれる声と共に、私は重い防壁の門へとよろめきながら近づいた。

 だが、その歩みは無情にも、門の前に立つ二人の屈強な門番の、交差された槍によって阻まれた。



「止まれ! ここは物乞いの集まるゴミ箱じゃねえぞ、浮浪児。命が惜しけりゃ引き返せ」

「薄汚えガキだな。施しが欲しいなら、他所を当たれ。さっさと失せろ」



 見下ろす門番たちの目は、路傍の汚い石ころでも見るかのように冷酷だった。

 それも無理はない。

 今の私の姿は、誰がどう見ても、一国の王女になんて見えるはずがなかった。

 全身は泥と乾いた血にまみれ、金糸のように美しかった髪は枯れ葉が絡まりひどく乱れている。

 身につけているのは破れた庶民のワンピースに、泥だらけの鹿革の靴だ。


 だが、ここで追い返されるわけにはいかない。

 私には、彼を救い出すための力がどうしても必要なのだ。



「お願いです。中に入れてください……! 砦の責任者に、会わせてください!」

「しつけえな。痛い目見ねえと分からねえか? 兵士の槍は、飾りじゃねえんだぞ」

「時間がないんです! 叔父の……オズワルド公の陰謀で、お父様が……国が奪われたのです!」



 私の必死の訴えも、荒くれ者の門番たちには、ただの狂人の戯言にしか聞こえないようだった。

 門番の一人が舌打ちをし、私の細い肩を乱暴に突き飛ばそうと太い腕を伸ばしてくる。


 どうすれば伝わる。どうすれば、この強固な扉をこじ開け、彼らの心に届くことができる。

 焦燥と絶望が入り混じる中、私は彼らと自分を繋ぐ、たった一つの『共通項』を思い出した。

 私は、迫り来る太い腕を躱し、肺に残ったすべての空気を振り絞り、喉が裂けるほどの声で叫んだ。



「リカルドを……っ! リカルドを、助けなきゃいけないんです!!」



 ピタリ。周囲を吹いていた風の音が、完全に消え去ったような錯覚に陥った。

 先程まで私を鬱陶しそうに見下ろしていた門番たちの顔から、一切の感情が抜け落ちている。


 ──チャキッ、チャキッ……。


 門の奥、そして周囲の暗がりから、無数の剣が鞘を滑り出る、無機質で冷酷な金属音が鳴り響く。

 それは、一つ鳴れば次々と連鎖していく、死を告げる不吉な鐘の音のようだった。

 肌をチクチクと無数に刺すような、逃げ場のない圧倒的な殺気。

 むせ返るような死の匂いが、門の前に集まってきた数人の騎士たちから一斉に放たれたのだ。



「……おい、ガキ。いま、誰の名前を出した?」



 門番の一人が、地獄の底から響くような声で問う。

 鋭く研ぎ澄まされた剣先が、私の喉元スレスレ、肌に触れるか触れないかの位置に突きつけられた。

 刃から伝わる氷のような冷気が、私の首筋の産毛を逆立たせ、極限の恐怖を煽る。



「金に目が眩み、王を殺そうとした大罪人。俺たち『白銀』の誇りを、永遠に泥に塗れさせた……」

「あの裏切り者の名前を……てめぇ、一体どこで聞いた」



 彼らの瞳の奥に渦巻いているのは、十年間という途方もない時間をかけて熟成された、底知れぬドス黒い憎悪だ。

 そうだ。ここは白銀騎士団の流刑地。彼を最も憎み、彼に復讐を誓う者たちが集う吹き溜まり。

 軽々しくその名を口にすれば、即座に命を奪われかねない。絶対の『禁忌』だったのだ。


 鋭利な刃を突きつけられ、喉の奥が恐怖で引きつり、膝がガクガクと震えそうになる。

 だが、私は決して目を逸らさなかった。ここで怯めば、彼を助け出すことは絶対にできない。

 私の胸の奥には、彼が十年間守り抜いてくれた、冷たくて重い『白銀の勲章』がある。

 その絶対的な忠誠の重みが、私の震える両足に、王女としての鋼の力を与えてくれていた。



「……騒がしいな。辺境の夜更けに、なんの騒ぎだ」



 彼らを説得しようと、私が乾いた唇を開きかけたその時。

 背後から、ひどく重々しい声が落ちた。

 むき出しの殺気に満ちていた荒くれ者の騎士たちが、その声に恐れをなしたようにサッと左右に割れる。

 すると、松明の赤い炎に照らされた奥から、一人の大柄な男がゆっくりと足音を響かせて姿を現した。


 煤けた黄土色の、短く刈り込まれた髪。

 暗闇の中でも鋭く光る、獲物を狙う鷹のような焦げ茶色の目。

 歴戦の過酷さを思わせる深い傷跡が、頬から顎にかけて無骨に刻まれた、ひどく険しい顔立ち。

 右肩を庇うように手をやりながら歩いてきたその男は、周囲の空気を圧迫するほどの威圧感を放っていた。



「副団長……! 申し訳ありません、お休み中でしたか」

「この浮浪児が、あの裏切り者の名を口にしまして。今すぐ、舌を切り落とすところです」



 周囲の騎士たちが、一斉に緊張の面持ちで頭を垂れ、男が通るための道を恭しく譲る。

 その男は、剣を突きつけられた私の目の前で立ち止まり、ひどく冷たい、氷点下の瞳で見下ろしてきた。

 その視線は、私のボロボロの衣服から血の滲む足、そして、絶対に引こうとしない瞳の奥までを値踏みする。


 十年の過酷な歳月が、彼の容姿をひどく老け込ませ、白髪を交じらせていた。

 けれど、私はその鋭い眼光と、無意識に右肩に手をやる彼の小さな癖を、決して忘れてはいなかった。



「貴方、ひょっとして……カシム、なの……?」



 カシム。

 それは十年前、白銀騎士団の副団長として、常にリカルドの右腕として、彼に背中を預けていた男。

 誰よりも国と騎士の誇りに忠誠を誓っていた、剛健なる騎士の名前だ。


 私がその名をはっきりと呼んだ瞬間。

 彼の瞳が、私の泥だらけの顔を穴があくほどじっと見つめる。

 やがて、その瞳が徐々に驚愕に見開かれ、硬く結ばれていた唇が、微かに震え始めた。



「まさか……。そんな、はずが……。姫、様……なのか……?」



 かすれた、信じがたい美しい幻でも見るような、ひどく脆い声だった。

 彼の顔に浮かんでいた敵意や兵士としての猜疑心が、途端になりを潜め、崩れ落ちていく。

 彼は手のひらを返したように激しく狼狽しながら、私の喉元に剣を突きつけていた門番たちに向かって怒鳴る。



「……ッ、貴様ら、今すぐ剣を収めろ!! その槍を下ろせ!! 何をしているか分かっているのか!!」

「ふ、副団長!? しかし、こいつはあの裏切り者の……!」

「黙れ!! 彼女は俺が直々に預かる! 直ちに道を開けろ、この愚か者どもが!!」



 歴戦の副団長の、空気をビリビリと震わせるほどの、本気の怒声。

 そのただならぬ異常な剣幕に兵士たちは慌てふためき、訳も分からぬまま、一斉に剣を鞘に収めた。

 チャキッ、という金属音が響く中、カシムは私の前に片膝をつき、深く、深く頭を垂れた。



「……無礼の数々、どうか、どうかお許しください。生きておいでだったのですね……。さあ、どうぞ中へ」



 カシムは私に向かって恭しい騎士の礼をとると、重い鉄の門の奥へと私を促した。

 私はカシムの後に続き、ようやくグレイフォールの内部へと足を踏み入ることができた。

 すれ違う兵士たちがカシムについていく私の姿を見て、怪訝そうな顔をしながら道を譲っていく。


 連れて行かれたのは、砦の奥まった場所にある、彼が営んでいるという屯所を兼ねた小さな酒場だった。

 カシムはその中に入ると、深夜の酒盛りをしていた数人の部下たちを怒鳴りつけて追い払う。

 そして、私を暖炉の火が届く一番奥の、少しだけ座り心地の良い革張りの椅子へと、優しく座らせた。


 酒の匂いが染み付いた重い木の扉が閉まり、外の荒々しい光と喧騒が完全に遮断される。

 天井に据えられた蝋燭が刺さった鉄輪が、その衝撃でユラユラと揺れた。



「すぐに、温かい湯と清潔な着替えの手配をします。足の手当てができる者も呼びましょう。ですがその前に……少しだけお待ちを」



 カシムはカウンターの奥に回り、戸棚から何かを取り出すと、手早く準備を始めた。

 小鍋に火をかけ、甘い香りが漂い始めた頃、彼は湯気を立てる木製の大きなマグカップを両手で持ち。

 私の前のテーブルに、壊れ物を扱うように、そっと置いた。



「こちらをどうぞ。冷え切った身体には、これが一番です」



 立ち昇る湯気から、ふわりと、ひどく甘くて優しい匂いが漂ってきた。

 それは、血と酒の匂いが染み付いた辺境の砦には、あまりにも不釣り合いな飲み物。

 温かい山羊の乳に、たっぷりの琥珀色の蜂蜜が溶かされたホットミルクだった。



「え……?」



 私が驚いて顔を上げると、カシムは深く刻まれた顔のシワを微かに歪め、微笑んでいた。

 そこには、かつての厳しい副団長の顔はなく、どこかひどく懐かしむような、切ない眼差しがあった。


「……粗末なものですが、お口に合えば良いのですが。かつて団長が、姫様がこれをお好きだと、よく私たちに自慢げに話しておりましたから」

「……ッ」



 その言葉を聞いた瞬間。

 私の胸の奥に、言葉にならないほどの熱く巨大な塊が、どうしようもなく込み上げてきた。


 リカルド。

 私の、不器用で、口が悪くて、誰よりも意地っ張りな、たった一人の騎士様。

 彼の私に対する愛情は、あの日からずっと、痛いほどに真っ直ぐで、そしてとてつもなく深かったのだ。

 私が知らない場所でも、彼は私という存在を、こうして彼自身の世界に刻みつけてくれていた。



「まさか彼が、そんなことを言っていたなんて……気遣ってくれてありがとう、カシム」

「もったいないお言葉です。お役に立てたなら、何よりです」



 私は震える両手で、温かい木製のマグカップを包み込み、その甘く熱い液体を一口だけ、ゆっくりと飲み込んだ。

 疲労しきった身体の隅々の血管にまで、彼が十年前に残してくれた愛情の記憶が、熱となって染み渡っていく。


 喉を焼くような強烈な甘みと、優しい湯気が、完全に凍てついていた私の心の芯を容赦なく溶かし、視界を熱く滲ませていく。

 彼はあんなに無愛想な顔をして、私の好物を部下に吹聴するほど、私を大切に想っていてくれたのだ。

 鼻をくすぐるミルクの香りが、今はもう隣にいない騎士の、不器用で真っ直ぐな体温を思い出させて止まない。

 大粒の涙が、マグカップの中に音を立てて落ちて波紋を作った。



「……それで、あの男に一体何があったのか。お聞かせ願えますか、姫様」



 私が涙を拭い少し呼吸が落ち着いたのを見計らって、カシムが静かに話を切り出してきた。

 彼のあの男と呼ぶ声には、まだ深い葛藤と、捨てきれない過去への未練が複雑に混じり合っている。


 その彼の言葉に応えるように小さく頷き、私は今までの出来事を話し始めたのだった。







明日から毎日二話ずつ投稿予定です。

よければ最後まで見届けてくださいませ。

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