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24. 一夜の宣戦と銀の勲章

 




 カビと土埃の匂いが充満する廃屋を背にしてから、どれほどの時間が過ぎたのだろうか。

 肺が焼け焦げるように熱く、呼吸をするたびに強烈な血の味がした。

 冷たく乾いた夜の山風が、容赦なく私の頬を打ち据えていく。

 足元の枯れ枝が折れる乾いた音と、私の乱れた足音だけが、漆黒の森に響いていた。



「……はぁっ、はぁっ……!」



 容赦なく伸びる木々の枝が、私の衣服を引き裂き、柔らかな肌に無数の切り傷を刻んでいく。

 そこから滲み出した温かい血が、夜露に濡れた冷たい泥と混ざり合い、ひどく痛んだ。

 それでも、私は暗闇の森を走ることをやめなかった。

 いや、やめることなどできなかった。


 振り返りたくてたまらない。いっそ、彼と共に王都へ連行されてしまいたかった。

 彼がいない世界で生き延びるくらいなら、自ら首を括ってしまおうかと、何度も考えた。

 けれど、そんな甘えは許されない。

 私がここで立ち止まればすべてが無駄になってしまう。

 彼がこの十年間、泥水をすすって私を守り抜いてきた意味がなくなってしまうのだ。


 背後からはもう、オスカーの部隊の追跡を知らせる甲冑の音も、松明の光も届かない。

 ただ、不気味なほど静まり返った深い森の静寂だけが、私の孤独を浮き彫りにしていた。



「……っ、あ……」



 突然、限界を迎えていた私の右足が、木の根に大きくもつれた。

 彼が私のために用意してくれた鹿革の靴が脱げ、私はそのまま冷たい土の上へと転がり込む。



「……うぅっ……」



 立ち上がろうと地面に手をついたが、腕にはもう、自分の身体を支えるだけの力は欠片も残されていなかった。

 私は這いずるようにして移動し、苔むした巨大な大樹の根元にズルズルと背中を預けた。

 冷たい土の匂いと、青臭いシダ植物の匂いが鼻を突く。

 見上げれば、鬱蒼とした木々の隙間から、巨大で青白い満月が静かに輝きを放っていた。



「……リカルド、様……」



 無意識のうちに、彼の名前が私の口からこぼれ落ちた。

 途端に、堰を切ったように涙が溢れ出し、私の泥だらけの頬を伝ってボタボタと落ちていく。

 痛くて、苦しくて辛くて、何よりも怖かった。

 今すぐ彼に、あの大きな手で私の頭を乱暴に撫でてほしい。

 いつものように悪態をつきながら、私を抱きしめて安心させてほしい。

 でも、彼はもうここにはいない。

 私の代わりに、死神の待つ断頭台へと向かってしまったのだ。


 ――グゥ。


 情けないことに、私の腹の底から、ひどく空腹を訴える無様な音が鳴った。

 絶望の底に沈んでいても、悲しみで胸が張り裂けそうでも、命は残酷なまでに図太い。

 生きるための養分を、身体が強制的に要求してくるのだ。



「……そうだ。何か、食べなきゃ……」



 私は震える手で、胸に抱きしめていた重い革袋を引き寄せた。

 別れ際、彼が私の胸元に強引に押し付けてきた、旅の全財産と食料が入った古びた袋。

 袋の表面からは、泥と汗、そして染み付いた煙草の匂いが微かに漂ってくる。

 それだけで、彼の確かな体温がすぐそばにあるような気がして、視界が再び涙で滲んだ。

 私は袋を一度だけギュッと抱きしめ、それからゆっくりと結び目を解いた。


 中には、油紙に包まれた塩辛い干し肉と、石のように硬い黒パン、そして水袋が入っている。

 私は干し肉を一つ取り出そうとして、袋の奥まで指先を滑り込ませた。

 その時だ。

 私の指先が、袋の一番底、食料の下に隠されるようにして入っていた『何か』に触れた。

 不思議に思い、その重みのある物体をゆっくりと袋の底から引きずり出す。


 それは古く、ところどころ血の染みのような汚れがついた白い布に包まれていた。

 何重にも厳重に、まるで誰にも見つからないように、固く、固く結ばれている。

 私は震える指先で、その白い布の結び目を一つずつ、丁寧に解いていく。

 布がハラリとほどけ、中から現れた『それ』を月光が照らし出した瞬間。

 私の心臓は激しく跳ね上がり、そのまま完全に止まりかけた。


 ずっしりと重い、純銀の塊。

 王国最強の精鋭にのみ与えられ、かつて彼がその胸に誇り高くつけていたもの。

 剣と百合の紋章が刻まれた『白銀騎士団の勲章』だった。


 それは、ただの装飾品ではない。

 王国最強の武の象徴であり、王族の命を直接守護することを許された、絶対的な忠誠の証。

 十年前、大逆人として王宮を追放され、すべてを奪われたあの日、永遠に失われたはずのものだ。

 私はてっきり、あの夜に叔父のオズワルドたちによって強引に剥奪されたものだとばかり思っていた。



「……嘘……。どうして、これが……ここに……」



 私の両手は、小刻みに、自分でも制御できないほど激しく震え始めた。

 彼にとって、こんなものは、自らを絶望の底に突き落とした王国の呪いでしかないはずだ。

 もし金に困っていたのなら、とうの昔に闇市で売り払って、安酒の代金にでもできたはずなのに。

 彼は、決してこれを手放さなかった。

 ボロボロの外套の下で、スラムの悪党を演じながら、この気高い白銀の勲章を隠し持っていたのだ。



「リカルド……様……! 騎士じゃないって言うなら、どうしてこれを、今まで持っていたんですか……っ!」



 ボタボタと私の目から溢れ出した大粒の涙が、月光を反射する銀の表面に弾けていく。

 私はその勲章を両手で包み込み、自らの胸の奥底へと、骨が軋むほど痛く、強く押し当てた。

 冷たいはずの純銀から、彼の不器用で、激しくて、底なしに深い愛情が、流れ込んでくる。

 直接私の心臓を鷲掴みにされたかのような、あまりにも重すぎる忠誠の熱だった。


 彼は、この十年間、たったの一度たりとも、私の騎士であることをやめてはいなかったのだ。

 口では「スラムの用心棒だ」「ただの雇い主だ」と悪態をつきながらも。

 彼の魂はあの日から一歩も変わらず、ずっと私の前で跪き、私に忠誠を誓い続けてくれていたのだ。


 私が彼を守る? 私が彼を救い出す?

 違う。そんな生ぬるい、少女の甘い感傷のようなものでは到底太刀打ちできない。

 彼は、自らを犠牲にしてでも、私という『女王』をあるべき玉座へと還すためだけに。

 そのたった一つの目的のためだけに、この十年間を泥をすすりながら生きてきたのだ。


 ならば、彼が命を賭して守り抜いたこの私の命は、もはや私一人のものではない。



「……泣いている暇なんて、ない」



 私は、手の甲で乱暴に、頬を濡らす涙を泥ごと拭い去った。

 恐怖と疲労で震えていたはずの両足に、不思議と、熱く煮えたぎるような強い力が湧き上がってくる。

 私は大樹の太い幹に手をつき、ゆっくりと、けれど絶対に折れない意志を持って、立ち上がった。


 月光に照らされた私の顔には、もう、彼に守られて怯えていた少女の面影は微塵も残っていなかった。

 彼がくれた紅の革紐で乱暴に髪を結ぶ。

 そして、手元にある、彼が十年間守り抜いた勲章を握りしめた。

 これ以上、何を恐れる必要があるというのか。

 私は、王国最強の騎士に守られた、正統なる王位継承者なのだ。


 冷たい夜風が吹き抜け、一つにまとめた金髪を旗印のように大きく揺らした。

 私は、彼が死地へと連れ去られていった王都の方角を一度だけ振り返る。



「……死なせない。私が貴方の主君である限り、貴方が勝手に死ぬことなんて絶対に許さない」



 それは単なる強がりでも、少女の感傷でもない。

 自らの運命を切り開き、国を取り戻し、そして最愛の騎士を絶望の淵から奪い返す。

 すべてを統べる女王としての、真の宣戦布告だった。


 私は革袋を背負い直し、銀の勲章をワンピースの胸元、心臓のすぐ上にしっかりと忍ばせた。

 空腹も、足の痛みも、もう感じない。

 辺境の最大拠点であるグレイフォールの砦には、十年前の彼の部下たちがいるはずだ。



「……待っていてください、リカルド様。私が必ず、貴方を迎えに行きますから」



 私は、脱げた靴を履き直し、冷たい腐葉土を力強い足取りで踏みしめていく。

 ただ守られるだけの無力な少女は、この森の中で完全に消し去った。


 私は自らの足で、血塗られた反撃の道を駆け出していったのだった。








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