22. 廃屋の審問と孤独な銀の軌跡
カビと土埃の匂いが充満する、窓のない薄暗い石造りの廃屋。
壁の隙間から白々とした朝の光が差し込み、冷え切った空気に塵が舞っているのが見える。
私は、暗闇の中で一晩中私を抱きしめてくれていた、リカーの広く温かい胸の中で、ゆっくりと重い瞼を開けた。
「……朝、ですね。外の兵士たちは一睡もしなかったのでしょうか」
私が小さく呟くと、私を包み込んでいた彼の太い腕が微かに解かれた。
彼は壁の隙間から漏れる朝の光を、凪いだような目で見つめていた。
「ああ、そうみたいだな。全く、たかが一人の王女とスラムの用心棒に対して随分と熱心なこった」
彼の低く、押し殺したようにぼやくと同時に、無数の重い足音と金属の鎧が擦れ合う音が聞こえてくる。
その足音は瞬く間に私たちの潜む廃屋を完全に包囲し、逃げ場のない死の円陣を形成していく。
夜が明け、彼らはついに私たちを確実に捕獲するための行動を開始したのだ。
「…うやら、お迎えが来るらしい。……お前は、ここでじっとしてろ。何が起きても、俺の背中から離れるんじゃねえぞ」
リカーは立ち上がると私の肩を掴んで後ろへ追いやった。
自らの身体で私を庇うような姿だ。
そしてそっと剣の柄に手をかけ、重い木の扉の前に立ちはだかった。
──ドガンッ!!
何度か廃屋の扉が揺れた後、鼓膜を破るような轟音と共に乱暴に蹴破られる。
勢いよく差し込む朝の光に目を細めながら、入口を見る。
土埃が立つ中にぬっと姿を現したのは、漆黒の甲冑に身を包んだ騎士だった。
オズワルドの直属部隊『黒騎士団』を率いる男。
かつてリカルドの友だった騎士、オスカーだ。
「……そこまでだ、リカルド。いや、今は王国最大の大罪人と言うべきか」
オスカーの声が、廃屋の冷たい空気をさらに凍りつかせる。
彼の背後には完全武装の重装兵たちが油断なく槍とクロスボウを構えている。
退路は完全に絶たれていた。
いくらリカーでも、私を庇いながらこの狭い密室で百人の精鋭を相手に無傷で生き残ることは不可能だ。
ここで彼が剣を抜けば、乱戦の中で確実に私が殺される。
「久しぶりだな、オスカー。昔はあんだけ曲がったことが嫌いだって言ってたのに、今はオズワルドの犬に成り下がったみたいだな」
「……私はこの国を守るため、最善を尽くしているだけだ」
リカーの皮肉に、オスカーは表情一つ変えずに淡々と答える。
彼は剣の柄に手をかけながらまるで死刑宣告のように、言葉を紡いだ。
「……つい先程、王都の検死官から早馬で報告があった。国王陛下を死に至らしめた毒の成分についてだ」
その言葉を聞いた瞬間、私の心臓がドクンと嫌な音を立てた。
オスカーの瞳の奥に十年間溜め込んできた底知れぬ憎悪と、確信の炎が揺らめく。
「十年前、お前が国王陛下を暗殺しようとした時に用いられた、辺境特有の極めて希少な猛毒。……それと今回陛下を殺した毒の成分が、完全に一致した」
「……なっ」
私の口から、間の抜けた声が漏れる。
オスカーはリカーの背後に隠れる私を鋭く睨みつけ、断罪の刃を突きつけた。
「お前とそこの王女が結託し、王を毒殺した。それが、我々が導き出した今回の事件の真相だ。……大人しく投降しろ。これ以上の抵抗は、お前たちの罪を重ねるだけだ」
頭の芯から、サァッと血の気が引いていくのが分かった。
完璧な罠だ。
叔父は父を殺す際に、あえて十年前と同じ希少な毒を使ったのだ。
すべてをリカーと私の仕業に見せかけようとしている。
「違う……! 彼がっ……リカルドが! そんな卑怯なこと、絶対にするはずがないでしょう!!」
私はリカーの背中から身を乗り出し、喉が裂けんばかりの悲鳴を上げた。
十年前に言えなかった弁明を今度こそはっきり口にする。
「お父様を毒殺したのは叔父様ですっ! 十年前だって彼は私を逃がすために、自ら大罪人の汚名を被って――」
「黙れ、お嬢ちゃん」
不意にリカーの手が、私の口元を乱暴に塞いだ。
何故止めるのかと抗議しようと顔を上げ、ひゅっと息を飲む。
そこには十年前と全く同じ、決意に満ちた表情が浮かんでいた。
「……っ!」
「……ああ、そうだよ。十年前も今回も、俺があのジジイを殺そうとした。全部俺一人でやったことだ。そこにいるお嬢ちゃんは、俺が玉座を奪うための都合のいい神輿として連れ回してただけだ」
いかにも馬鹿なしたような、露悪的な態度だ。
いつものように余裕ぶった、不敵で、憎たらしいスラムの悪党の顔をしながら、彼はオスカーに向かって吐き捨てるように言う。
「金が欲しかったんだよ、俺は。このガキの血筋を利用して、一儲けしてやろうと思っただけだ。だが、もう飽きた。……お前が必要なのは、ジジイを殺した犯人の首だけだろ。だったら、俺だけを連れて行け」
何を言っているの。
私の鼓膜が、彼の言葉の意味を拒絶する。
あの日と同じだ。
彼は私を生かすためだけに王殺しという国家最大の重罪を、すべて自分一人で被ろうとしているのだ。
「リカルド、やめて……! むぐっ……! あなた、そんなこと……思ってもいないくせに……っ!」
「黙れっつってんだろ。いいから大人しくしてろ、バカ」
私の必死の抵抗をよそに、彼は肩から下げていた革袋を手に取り、私の胸元へと押し付けてきた。
包帯や水袋、食料品などが入った彼自身の全財産だ。
「ほら、これ持ってどこにでも行っちまえ。せいぜい長く生きろよ……お嬢ちゃん」
突き放すような冷たい言葉。
だが、私に革袋を押し付けてきた彼の手は微かに震えていた。
昨夜、私を姫様と呼び一晩中抱きしめてくれたあの温かい手のひらの感触。
言葉とは裏腹の、彼の不器用すぎる献身。
自分が処刑台に上ることで、私を辺境の安全な闇の中へ逃がそうとしているのだ。
「……連れて行くなら、俺だけを連れて行けだと? 本気で言っているのか、リカルド」
その光景を黙って見ていた人物が呟いた。
オスカーだ。
彼はリカーが私を必死にかばい続ける姿をじっと見つめている。
その目はかつて憧れた何かを思い出したように揺らめいていた。
オスカーが、剣の柄を握る力を強める。
「王殺しの大罪人として、このまま王都へ連行されれば……間違いなく、広場で民衆の罵声を浴びながらの公開処刑になる。……それでもいいんだな?」
オスカーは、静かに、確認するように言葉を発した。
それは、敵としての尋問ではない。
かつて彼を心から尊敬していた一人の騎士としての、最後の問いかけだった。
廃屋に肌をさすほど痛い沈黙が降りる。
リカーは背後にいる私を振り返ることなく、オスカーを真っ直ぐに見据えてフッと口角を上げた。
「ああ。……こんな我儘なお嬢ちゃんの世話は、もうまっぴらご免だからな」
その、どうしようもなく不器用な嘘。
己の命を投げ捨ててでも主君を守り抜くという、騎士としての自己犠牲。
リカーのその迷いのない覚悟を見た瞬間、オスカーは深い息を一つ吐き出す。
「…………そう、か」
彼の中で何かが完全に折れたような、あるいは、救われたような音がした気がした。
オスカーは、抜こうとしていた剣から手を離した。
そして、外で待機している部下たちに向かって大声で宣言する。
「――大罪人リカルドを、捕縛した!!」
その声に、兵士たちがどよめく。
オスカーは振り返ることなく、淡々と、私をこの場から完全に消し去るための言葉を紡ぎ出した。
「……なお、第一王女エクラは過酷な逃避行の末に衰弱し、すでにこの廃屋で息絶えていた! 我々は無用な遺体を放置し、この男だけを王都へ連行する!!」
「な……っ!? オスカー、あなた、何を……!」
私は驚愕に目を見開いた。
オスカーは、私を見逃すつもりなのだ。
自分の地位と命を危うくする虚偽の報告。
それをしてまで、かつての友であるリカルドを助けた。
彼の、文字通り命を懸けた願いを叶えるため、オスカーは最大の敬意と手向けを示したのだ。
「お前ら、早くこの男を縛り上げろ! 長居は無用だ!!」
オスカーはリカーを強引に外に連れ出し、号令をかけた。
彼はすぐに数人の兵士に囲われ、腕を縛り上げられる。
「――恩に着るぜ、オスカー」
リカーはオスカーに向けて、すれ違いざまに極めて小さな声で呟いた。
オスカーは無言のまま、ただ一度だけ深く目を伏せる。
彼は何かを堪えるようにグッと目を閉じた。
そして顔を上げると、大きく右手を振り上げる。
「……っ、出発だ!! 王都へ帰還する!!」
荒々しい足音と共に彼らはリカーを連れ、朝の光の中へと去っていく。
私は恐怖と絶望で足に全く力が入らず、へたり込むことしか出来なかった。
足音が完全に遠ざかり、廃屋は嘘のように静まり返る。
冷たい風が、蹴り破られた扉から吹き込んでくる。
私は、一人取り残された薄暗い廃屋の中で、彼が押し付けてきた革袋を胸に強く抱きしめ、静かに泣き崩れた。
十年前と同じだ。
何も変わっていない。
その事実が重く胸にのしかかってくる。
革袋からは、酒と汗に塗れた匂いがした。
私を生かすためだけに、彼は死地に赴いたのだ。
彼が王都に戻れば、オズワルドは間違いなく彼を殺すだろう。
──そんなのは絶対に嫌だ。
私は、溢れ出す涙を乱暴に手の甲で拭い去った
彼が死んで、私だけが生き残る。
そんな結末、私が許すわけがない。
彼が自らの命を犠牲にして私を逃がしたというのなら。
私は、何としてでも彼を必ず奪い返してやる。
愛する人の背中に隠れ、ただ震えているだけの子供は、この薄暗い廃屋に置いていく。
私がこれから助けに行くのは、スラムの悪党『リカー』ではない。
私に命を捧げてくれた、王国でただ一人の、私の誇り高き騎士。
――『リカルド』だ。
私は震える足に鞭を打ち、冷たい土の床を蹴って立ち上がった。
目指すは、この山を越えた先にある防衛砦。
かつての彼の部下たちが集う辺境の拠点グレイフォール。
私は、彼を取り戻すための軍勢を求めて、一人、朝日が昇る森の中へと走り出したのだった。




