21. 最後の抱擁と誤った選択
廃村を抜け、グレイフォールへと続く最後の山道に差し掛かった時のことだ。
空にはいつの間にか、どんよりとした鉛色の雲が分厚く垂れ込めていた。
太陽の光を完全に覆い隠し、周囲の気温が急激に下がっていく。
肌を刺すような冷たい風が吹き抜け、森のざわめきが不吉に響く。
山林はまるで夜が前倒しで訪れたかのように、不気味な薄暗さに包まれていた。
「……チッ。少しくらい手ェ抜いてくれりゃいいのに。相変わらず、あいつは仕事が早い」
前方を睨みつけながら、彼は静かに馬を止めた。
その声に含まれる張り詰めた糸のような緊張感に、私は息を呑み込んだ。
思わず身を固くし、彼の腰に回した腕の力をギュッと込める。
彼の外套越しに、異常に早い心音がドクン、ドクンと伝わってくる。
「どうしたんですか……? 」
「……聞こえねえか。完全に風下に回られた。猟犬どもの嫌な足音だ」
リカーは馬の上から周囲の鬱蒼とした木々を忌々しげに睨みつける。
私は言われるがままに意識を集中させて、木々を揺らす風の音の隙間に耳を澄ませてみた。
──ザッ、ザッ、ザッ。
それは、ただの風が枝を鳴らす音ではない。
重く、硬く、そして無機質な金属が擦れ合う音。
何十人、いや、百人近い兵士たちが、一糸乱れぬ足並みで、この山道を包囲する足音だった。
「そんな……! もうこんな所まで追っ手が……っ!?」
「先回りしてこの山全体を封鎖してやがったんだ。おそらく、オスカーの仕業だろうな」
オスカー。
その名前を聞いた瞬間、私の背筋に戦慄が走った。
彼は現在、オズワルドの下で黒騎士団を率いている団長である。
かつてはリカーと共に肩を並べ、毎晩のように酒を酌み交わすほど親しかった男だ。
リカーが謂れのない罪で城を追われた後、十年にわたって騎士たちをまとめ上げてきた。
その冷徹なまでの真面目さと優秀さは、あのオズワルドでさえも一目置いていたほどだ。
そのかつての友が今、私たちを逃げ場のない袋小路へと追い込もうとしている。
見渡せば、前方の山道にも、背後の獣道にも、すでに松明の赤い光がチラチラと見え隠れし始めている。
完全に包囲されたと悟る。
「……クソが。こうなりゃまた力ずくで突破するまでだ。……最悪、俺が馬から降りて囮になる。お前はそのまま、馬でグレイフォールまで走れ」
彼が手綱を強く引き、馬が嘶きを上げて前脚を高く跳ね上げる。
馬の腹に蹴りを入れて走らせようとする彼を、私は悲鳴のような声で止めた。
「駄目です! 止まって、リカー!」
「離せ、お嬢ちゃん! ここでモタモタしてたら完全に囲まれちまう!」
「そんな無茶をしたら、貴方は今度こそ死んでしまいます! ただでさえ、まだ傷がしっかり塞がっていないのに!」
私は彼の太い腕に両手でしがみつき、渾身の力で手綱を引くのを邪魔した。
彼の左肩からはうっすら血の匂いがしている。
「私一人で逃げ延びて、何の意味があるんですか! グレイフォールまであと少しなのに!」
「……っ、だが!」
「ここで闇雲に突っ込んでも犬死にするだけです! どこかへ隠れてやり過ごしましょう!」
「バカ野郎、オスカーの目を誤魔化せるわけが……」
「それでも、です! お願いします、私を置いていかないでください……!」
私の震える声と、頬を伝って彼の背中を濡らした涙に、リカーの動きがピタリと止まった。
暗闇の中で、彼が奥歯をギリッと強く噛み締める音が聞こえる。
数秒の、永遠にも似た沈黙。やがて彼は、ふうっと長く深い溜め息を吐き出した。
「……チッ。仕方ねぇ。なら、こいつとはここでお別れだ。……お前はしっかり俺の首にしがみついてろよ」
リカーは素早い動作で馬から飛び降りると、私を羽のように軽々と抱き下ろした。
そして、馬の尻を思い切り強く叩く。
主を失った馬が怯えたように嘶き、囮となって山の下へと駆け去っていくのを私は祈るような思いで見送った。
彼は私を横抱きにすると、松明の光が届かない、街道から大きく外れた藪の中へと静かに駆け出した。
「……っ、どこへ……」
「この先に、古い石造りの廃屋があったはずだ。ひとまずそこに行って身を隠すぞ」
彼は決して私を離さず、鬱蒼とした森の奥へと突き進んでいく。
やがて、木々の隙間から、カビと苔に覆われた、半ば崩れかけた石造りの小さな廃屋が姿を現した。
かつての猟師小屋か、あるいは見張りのための小屋だろうか。
窓は一つもなく、分厚い木の扉だけが辛うじてその形を保っていた。
リカーが軋む扉を強引に押し開け、私を中へと押し込む。
私を抱えていたその逞しい腕は、限界を超えた疲労で微かに震えていた。
彼自身も中に滑り込むと素早く扉を閉め、部屋の隅に転がっていた重い丸太を、かんぬき代わりにして扉に立てかけた。
「……はぁっ、はぁっ……。ここまで来れば、少しは、時間を稼げるはずだ……」
外界の雨音と足音が分厚い石壁によって遮られる。
廃屋の中には、私たちの荒い呼吸音だけが反響していた。
鼻を突くのは、何年も人が立ち入っていない、土埃とカビの強い匂い。
完全な暗闇。私の目はまだ慣れず、自分の手のひらすら見えない漆黒の世界だった。
「アイツの嗅覚が、鈍ってるといいんだが……」
暗闇の中からリカーのひどく疲労の滲んだ声が響き、不安を煽る。
私は手探りで冷たい土の床に座り込み、肺の中の空気を深く吐き出した。
だが、束の間の安堵さえ、許されなかった。
「はぁ……やっぱ駄目だな。ネズミ捕りの罠に、完全にはめられちまった」
リカーが、壁の僅かな隙間から外の様子を窺いながら、低く絶望的な声で呟いた。
私も恐る恐る壁に近づき、その隙間から外を覗き込む。
――絶句した。
雨の降る暗い森の中に、無数の松明の炎が亡霊のように赤く揺らめいていた。
その炎の輪は、私たちが潜むこの廃屋を中心に幾重にも重なり合い、一切の隙間なく完全な包囲網を形成していたのだ。
オスカーは、私たちが囮の馬を捨て、この廃屋に逃げ込んだことなどとうに気づいているのだろう。
だが無用な乱戦を避けるため、夜明けを待ってから一斉に突入するつもりなのだ。
「……夜明けには、百人近い重装歩兵が、この扉を破ってくるだろうな。……もう、終わりだ」
リカーの言葉は、ただの客観的な事実だった。
明日になれば私たちは確実に捕まるか、ここで惨たらしく殺される。
あまりにも理不尽で、残酷な『詰み』の盤面だ。
これまでの苦労が、一瞬で無に帰していく。
彼は壁に背を預け、頭をガシガシと掻きながら冷たい土の床に座り直した。
「……あー、クソッ。俺としたことが、最悪の選択をしやがった。……全部、裏目だ」
彼は自嘲するように短く吐き捨てた。
それは、いつもの自信に満ちた、不敵な笑みを伴う悪態ではなかった。
己の無力さと、自らが招いた無残な運命に対する、血を吐くような悔恨の響きが混じっている。
「……リカー。そんな風に、自分を責めないでください。あなたは最善を尽くしてくれました」
「……」
私は暗闇の中を這うようにして進み、彼の隣に腰を下ろした。
彼の大きな身体からは、雨に濡れた獣革のコートの匂いと、鉄の血の匂い、そして熱を帯びた体温が伝わってくる。
私は、彼の傍らに無造作に置かれていた、分厚く荒れた右手を、自らの両手でそっと包み込んだ。
「……触るな。俺の体は血と泥で汚れてる。お前みたいな綺麗な奴がわざわざ触れるようなもんじゃねえ」
彼は私の手を振り払おうと身体を動かす。
だがその力は驚くほど弱かった。
私が強く握りしめると、彼はそれ以上抵抗することを諦めたようだ。
深くため息をつき、ポツリとこぼす。
「……悪かったな。お前を、玉座に連れていくっつった傍から、こんなことになっちまって」
静かな暗闇の廃屋に、彼の低く、震える声が溶けていく。
私の心臓が、大きく跳ねた。
「判断を誤った。俺がもっと賢く立ち回ってりゃあ、お前をこんな……明日には首が飛ぶかもしれねえ廃屋に追い詰めることなんてなかったんだ。俺の責任だ」
「違います、リカー。貴方のせいじゃない。私が止めたから――」
「いや、俺のせいだ。俺が前の街でへマして怪我さえしなけりゃ、今頃とっくにグレイフォールに着けてたんだ……」
彼の言葉には、自らを切り刻むような激しい自責の念が込められていた。
「昼間、お前は俺の罪を赦すって言ってくれたよな。……俺は、それが嬉しかった。十年間の地獄が、報われた気がした」
暗闇の中で、彼が自嘲するように鼻で笑う音が聞こえた。
「だから、きっとバチが当たったんだろうよ。俺みたいなヤツが赦されるわけがなかったんだ。あいつらを見捨てた報いを受ける時がきたんだよ。……巻き込んじまってすまねえ」
彼の震える声が、私の胸の奥をギリギリと締め付ける。
他でもない自分が決断し、大切な人を死地に追いやってしまったという事実に、彼の強靭な精神が音を立てて崩れ落ちようとしているのだ。
「謝らないでください、リカー。謝る姿なんて貴方には似合いません」
私は、彼の手を握る力に、私のありったけの思いと熱を込めた。
氷のように冷たかった彼の手に、私の体温がじんわりと伝わっていくのを感じる。
「言ったでしょう。貴方が人殺しなら、私も同罪です。もう一人で背負うのはやめてください。それにこの状況は、見通しが甘かった私のせいです」
「エクラ……」
「貴方がいなければ、私はここまで来れなかった。そもそも十年前に、あの城で死んでいたかもしれない。私が今こうして息をしているのは、全部、全部貴方のおかげなんですよ」
私の言葉に、リカーは小さく息を呑んだ。
完全な暗闇の中で、お互いの表情は一切見えない。
だが、私を不器用に握り返してくる彼の手の力強さが、彼の言葉にできない感情のすべてを物語っていた。
もう、言葉はいらなかった。
明日、私たちがどんな運命を辿るのか。
オスカーの冷たい刃が私たちを引き裂くのか。
あるいは、捕らえられて民衆の前で断頭台の露と消えるのか。
そんな先のことは、今の私にはどうでもよかった。
ただ、この理不尽な世界が完全に終わってしまう、その最後の瞬間まで。
私は、この愛すべき不器用な男の体温を感じていたい。
「……リカー、もう少しだけ近くに来てくれませんか。強がってはみたけれど、本当は……貴方に触れていないと明日を迎えるのが怖いんです」
私は手探りで彼の肩に触れ、そのまま彼の広く分厚い胸の中に、自らの身体をすっぽりと預けた。
彼の分厚いコートの感触が、私を優しく包み込む。
彼もまた、私が預けた身体を受け止めるように、太い両腕を私の背中に回し、逃げ場のないほどの強い力で、私をガッチリと抱きしめ返してくれた。
「ああ、わかったよ……姫様。大丈夫だ、たとえ何があったとしても……お前だけは守ってやるから」
私の耳元で、彼はひどく甘い掠れた声で囁いた。
彼の手が私の首の後ろ、真紅の革紐の結び目あたりにそっと触れ、祈るように深く額を押し付けられる。
外からは、木々が風にざわめく音が聞こえてくる。
そして時折、遠くからオスカーの部下たちが動く甲冑の音が鳴る。
だが、彼の力強い腕の中にある、この小さな空間。
それがどうしようもなく私の心を落ち着かせるのだ。
彼の早鐘を打つ心音が、私の心音と重なり合って、静かな廃屋に響いている。
私たちの不格好で、泥だらけの逃避行。
それはこの冷たく暗い廃屋の中で、静かに終わりを迎えようとしている。
だが、私の心に一切の後悔はなかった。
終わりの夜明けは、すぐそこまで迫っていた。




