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20. 泥に咲く誓約と血塗られた守護

 





 雨上がりの冷たい山道を、漆黒の馬が規則的な蹄の音を響かせて進んでいく。

 鼻には雨に洗われた森の新鮮な松の葉の香りが入ってくる。

 私の前に座るリカーの広く温かい背中に顔を押し当てながら、私は心地よい疲労感の中で微睡まどろみかけていた。

 だが、木々が次第にまばらになり、山の中腹に差し掛かった頃。


 ――不意に、風の匂いが変わった。


 瑞々しい森の香りが唐突に途切れる。

 代わりに漂ってきたのは木が腐ったような匂いだ。



「少し降りるぞ。馬を休ませる」



 手綱を握るリカーの声は、平坦なものに変わっている。

 先ほどの小屋で見せていた姿は、微塵もなかった。

 感情のすべてが抜け落ちたような、硝子ガラスのように無機質で冷え切った声色。

 私はハッとして顔を上げ、彼の背中越しに前方の景色を見つめた。



「ここは……」



 私は、目の前に広がる光景に息を呑んだ。

 かつては人が住み、畑を耕していたであろう村の跡地。

 だが、家屋の形を保っているものは一つもない。

 崩れ落ちた石壁、黒く炭化した太い梁。

 そして年月が経過しても大地にこびりついている、不気味なほどの黒い焦げ跡。


 静寂が、耳鳴りがするほどに重くのしかかってくる。

 まるで、この空間だけ完全に時間が止まってしまっているかのようだった。



「……十年前。俺が王宮から追放されてからすぐに、黒騎士団によって焼き払われた村だ」



 馬から降りたリカーが私を抱き下ろしながら、地を這うような重く苦しい声で呟いた。

 私はハッとして、彼の横顔を見つめた。



「白銀騎士団の拠点の一つとして使っていた場所。だから、見せしめのために焼かれた」



 リカーは私から視線を外し、ゆっくりと歩みを進めた。

 黒く焼け焦げたその村を、重い音を立てて踏みしめていく。

 彼は、崩れ落ちた一軒の小さな家の跡地で立ち止まった。


 そこには黒く焼け焦げた木材の下敷きになるようにして、ひどく錆びつき、折れ曲がった一本の剣が土に埋もれていた。


 彼はその場に静かに片膝をつくと、その錆びた剣の柄にそっと触れた。

 彼の指先が赤茶けた鉄錆の感触を確かめるように、痛ましそうに震えている。



「俺が、大罪人として全てを捨てたからだ」



 彼の口からポツリとこぼれ落ちた言葉。

 それは十年もの間、彼が一人で抱え込み続けた罪悪感であり、決して誰にも見せることのなかった本音だった。



「俺が裏切り者の汚名を被って逃げたせいだ。俺を信じて辺境に残っていた部下たちも、罪のない村の連中も、全員がオズワルドの犬に殺された」

「違うわ! 悪いのは全部オズワルドよ! 貴方は私を助けるために……っ」

「いや、俺が悪いんだ」



 小さく呟かれたその言葉に、私は口を開けなくなった。

 リカーの背中が激しく震えている。

 小屋で見せた高熱による震えではない。

 果てのない後悔と、懺悔による絶望からくる震えだった。



「俺が愚かだったせいだ。もっと上手く立ち回っていれば、こんなことにはならなかった。……俺は、自分の手でこの村の連中を焼き殺したのと同じなんだよ」



 昨夜のうわごと。

 彼は決して、騎士としての誇りを忘れてはいなかった。

 だからこそなのだろう。

 彼は自分が選んだことによる代償の大きさをよく知っているのだ。

 十年間、毎晩のように苛まれ、地獄の底で血の涙を流し続けてきたのだ。


 私の命と引き換えに、自らの同胞たちを見捨てたという、決して消えることのない十字架。



「お前を選んだことは後悔していない。だが……あの時、他の手を打っていたらよかったと思ったことは数えきれねえ」



 彼は顔を伏せ、自嘲するようにひどく冷たく笑った。



「俺はもう二度と、白銀しろには戻れねえ。お前に騎士様なんて言われるような人間じゃなくなっちまったんだよ」



 冷たい風が吹き抜け、彼の髪が揺れる。

 彼の言葉は、私への拒絶ではない。

 自分自身への激しい嫌悪と、絶望的なまでの劣等感だった。

 自分は大罪人の名にふさわしい、愚かな人間なのだと言い聞かせているように見える。


 私は、黙って彼の背中を見つめていた。

 もし私がただの無力な少女ならここで彼に同情し、共に涙を流して慰めることしかできなかっただろう。

 あるいは、貴方のせいじゃないという薄っぺらい言葉で、彼の十年間の苦しみを否定してしまったかもしれない。

 だが、そんなことはできるはずがなかった。


 私は自らの意志で、彼の近くまで歩み寄る。

 彼の絶望の深さを知った今、私は彼をこの地獄に一人で置き去りにすることなど、絶対にできない。



「……そうですね。貴方の手は血に塗れている。直接でなくとも、この十年できっと数え切れないほどの命を奪ってきたのでしょう」



 私の静かな声に、リカーの背中がビクンと強張った。

 私は彼の隣に並び立ち、片膝をついた。



「でも、忘れないでください。貴方が被ったその泥も、流した血も、すべては無力だった私という罪から始まっているんですよ」



 私は彼の手を、自らの両手で包み込んだ。

 冷え切っていた彼の手に、私の体温を移していく。



「貴方が白銀に戻れないというのなら、私もまた黒に染まりましょう。この黒い灰ごと全て、貴方を受け入れます」

「なっ……」

「貴方が自分を人殺しだと言うのなら、その原因となった私もまた人殺しなのですから」



 リカーの藍玉色の瞳が、驚愕に見開かれた。

 私は一切の迷いなく、彼の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。



「同情なんてしません。慰めもしません。……その代わり、私が必ず玉座を取り戻して、貴方の十年間の罪を、私の名においてすべて赦してみせます」



 それは、ただの少女の強がりではない。

 一人の男の凄絶な人生を丸ごと背負い込むという、玉座に座る者としての宣言だ。

 十年前、彼が私の手を引いてくれたように。

 そして今、彼が私を守ってくれているように。

 今度は私が、この絶望の底に沈む不器用な用心棒の腕を引っ張り上げて、光の当たる場所へと連れ戻すのだ。


 彼がどれほど自分を呪い、泥の中へ沈もうとも逃がさない。

 私がその泥ごと彼を抱きしめ、絶対に離しはしない。



「だから――リカー。貴方はそれまで、私の背中を守ってください」



 十年前のあの日、彼が私に望んだ笑顔を向ける。

 それを見たリカーは、唖然として私の顔を見つめていた。

 まるで雷に打たれたように完全に言葉を失っている。


 蒼色色の瞳の奥で十年間彼を縛り付けていた冷たい鎖が、音を立てて砕け散っていくのが分かった。

 彼の荒い呼吸が、次第に静かなものへと変わっていく。

 やがて、彼は重い息を一つ吐き出した。

 自らの顔を空いた片手で覆うと、空を仰ぐようにして、絞り出すような低い声で笑い出した。



「……ハッ。ははははっ……!」



 それは、先ほどまでの自嘲の笑いではない。

 自分の予想を遥かに超えて強くなってしまった私への完全な降伏と、どうしようもない愛情が入り混じった笑い声だった。



「……あー、クソッ。本当に強くなりやがって。お前の前じゃ勝手に絶望することすら許されねえのかよ」

「当たり前です。貴方の命は、もう私のものなんですから」



 彼が顔を覆っていた手を退ける。

 その瞳からは、先ほどまでの濁った絶望は消え去っていた。

 そこには、過去の鎖を断ち切り、ただ一人の女のために剣を振るうことを決意した、本物の騎士としての気高い光が宿っていた。



「……ああ、そうだな。俺の命は、あの日からずっとお前のものだよ」



 彼は私の手を力強く握り返した。

 私の顔を見てひどく優しく、けれど絶対に逃がさないという強い意志を込めて微笑んだ。



「行くぞ、姫様。お前の玉座を取り戻すんだ」



 私たちは同時に立ち上がり、互いの汚れを払うこともなく歩き出した。

 彼が手綱を引き、私をひょいと持ち上げて鞍へと乗せる。

 力強い腕の感触と馬の温もりが、私の冷えた身体に心地よかった。

 リカーも軽やかに飛び乗り、私の前に座って手綱を握り直す。



「しっかり捕まってろよ。振り落とされても知らねえからな」

「腕利きの用心棒がいるから安心していますよ」

「ハッ、人使いの荒いことで。給料分はしっかり働いてやるよ」



 憎まれ口を叩きながらも、彼の背中は先ほどよりもずっと穏やかだ。

 私は彼の腰に腕を回し、その広く温かい背中に額を押し付けた。

 雨上がりの湿った土の匂いと、彼の獣革のコートの古びた匂いが混ざり合う。


 道中、彼は手綱を握る指先で、時折鞍の縁をトントンと軽く叩いていた。

 それは彼が考え事をする時の、昔からの小さな癖だった。

 何を考えているのかは分からないが、その横顔にもう悲壮感はない。



 だが、その穏やかな希望の時間は長くは続かなかった。





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