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19. 雨上がりの微笑みと静かな羞恥

 



 ──トン、トン。


 絶え間なく屋根を叩いていた雨音が、いつの間にか穏やかで優しいものに変わっていた。

 カビ臭い小屋の壁の隙間から、白々とした朝の光が細く差し込んでいる。

 鼻を突くのは、雨に濡れた古い木材の匂いと、微かな血の匂いだ。


 私は、自分が分厚い獣革のコートの中で、いつの間にか深い眠りに落ちていたことに気がついた。

 ゆっくりと重い瞼を開ける。

 視界に飛び込んできたのはおびただしい数の古傷がついている筋肉質な体だった。

 無精髭の生えた顎のラインがすぐ近くにあり、私は彼の太い腕の中に完全に収まっている。

 リカーの胸にぴったりと顔を押し当て、彼にしがみついて眠っていたのだ。


 冷たい床の上で寝ていたはずなのに、私の身体は驚くほど温かかった。

 私が小さく身じろぎをすると、私を包み込んでいた彼の左腕が、ピクリと微かに反応した。

 その直後、彼が小さく息を吐きながら呟いた。



「ん……朝、か?」



 ひどく掠れた低い声だったが、そこに昨夜のような苦しげな感情は含まれていない。

 いつも通りの彼の気怠げな声だ。

 見上げると、高熱で固く閉ざされていた彼の蒼玉色の瞳が開かれている。

 彼は壁の隙間から漏れる朝の光を眩しそうに見つめていた。

 そして、私を自らの腕の中にすっぽりと抱き込んでいる状況に気づくと、少しの間固まった。



「あー……悪かったな。俺としたことが、完全にぶっ倒れちまったらしい」



 そう言いながら、彼はひどく気まずそうに、ゆっくりと私に回していた腕を解いた。

 私を自分の身体からそっと降ろし、自分はかかっていた毛布と外套から出た。

 近くの壁に背中を預け、私から視線を逸らしながら座っている。

 薄暗い朝の光の中でも、彼の耳の先から首筋にかけてが、ほんのりと赤らんでいるのが分かった。


 決して少年のように取り乱すことはない。

 だが、自分が熱で倒れ、私に一晩中抱きしめられて看病されたという事実。

 それに大人の男としての、あるいは護衛としての面目を潰され、静かに動揺しているのだ。

 私は彼が不意に見せるそんな人間らしい隙が、なぜか少しだけ嬉しかった。



「熱、下がったんですね。よかった……本当に、死んじゃうかと思ったんですよ」

「……バカ言え。俺みたいな悪党がそう簡単にくたばるかよ」

「でも、昨日の貴方は本当に酷い顔でした。もう二度と、あんな無理はしないでください」



 彼は口では憎まれ口を叩きながら、左肩に巻かれた包帯を確かめるように指先で触れた。

 私が施した処置が功を奏したのか、傷口からの出血は止まり、炎症も引いているようだ。

 彼自身の常軌を逸した回復力も、この奇跡的な復活を後押ししたのだろう。



「ああ……止血までしてもらったのか。手間をかけさせたな、……ありがとよ」

「貴方が私を雨と矢から守ってくれた結果でしょう。感謝するのは私の方です」

「……金もらってんだから、そんくらいすんのは当然だろ。それが用心棒の仕事だ」



 私は、彼が相変わらず気怠げな態度を崩さないのを見て、ふと昨夜の出来事を思い出した。

 彼が私を幼子のように抱きしめ、泣きそうな声で誓ってくれた姿。

 あの真っ直ぐな、十年越しの白銀の騎士としての言葉。

 私は、少しだけいたずらっぽく微笑んで、視線を逸らしている彼の顔を下から覗き込んだ。



「でもそのおかげで、随分と素直な寝言を聞かせてもらえました」

「は? 寝言……?」



 リカーの動きが、凍りついたようにピタリと止まった。

 微かな警戒と戸惑いを帯びた瞳で私を見つめ返す。



「『姫様、私がお守りいたします』って。熱に浮かされながらずっと言っていたんです」

「なっ……」

「十年間、ずっとそうやって私のことを思ってくれていたんですね――リカルド様?」



 私が彼の昔の名前を呼んで微笑むと、リカーはまるで雷にでも打たれたように完全に言葉を失った。

 普段なら「バカかお前は」と即座に切り捨てる彼が、数秒間、息をすることすら忘れ硬直している。

 やがて、彼は己の失態を完全に悟ったようだった。

 深く、ひどく重い息を一つ吐き出す。

 そして手で自分の顔の半分を覆い隠すようにして、再び視線を明後日の方向へと逸らしたのだ。



「……あー、いや。それはだな。単なる熱による幻覚か、何か別の記憶だ」



 沈黙の後に絞り出された彼の声は、自分でも制御できていないのか、微かに震えていた。



「……昔の嫌な夢を見ただけで、深い意味はねえよ。リカルドなんて男はもう死んだんだ」

「ふふっ。本当にそうなんですか? 私にはそうは思えませんけど」

「……うるせえ、ばーか。それ以上言うと、ここに置いていくぞ」



 彼は顔を覆った手はそのままに、もう片方の手で私を追い払うような仕草をした。

 諦めたように、ただひたすら参ったと言いたげな低い息を吐き続けている。

 その必死に理性を保とうとする不器用な大人の男の姿が、私にはどうしようもなく愛おしく感じられた。


 ――だが、この甘い空気はそこまでだった。


 リカーは顔を覆っていた手を下ろすと表情を一気に引き締め、用心棒としての鋭い目つきに戻った。

 彼は静かに立ち上がり、壁の隙間から外の森の様子を油断なく窺い始める。



「……周囲に敵の気配はねえな。だが、鳥の鳴き声がしねえ」



 呟かれた声は鋭く、重い警戒心に満ちていた。

 小屋の中の空気が強制的に張り詰めたものへと引き戻される。



「俺の熱が下がったとはいえ、追っ手は確実にこの山の捜索を始めてるはずだ。あいつらの執念を舐めない方がいい。この小屋もすぐに見つかるだろう。……長居は無用だ」



 彼の言葉に私も自然と背筋を伸ばし、深く頷いた。

 ここはまだ安全ではない。

 いつでも死と隣り合わせの、過酷な逃避行の只中なのだ。

 私が一瞬でも油断すれば、彼が再び、私の代わりとなって傷つくことになる。

 それだけは絶対に避けなければならなかった。


 私たちは簡単に朝食を済ませたあと荷物をまとめ、湿った冷たい空気が漂う小屋の外へと出た。

 空はすっかり晴れ渡っており、雨上がりの澄んだ空気が肺を満たす。

 小屋の軒下に繋いでいた馬が、ブルルと鼻を鳴らして首を振った。

 リカーは馬の首筋を軽く叩いて労うと、手早く手綱と鞍の具合を確認する。



「よく休めたか。すまねえが、今日も無茶させることになりそうだ。頼むぜ」



 彼が馬に話しかける、その静かで慈しみに満ちた声。

 荒くれ者の用心棒を演じていても、こういうふとした瞬間に高潔な騎士の素顔が覗く。

 リカーは先に鞍に跨ると、私に向かって、節くれ立った大きな手を差し出した。



「乗れ。振り落とされないように、しっかり掴まってろよ」

「はい、お願いします……リカルド様」



 私がわざと名前を呼んで微笑むと、彼はまたチッと短く舌打ちをした。

 その目は、どこか諦めたような、それでいて照れくさそうな光を宿している。

 彼は私を軽々と持ち上げると、自分の前ではなく、後ろの鞍へと引き上げた。


 彼の背中にしっかりと両腕を回し、その広い背に顔を埋める。

 彼から伝わってくる体温は、昨夜の異常なものではなくなっていた。



「昨日休んだ分、今日中に山を越えるぞ。舌を噛まないように気ぃつけろよ」



 リカーが手綱を強く引くと、馬は雨上がりのぬかるんだ山道へと進み始めた。

 木々の葉から落ちる冷たい雫が、時折風に吹かれて私の頬を濡らす。

 鼻を突くのは雨に洗われた森の強い土の匂いと、新鮮な松の葉の香り。

 私たちは山の中腹を目指して、無言のまま馬を走らせていった。


 この先に待ち受けているのが、彼が十年間背負い続けてきた亡霊の廃村だということを。

 そして、そこで彼が抱える絶望的な罪の意識に、私が真っ向から直面することになるということを。

 馬の背に揺られながら、彼の温かい背中にしがみついているこの時の私は、まだ知らなかった。






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