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18. 懸命な治療と熱の中の本音

 





 頭上の薄いトタン屋根を、雨が打ち据え続けている。


 関所から遠く離れた、ひどく立て付けの悪い猟師の廃小屋の中。

 月光が僅かに照らす空間には、カビ臭い古い木材の匂いが充満していた。

 そして何より、私の鼻を突く微かな鉄錆の匂い――生々しい血の匂いが漂っている。

 冷え切った小屋の空気を震わせるように、ひどく重く、熱を帯びた呼吸。

 浅く苦しげなその音が、暗く狭い空間に反響し続けていた。



「……ッ、はぁっ……」



 壁に背を預けたまま床に崩れ落ちたリカーの身体は、恐ろしいほどの高熱を発している。

 普段の彼なら、こんな無防備な姿を私の前に晒すことなど絶対にないはずだ。

 泥水でずぶ濡れになった純白のシャツの下で、彼の大柄な肉体がガタガタと震えている。

 私を雨と矢から守るため、自らを無防備な盾にした代償が、彼の身体を確実に蝕んでいた。



「とりあえず、まず止血しないと……っ。このままじゃ、血が……」



 私はランプの薄暗い灯りを頼りに、震える両手で彼の破れたシャツの肩口を掴んだ。

 分厚い生地を力任せに引き裂くと、露わになった傷口から赤黒い血がじわじわと滲み出ている。

 幸いにも矢の刃に毒は塗られていなかったようだが、傷口には無数の泥が入り込んでいた。

 急激な感染と、休むことのない過労が、彼の強靭な肉体の限界をとうに超えさせているのだ。



「確か最初は、傷口を綺麗な水で流していたはず……それを布で拭いて……」



 私は、彼が以前私に施してくれた手当ての手順を必死に頭の中で思い返した。

 震える指先で彼の革袋を探り、水袋と軟膏、それに清潔な布と包帯を取り出す。

 そして慣れない手つきながら、一工程ずつ慎重に処置を進めていく。

 冷たい水で傷口の泥を洗い流し、気休め程度の軟膏をたっぷりと塗り込んでいく。



「……んっ、ぐぅ……」



 包帯をきつく縛るたびに、意識を失っているはずの彼が苦痛に顔を歪めて低く呻いた。

 その痛ましげな声を聞くたびに、私の心臓が見えない手でギリギリと締め付けられる。

 四苦八苦しながらも、私の純白のペチコートを引き裂いた布で何とか止血を終わらせた。


 だが、最大の問題は彼の異常なまでの高熱と、命を削るような身体の震えだ。

 ひとまず彼の分厚い外套と、革袋にあった薄い毛布を上からかけてはいる。

 しかし、氷のように冷え切った小屋の中では、それだけでは到底足りなかった。


 追っ手がすぐ近くの森をうろついているかもしれない、極限の逃避行の只中。

 誰かに助けを呼ぶことも、暖を取るために火を焚くことも、絶対に不可能な状況だった。


 温めなければ。

 このままでは、彼が死んでしまう。


 そう考えた時、ふと、私が王城から逃げ出した日の夜の出来事を思い出した。

 あの時も酷い雨で、凍える私を彼がその大きな体温で一晩中温めてくれたのだ。

 状況はひどく似ている。ただし、今度は私が助ける側だ。


 私は小さく息を吐き、覚悟を決めると、泥に汚れたワンピースを勢いよく脱ぎ捨てた。

 肌着と薄い下着一枚の姿になると、容赦のない隙間風が肌を刺し、身震いが走る。

 そして、寝ている彼の上から外套と毛布を一度退け、血に汚れたシャツのボタンを外していく。

 少しでも直接肌を触れ合わせなければ、彼の奪われた体温を取り戻すことはできない。


 だが、その下に露わになった彼の分厚い肉体を見た瞬間。

 私は息を呑み、雷に打たれたように完全にその場で固まってしまった。


 薄暗いランプの光に照らされた彼の上半身には、数え切れないほどの無数の傷跡があった。

 太い長剣で肉を乱暴にえぐられたような、ひどく歪で生々しい裂傷の痕。

 突き刺さった矢を、治療もせずに力任せに引き抜いたような深々とした刺創。

 刃物だけではない。鈍器で殴られ、骨が歪に繋がったような痛ましい古傷の数々。



「……なに、これ……」



 震える私の指先が、無意識にその古傷の一つ一つをなぞろうとして、空中でピタリと止まる。

 十年前、彼が王都の騎士団長だった頃には、こんな恐ろしい傷は一つもなかったはずだ。

 私を逃がし、一人でスラムの泥水をすすり続けてきた、この空白の十年間。

 彼が生き延びるために支払ってきた犠牲の重さと、底知れぬ痛みの歴史。

 それが物理的な傷となって刻まれた肉体を前に、思わず胸が張り裂けそうになった。


 だが、ここで感傷に浸って泣いている暇などない。

 私は震える唇を強く噛み締め、毛布と分厚い獣革の外套を両手に取り直した。

 そして一切の躊躇なく、高熱を発する彼の巨大な身体へと正面からぴったりと密着した。

 私と彼の二人ごと包み込むように、上から毛布と外套をすっぽりと被る。

 彼を両腕でぎゅうっと抱き締め、私の冷たい身体を彼の燃えるような肌に押し当てた。



「リカー……大丈夫ですよ。絶対、私が助けますから……っ」

「……ぐっ……ぁ……」



 至近距離で触れ合う肌からヒヤリとした冷たさが私の全身に伝わってくる。

 彼から微かに漂う安煙草の苦い匂いと、ひどく男らしい汗と血の匂い。

 今まで、数え切れないほど何度も彼に抱きしめられ、その腕の中で守られてきた。

 だが、私が自らの意志で彼を抱きしめ、彼を守ろうとするのは、これが初めてだった。


 あんなにも大きくて、無敵に見えた彼の姿。

 それが今は驚くほど脆く、そして果てしなく孤独なものに見えて仕方がなかった。


 外の雨音は、少しも弱まる気配がない。

 私は彼の荒い呼吸音を聞きながら、ただひたすらに祈るように彼を抱きしめ続けた。




 ◇◇◇




 そうして数時間が経った頃だろうか。

 不意に彼の身体が、ビクンと小さく動いた。



「……リカーっ? 気がついたんですか……?」



 私が安堵と共に顔を上げようとした、まさにその瞬間だった。

 彼のひどく熱を持った手が、私を震えるようにして抱きしめたのだ。



「え……」



 普段の余裕ぶった彼からは想像もつかないような、何かにすがるような弱々しい力。

 私は驚いて小さく息を呑み、至近距離で彼の顔を見つめた。

 彼の藍玉色の瞳は固く閉じられたままで、まだ意識は完全な混濁の中にあるようだ。

 だが、熱に浮かされた彼の唇が、微かに動いた。



「……姫様……」



 小屋に叩きつける激しい雨音の間を縫って聞こえてきたその声に、私の思考が完全に停止した。

 この十年間、彼から一度も聞いたことのなかった、かつての私の呼び名。

 私の記憶の底にずっと眠っていたあの高潔で、誰よりも優しい騎士の声色。

 それが今、理性を失った彼の口から、こぼれ落ちるように発せられたのだ。



「……ッ」

「どうか……ご無事で……っ」



 私の心臓が、巨大な金づちで殴られたかのように激しく跳ね上がった。

 面倒くさそうな『お嬢ちゃん』じゃない。

 突き放すような『お前』でも、『アンタ』でもない。

 十年間、スラムの泥底で生き抜くために彼が身につけてきた、粗野でぶっきらぼうな用心棒の仮面。

 それが、高熱によって理性のタガが外れたことで、今完全に剥がれ落ちていた。

 彼の魂の根底に深く刻み込まれた、決して消えることのない真実が露わになったのだ。



「リカー……っ、貴方……」

「……私がお守り、いたしますから……っ。だから、泣かないで、ください……」



 私の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。

 ギュッと、私の肌着を無意識に握りしめる、彼の手の力がひどく強くなる。

 うわごとのように繰り返される、その痛切な誓いの言葉。


 十年だ。十年もの間。

 彼は、王国中から大逆人の汚名を被り、路地裏で一人血にまみれようとも。

 たったの一日たりとも、一瞬たりとも、白銀の騎士団長としての私への忠誠を忘れ去ってなどいなかったのだ。


 私の前では金に汚い悪党を演じて突き放しながら。

 その実、彼の心はずっと、あの日から一歩も動くことなく、私の前に片膝をついていた。

 ただ一人の主君である私だけを、自分の命すら投げ打って守り続けてくれていたのだ。



「……バカですよ。なんで、こんな何もできない私なんかのために……っ」



 私は子供のように嗚咽を漏らしながら、彼の熱い首筋に深く顔を埋めた。

 彼から漂う血と汗の匂いが、今は何よりも気高く、たまらなく愛おしく感じられた。



「もういいんです、リカルド様。もう、貴方が一人で苦しむ必要なんてない……」



 彼が背負ってきた十年間の重すぎる孤独と、私に対する果てしない愛情の深さ。

 それを知ってしまった以上、私はもう、ただ彼に守られて怯えるだけの無力な少女でいることはできない。


 私が、彼を救うのだ。

 この不器用で、誰よりも誇り高く、世界中の誰よりも私を愛してくれているたった一人の騎士。

 泥の中で生きることを選んだ彼を、絶対に玉座の光の当たる場所へと私が連れ戻してみせる。



「……私が、貴方を守ってみせます。絶対に……」



 雨音が激しく響く冷たい屋根裏部屋で。

 私は彼の熱を自らの身体に刻み込むように、夜が明けるまで彼を強く抱きしめ続けた。


 彼が流した血の代償は、私が必ず支払う。

 私がすべてを奪った叔父に鉄槌を下すための、決して消えることのない反撃の炎。

 それがこの深い夜の底で、私の胸の奥に、確かに産声を上げたのだった。






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