17. 無傷の勲章と自己犠牲と言う名の狂気
空は分厚く重い鉛色の雲に覆われている。
真昼だというのに不気味なほどの薄暗さに包まれていた。
私たちは宿場町の外れにある、寂れた木造の厩舎へと向かって歩を進めていた。
鼻を突くのは、今にも降り出しそうな雨の気配を含んだ湿った土の匂いと、古い藁の臭いだ。
私の首の後ろでは、先ほど彼が不器用な手つきで結んでくれた真紅の革紐が揺れていた。
「……おい。そこで止まれ、お嬢ちゃん」
前を歩いていたリカーが、不意に足を止めた。
左の手の平をこちらに向け、低く押し殺した声で制止する。
彼から漂う気配が、一瞬にして張り詰めたものへと変わった。
「ど、どうしたんですか?」
「……どうやら、俺たちの動きを読んでいたらしい。しかも、かなりの大所帯だ」
リカーの視線の先には、薄暗い厩舎があった。
その周囲を囲むようにして、黒い外套に身を包んだ男たちが次々と姿を現す。
数は、ざっと二十人以上。
統率の取れた動きは、単なる小遣い稼ぎの傭兵ではないことを物語っていた。
そして、外套の下からは黒い甲冑の鈍い光が覗いている。
明らかに、叔父が放った正規軍の精鋭部隊だ。
「見つけたぞ。第一王女だ!」
「包囲しろ! 絶対に逃がすな!」
男たちのくぐもった怒声が飛ぶと同時に凄まじい殺意が周囲の空気を支配した。
抜き放たれた無数の剣が、雲の隙間から覗く光を反射して冷たく光る。
私は恐怖で喉の奥がカラカラに乾き、無意識にリカーの外套の裾を強く握りしめた。
絶体絶命の包囲網。
リカーは腰の剣にそっと手をかけたが、その指先は剣を抜く直前で止まった。
そして、ほんの一瞬だけ、背後に隠れる私の方を振り返る。
彼の藍玉色の瞳は、私の怯えた表情を静かに映し出していた。
二十人という数はスラムで生き抜いてきた彼にとって、決して倒せない数ではないのだろう。
だが、もしここで彼が剣を抜いて戦えば、血飛沫が舞い肉が断たれる凄惨な光景を、私の目の前で繰り広げることになる。
あるいは乱戦の最中に流れ弾や凶刃が、私に届いてしまうかもしれない。
そう危惧したのだろう。彼はひどく重い息を一つ吐き出した。
「……こっちへ来い」
「え?」
彼が剣の柄から手を離した瞬間、凄まじい雷鳴が轟き、ポツポツと雨が降り始めた。
私が状況を飲み込むよりも早く、リカーは素早い動作で自らが羽織っていた分厚い獣革のコートを脱ぎ去っていた。
そしてそれを私の頭の上に、乱雑に被せる。
視界が、一瞬にして黒一色に染まった。
「絶対に目を開けるな。耳を塞いで、しっかり俺にしがみついてろ」
その言葉と同時に、私の身体がふわりと宙に浮いた。
彼は私をコートごと抱え上げると、近くの柱に繋がれていた漆黒の逞しい軍馬の鞍へいとも容易く飛び乗ったのだ。
「なっ……! 貴様、何をする気だ!」
「撃て! 構わず射殺しろ!!」
コートの外から、雨音と馬のいななきに混じって兵士たちの声が聞こえてくる。
暗闇の中で、空気を切り裂く不吉な矢の音が風に乗って幾つも流れてきた。
だが、リカーは一切の躊躇なく手綱を操った。
私を自らの胸の中にガッチリと抱き込んだまま、敵の包囲網の最も薄い一角へと向かって、凄まじい速度で馬を突進させていく。
――バシャンッ!
水溜まりを激しく蹴り飛ばす蹄の音がやたらと大きく聞こえた。
私は暗闇の中で、彼の胸に強く顔を押し付けていた。
視覚を奪われた私の世界には、今、彼の存在しかなかった。
分厚い大胸筋越しに直接鼓膜に響いてくる。
彼の狂おしいほどに速く、力強い心臓の鼓動。
私を抱きかかえる彼の左腕の、骨が軋むほどの力強さがどうしようもなく頼もしい。
「どけェッ!!」
リカーの獣のような咆哮が響く。
彼は剣を一切使わず、突進する馬の機動力を頼りに、立ちはだかる重装甲の兵士たちを強引に跳ね飛ばしていった。
甲冑が弾け飛ぶ鈍い金属音が、すぐ下を掠めていく。
「ぐっ……!」
不意に、彼の口から微かな苦痛の呻き声が漏れた。
私の身体に衝撃は一切ない。
だが、私を抱きしめる彼の上半身の筋肉が、一瞬だけ硬直したのが分かった。
――矢だ。
降り注ぐ黒い雨と矢の中、彼は私を庇うために一切の回避行動をとっていない。
すべての攻撃を、シャツ一枚になった己の背中だけで受け止めているのだ。
「リカー……っ!?」
「……声、出すなっつっただろ……っ。しっかり掴まってろ!!」
私はコートの中で悲鳴を上げそうになる口を両手で必死に塞ぐ。
ただ彼のシャツを強く握りしめることしかできない。
私がここで暴れれば、彼の負担をさらに増やすだけだと必死に自制する。
馬はそのまま、凄まじい速度で関所街を駆け抜けていった。
「止まれ! 何者だ!!」
関所の門兵たちの怒声が聞こえてくる。
だが、リカーは手綱を緩めることなく、漆黒の馬と共に強引に門をくぐった。
追っ手と関所の兵士たちが放つ無数の矢を背中に浴びながら、私たちは関所街を抜け、グレイフォールへと続く暗い山道へと逃げ出した。
どれほどの時間が過ぎたかわからない。
少なくとも数時間は全力で駆けていたことは確かだ。
背後から聞こえていた追っ手の声と金属音は、激しい雨音と泥を蹴る蹄の音に完全に掻き消され、やがて何も聞こえなくなった。
──ヒヒィン……。
限界まで走らされた馬が、ひどく荒い息を吐きながら歩みを緩める。
雨音に混じって、風に揺れる木々のざわめきだけが聞こえてきた。
どうやら、関所街からかなり離れた山の中まで逃げ延びたようだ。
「……っ。ここなら、少しは雨風が凌げそうだ」
リカーのひどく荒く、浅い呼吸音が聞こえ、馬の動きが完全に止まった。
そして、私を覆っていた重い獣革のコートがゆっくりと取り払われる。
薄暗い視界が慣れてくると、そこは寂れた木造の小屋の前であることが分かった。
「はぁ……巻き込んじまってすまなかったな。よく頑張ってくれた」
リカーは小屋の入り口に立っていた。
雨に打たれながら、ここまで私たちを運んでくれた馬の首を優しく撫でている。
そして、小屋の軒下にある辛うじて雨を凌げる太い柱に、手早く頑丈な結び目を作って馬の手綱を繋ぎていく。
それは馬の扱いを熟知している彼らしい、ひどく手慣れた動作だった。
──ギィッ。
小屋の中に入り扉を閉めると、外の激しい雨音が少しだけ遠のいた。
私は、自分自身の姿を見下ろした。
彼のコートに完全に守られていた私には泥一滴、雨一滴すらついていない。
一切の怪我もなかった。完璧なまでに無傷だ。
だが、私の目の前で、壁に背を預けて荒い息を吐いている彼は酷い有様だった。
「……リカー……!」
私の口から、絶望的な悲鳴が漏れた。
純白だったはずの彼のシャツは泥水で汚れ、完全に肌に張り付くほどずぶ濡れになっている。
そして、彼の左肩から二の腕にかけて、深い切り傷がついていた。
追っ手の凶刃が掠めたのかパックリと服が裂け、そこから生々しい赤い血が流れ出している。
「……大声、出すなよ。ただの掠り傷だ。こんなんなんて事ねえって……」
リカーは壁にずるずると崩れ落ちるようにして、腐りかけた床に座り込んだ。
彼はいつものように皮肉げな笑みを浮かべようとしていたが、その顔色はひどく青ざめている。
「どうして……っ。どうして戦わなかったんですか!? 貴方の腕なら、馬を奪う前にあの傭兵たちを倒すことだって……!」
私は彼のそばに膝をつき、震える手で彼の血のにじむ肩口に触れた。
氷のように冷たい。彼の身体から、恐ろしいほどの速度で熱が奪われている。
「バカか。乱戦になれば、お前に怪我させるかもしれねえだろうが」
「でも、だからって貴方がこんな……っ!」
「それに……」
リカーは、目を細めて私を見上げ、自嘲するように薄く笑った。
「……お前の前で、血生臭い人殺しの真似はしたくなかったからな」
その言葉に、私の心臓が見えない大きな手で強く握り潰されたような気がした。
彼は、私の視界を汚さないためだけに。
私が彼を恐ろしい人殺しだと怯えないようにするためだけに。
剣を抜くという最も安全で確実な選択肢を自ら捨て、己の肉体をただの盾にし、この冷たい豪雨と刃の中に飛び込んでいったのだ。
自分の命や痛みなどなんとも思っていないような、自己犠牲という名の狂気である。
「……アホみたいに泣くな。俺の傷より、お前のその結んだ髪が解けてねえかの方が心配だ」
「……っ、バカ! そんなことより、自分のことを心配してください……っ!」
私はボロボロと大粒の涙をこぼした。
彼の冷え切った大きな身体を、自らの両腕で強く抱きしめる。
私の体温を、少しでも彼に分けようと思ったのだ。
彼のずぶ濡れのシャツから、冷たい雨の匂いと、微かな血の匂いが漂ってくる。
「……少し、冷えるな」
彼が私の肩に重い頭を預けひどく苦し気な、浅い呼吸を繰り返す。
冷え切った身体とは裏腹に、彼の額は恐ろしいほどの高熱を発し始めていた。
極度の疲労、冷たい豪雨の中での乗馬。そして深い切り傷。
いくら頑丈だとしても、生身の人間である彼がこの無茶な強行突破の代償を払わずに済むわけがなかったのだ。
「リカー……? リカー、しっかりしてください!」
「……少し、寝る。追っ手は……俺が……」
うわごとのように呟きながら、彼の意識が急速に混濁していくのが分かった。
彼が私の服の裾を、無意識に強く握りしめる。
外の雨音は、さらに激しさを増して小屋の屋根を打ち据えている。
その雨音に混じり、彼の苦しげな吐息が、狭い小屋の中に溶けていく。
自分の無力さに絶望する暇などない。
今はただ、この命を繋ぎ止めることだけが私の使命だ。
私は震える手で荷物を漁り、彼の傷を防ぐために行動し始めたのだった。




