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16. 赤い刻印と秘めた恐怖

 




 部屋の小窓から、眩しい朝日が差し込んでくる。

 関所街の朝は早く、外からはすでに荷馬車が通り過ぎる音が聞こえ始めていた。



「……んっ……」



 重い瞼を持ち上げ、ベッドの上でゆっくりと身を起こす。

 視線を移すと、床に座り込んだリカーが布で長剣を拭っているところだった。

 鉄の匂いと、微かな油の香りが鼻をくすぐる。



「今日は早いな。まあ、眠れたならそれでいい」



 リカーは剣を置くと、私が生返事をするよりも早くベッドの端に膝を着いた。

 迷いのない動きで私の右足首を掴み、昨日巻いてくれた包帯を解いていく。

 ツンと鼻を突く、薬草の青臭い匂いがする。

 彼の節くれだった指先が、ひんやりとした軟膏を私の足裏に塗り広げた。

 その指の熱が、傷の疼きを溶かしていくようだ。



「ブーツ捨てた時に比べればだいぶマシになったが、それでも酷いな」

「でも、かなり楽になりましたよ。貴方のおかげでもう走れそうな気がします」

「ハッ、強がんなよ。この足で走れるわけねえだろうが。それより……ほら、これ履いてみろ」



 彼が私の足元に置いたのは、柔らかな鹿革で作られた平底の靴だった。

 わざわざ朝早くに市場を回って、私の傷を障らないものを探してきてくれたのだろうと察する。



「これ、私のために?」

「……お前が歩けねえと、俺が困るからな。だが、サイズが合わねえと話にならねえ。立てるか? 無理なら言え」



 差し出された彼の手を借りて、恐る恐る靴に足を入れて床に立つ。

 上質な鹿革が傷口を優しく包み込み、守ってくれているように感じた。



「……すごい。とても楽です」

「なら、いい」



 彼は少し目元を緩め、ほっと息を吐いた。

 その後言い含めるように忠告してくる。



「ただ無理はするな。キツくなったら早めに言え。それと外套も買ってきたから、忘れずに着ていけよ」



 そうぶっきらぼうに言い捨て歩き出した彼の背中を追い、私は慌てて部屋から出た。




 ◇◇◇




 市場は活気があり、多くの人々が集まっていた。

 道の両脇には無数の天幕が張られている。

 周囲には刺激的な香辛料の匂いと肉が焼ける匂いが入り混じっており、食欲をそそられた。


 すれ違うのは、目つきの鋭い傭兵や粗末な外套を纏った行商人たちだ。

 誰もが皆、今日を生きるためのギラギラとした欲望を瞳に宿している。


 これから始まるグレイフォールへの道のり。

 それに備え食料や野営の道具を買い揃えるために、私たちはここを訪れていた。


 私の前を歩くリカーは歩調を私に合わせてくれていた。

 面倒くさそうに首の後ろを掻きながら、ゆっくりと人混みの中を進んでいる。



「珍しいのはわかるがはぐれんなよ。こんな掃き溜めで迷子になられても探す手間が惜しいからな」



 振り返りもせず、彼特有のぶっきらぼうな声が飛んでくる。

 私は目立たないように深く被った灰色のフードを押さえながら、彼の背中についていく。



「分かっています。ただ、人が多すぎて──」



 そう言いかけたとき、酒臭い息を吐く男の肩が私の身体に勢いよくぶつかった。

 バランスを崩した拍子に、深く被っていたフードがふわりと風に煽られて後ろに滑り落ちる。



「おっと、わりぃなぁ……って、ん?」



 ぶつかった男が、こちらを下卑た目で見てくる。

 フードの下から零れ落ちた私の金髪に気づいたのだろう。

 


「へえ、このへんじゃ見ねえ顔だな。随分と上等な金髪じゃねえか。一体どこのお貴族様が家出してきたんだ?」

「痛っ……は、離してください……っ」


 ニヤニヤと笑う男たちが、獲物を見つけたかのように私の周囲を取り囲む。

 その中の一人が、垢に塗れた汚い手で私の腕を強引に掴んできた。

 恐怖で喉の奥がカラカラに乾き、心臓が早鐘のように激しく打ち始める。

 私の正体がバレれば、すぐに追っ手の耳に入ってしまう。



「嫌がってねえで、俺たちと少し遊んでいけよ。なぁに、悪いようには──」



 男の薄汚れた顔が私に近づいてきた、その瞬間だった。



「おいおい、何してんだ? 俺の連れが怖がってんじゃねえか」



 ひどく間延びした、平坦な声が聞こえる。

 私を囲んでいた男たちの背後に、いつの間にかリカーが音もなく立っていた。



「あぁ? なんだてめぇは。引っ込んでろ――!?」



 目の前の男が声にならない悲鳴をあげる。

 リカーが、私の腕を掴んでいる男の手首を掴んだのだ。

 そして一切表情を変えずに逆方向へゆっくりと捻り上げ始める。



「いだだだだっ!くそっ、離せ! う、腕が折れる……!!」

「あー、わりぃわりぃ。俺、ちょっと手元が狂いやすくてさ。で、こいつに何か用でもあんのか?」



 リカーの口元は、気怠げな弧を描いている。

 だが、その瞳の奥には、紛れもなく怒気と殺意が渦巻いていた。

 スラムで十年間、金さえ貰えば何でもやってきた用心棒が発する圧倒的な凄みに当てられ、取り囲んでいた男たちの顔から一瞬にして血の気が引いていく。



「な、なんでもねえよ! 行くぞお前ら!!」



 男たちはそう叫び、蜘蛛の子を散らすように人混みの奥へと逃げ出していった。

 残されたのは、彼らを見送るリカーと呆然としている私だけだ。



「チッ……だからはぐれんなっつっただろうが」



 リカーは大きく舌打ちをすると、私に向かってずかずかと歩み寄ってきた。

 そして、私の腕を無言で掴んだ。

 そのまま市場の裏手にある、日の当たらない薄暗い路地裏へと私を強引に引きずり込む。



「リ、リカー? 痛い、腕が……」

「……」



 無言のまま、彼の大きな手が私の顔のすぐ横の冷たい石壁を叩いた。

 逃げ場のない狭い路地裏で、彼の身体が私を完全に閉じ込める。



「はあ……。お嬢ちゃん、改めて聞くが。自分が今どういう立場か分かってんのか?」

「追われている身です。だから、フードで顔を隠して……」

「隠せてねえからこうして言ってんだよ。それと危機感も持て。ただでさえ手配書が回ってんだ、特にその髪は目立つ」



 そう言いながら彼は先ほど市場の露店で買い求めていたある物を取り出した。

 それは飾ることを目的とする華美な宝石や、繊細なリボンなどではない。

 馬具にも使われるほど頑丈な一本の赤い革紐だった。



「後ろ向け」

「え?」

「いいから向いてくれ。その目障りな髪、俺がまとめてやる」



 言われるがまま、私はゆっくりと彼に背中を向けた。

 彼の荒れた指先が私のうなじに微かに触れ、身体が微かに震えた。

 彼が私の髪を一つに束ね、真紅の革紐できつく縛り上げていく。

 ぎゅっと首の後ろで結び目が作られたあと、そっと手が離された。



「よし。これで少しはマシになっただろ。少なくとも出かけている間は解くんじゃねえぞ」

「はい……。ありがとう、リカー。これも、私のために買ってくれたんですね」



 私が彼の瞳を見つめ、心からの感謝を込めて微笑みかけると、彼はピタリと動きを止めた。

 いつもなら「アホか」と悪態をつくはずだった。

 だが、今は一切の言葉を発することなく、ただ私を見下ろしている。



「…………だから、勘違いすんなって」



 彼は不意に視線をそらすと、顔を俯かせる。

 少しの沈黙の後、絞り出すように言葉を口にした。



「お前の髪が目立って追っ手に見つかると、俺が面倒な巻き添えを食う。だから、仕方なく買っただけだ。……靴も、外套も同じだ。ただの道具だろうが。そんなもんに意味なんかねえ」



 そう言ってそっぽを向く彼の横顔は、どこか気まずそうだ。

 だが、その表情には、私からの真っ直ぐな好意をまともに受け止めることができないという、大人としての逃げと限界がはっきりと滲み出ていた。


 血生臭い世界をたった一人で生き抜いてきた伝説の用心棒。

 その彼が、私からの感謝の言葉で言葉を失い、静かに動揺しているのだ。

 それに先ほど、私の髪を結んでくれた彼の指先は私が気づかないほど微かに、けれど確かに小刻みに震えていた。

 少し考えてから、私は彼の真意に気づく。


 彼は、私を失うのが怖いのだ。


 十年前も、今日も、本質は変わっていない。

 気怠げな態度の裏側に隠された本心が、ようやくわかった気がした。

 彼が一人で抱え込んでいる孤独と、私を失うことへの計り知れない恐怖。

 それを理解した瞬間、私の胸は痛みを伴って締め付けられた。



「もう行くぞ。日が暮れる前に馬を調達しねえといけねえ」

「わかりました。どこまでもついて行きますよ」



 彼は自らの動揺を振り払うかのように、わざと乱暴な足取りで路地裏の出口へと向かって歩き出した。

 それでもその速度は私が追いつけるくらいにゆっくりとしたものだった。

 私は自分の髪を縛る真紅の革紐に触れながら、彼の不器用な背中を追いかける。


 空を見上げれば先ほどまでの晴天が嘘のようにどんよりとした鉛色の雲が広がり始めていた。








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