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13. 背中の温もりと用心棒の独白★

※リカルド視点

 



 もう一度眠りにつき、すうすうと穏やかな寝息を立てるエクラの様子を伺う。

 首に回された細い腕。

 俺の背中に預けられた小さな身体。

 彼女の肌から漂う微かな甘い香りが、俺の鼻をふわりと掠める。


 ──ザクッ、ザクッ。


 月明かりに照らされながら、彼女を起こさないように静かに山道を歩いていく。

 脳裏に焼き付いて離れないのは、数時間前に嗅いだあのむせ返るような濃い鉄の匂い――彼女の足裏からとめどなく流れていた血の匂いだった。



「……バカが」



 俺は誰に聞かせるわけでもなく、夜の闇に向かって低く毒づいた。

 俺が適当に買った、あの安物のブーツ。

 あんなゴミみたいな靴のせいで、彼女は生皮が剥がれ靴の中が血の海になるまで、ただの一言も痛いと言わずに歩き続けたのだ。



『だってっ……リカーが私のために、わざわざ買ってくれたものだったから……っ!』



 涙でぐしゃぐしゃになった顔で、彼女はそう言った。

 俺の気遣いを無駄にしないようにと。

 その小さな足がぶっ壊れるまで激痛に耐え続けたのだ。

 それを知った瞬間、深い後悔と自分への凄まじい怒りに襲われた。


 もっと早く彼女を止めるべきだった。

 少々強引にでも、彼女の足の様子を確認するべきだった。


 俺は、彼女を守るためにあの日すべてを捨てた。それなのに。

 結局、俺が一番、彼女を傷つけてしまった。



「……っ」



 奥歯を強く噛み締める。

 そうでもしないと、溢れる激情を抑えることができなかったのだ。

 少し揺れたからだろうか、背中の彼女が小さく身じろぎをした。

 その僅かな反応にハッとし、感情を腹に落とし込んでいく。


 彼女の寝息が、背中越しに静かに伝わってくる。

 起こさなかったことに安堵しながら、俺は空を見上げた。


 ――思い出すのは忘れたくとも忘れられない、十年前のあの日のことだ。




 ◇◇◇




 十年前。王宮の奥深くにある、高価な調度品に囲まれた執務室。

 高価な香の匂いが立ち込めるその部屋の中央で。

 当時の白銀騎士団長だった俺は、国王の弟――オズワルドと対峙していた。



『……剣を収めたまえ、リカルド団長』



 静寂を切り裂いたのは、今まさに追い詰められているはずの初老の男の声だった。



『この期に及んで命乞いですか、オズワルド公』



 彼に剣の切っ先を向けたまま、威圧感を込めて応える。

 窓の外では雷鳴が轟き、激しい雨が窓に打ち付けられていた。



『すでに謀反の証拠は揃っています。貴方の寝室から毒の小瓶も見つかった……。大人しく、牢まで同行していただこう』

『ふっ……。いくら国の英雄と持て囃されていようと、所詮は青臭い若造だな』



 死を目前にしているはずの男が、喉を鳴らして笑い出した。

 気味の悪い彼の様子に、嫌な予感がする。



『私が、無策でこの場に留まっているとでも思ったかね?』

『……何が言いたいんです』

『お前の可愛いお姫様の寝室には、すでに私の手の者が潜んでいる。……お前がその剣をわずかでも動かした瞬間、殺す手筈は整っているのだよ』



 心臓が跳ねた。

 視界が真っ赤に染まるような、激しい動揺が思考をかき乱す。



『……っ、正気ですか!? 彼女はまだ幼い! それに、貴方の姪なんですよ!』

『はっ、血の繋がりなど関係あるものか。重要なのは王位継承権、ただそれだけだ』



 オズワルドは鼻で笑い飛ばし、悠然と俺の剣先へと一歩踏み出した。

 首筋に刃が食い込み、細く血が流れる。

 だが、男の瞳に宿るのは確信に満ちた愉悦だった。



『さあ選べ、リカルド。これは慈悲だ。英雄と慕われ、崇められるお前へのな』



 死刑宣告にも似た低い声が、冷たい執務室に響き渡る。



『お前が私に従いすべての汚名を被って消えるなら、エクラの命は生かしてやろう。息子の嫁にでも据えれば、この国は私のものとなるからな』

『…………っ』

『だが、お前が薄汚い正義を貫こうとするのなら。あの小娘は今夜、冷たい床の上で息絶えることになる。……さあ、どちらが彼女のためかな?』



 オズワルドの言葉に、ぎりっと奥歯を噛み締める。

 王国の未来か。それとも、たった一人の少女の命か。

 騎士として、国を守る盾として、選ぶべき正解は決まっていたはずだ。

 ここで反逆者を討たなければ国は確実に腐敗し、多くの民が苦しむことになる。


 だが、彼女の顔が頭をよぎる。

 俺が淹れたミルクを飲み、花がほころぶように笑う、あの小さな少女の顔が。


 目の前の男を目だけで殺さんとばかりに睨みつける。

 剣の柄を指が白くなるほど強く握った。

 心臓が早く決断しろと言わんばかりに鼓動を早めている。



 『…………クソッ……!!』



 最終的に、俺は剣の柄から手を離した。

 腰から愛用している長剣を外し、少し離れた床へと投げる。


 俺は、国を捨てた。

 騎士としての誇りも、名誉も、剣と共に投げ捨てたのだ。



『くくっ……素晴らしい忠誠心だ。英断に感謝するよ、慈悲の英雄──いや、大罪人リカルド』



 それが、事の真相だった。

 叔父の謀反を察知しながら、寸前まで追い詰めていたにも関わらず。

 俺はエクラを生かし続けるために、あえて王室への不敬という汚名を被った。

 弁明一つせず、抵抗もせず、ただ黙って追放される道を選んだのだ。


 冷たい豪雨が降り注いでいた、追放の日。

 王宮の門で、泥だらけになって俺のマントにすがりついてきたエクラの温もりを、俺は一生忘れることはないだろう。



『噓でしょ! だって、私知ってるもんっ! リカルド様が、悪いことなんてするわけない……っ!』



 泣き叫ぶ彼女を抱きしめ、すべてを打ち明けてしまいたかった。

 どうか泣かないでほしいと、震える身体を抱き締めたかった。


 だが、俺が少しでも彼女への執着を見せればどうなるか。

 オズワルドは必ず彼女も共犯者だとして、断罪するだろう。

 だから俺は振り返らずに、彼女へ背中を向け続けるしかなかった。



『貴女がこの先大きくなって、いつか戴冠するその時まで。私は決してお傍から離れません』



 雨音に掻き消されそうな声で残した、俺の最後の誓い。

 あの日、白銀の騎士リカルドは死んだ。

 残ったのは泥水を啜り金のためなら誰でも殴り飛ばす男。

 スラムの薄汚れた用心棒リカーという抜け殻だけだ。


 追放されてからの十年は、血と泥の臭いしかしない地獄のような日々だった。

 叔父の目が届かない、王都のスラム街の路地裏に身を潜めた。

 そして、追っ手の目を誤魔化すために髪を伸ばした。

 無精髭を生やし、安い煙草と濁ったエールで喉を焼く。


 スラムは暴力だけが全ての世界だった。

 そこで俺は何でもやる用心棒として剣を振り、日銭を稼いだ。

 相手の命を奪うことなど造作もなかった。

 だが、俺は意地でも誰も殺さずに相手を叩きのめし続けた。


 一度でも刃を血で汚してしまったら。

 あの日、彼女に誓った最後の騎士としての誇りまで失ってしまいそうな気がしたから。


 稼いだ金は、自分のためには一切使わなかった。

 酒も食事も一番安いものを口にし、残りは全て闇ギルドの運び屋に託した。


 宛先は遠く離れた北の果て――辺境の町グレイフォール。


 俺が大罪人として追放された後。

 俺の部下であった白銀騎士団の精鋭たちもまた、大罪人のレッテルを貼られ、辺境へと流刑にされていた。


 俺のせいで、彼らの人生まで狂わせてしまったのだ。


 俺に彼らを率いる資格など、もうどこにもない。

 だが、せめて彼らが辺境の地で生き延びるための物資だけは、偽名を使ってでも送り続けたかった。



『また辺境への仕送りか? リカー。お前こんだけ稼いでるのに、いっつもボロ布みたいな服着てんなぁ』

『うるせえよ。余計な詮索すりゃその首へし折るぞ』

『ひぃっ! わ、悪かったよ。だがよぉ、あんたのその腕なら王城の騎士にだってなれるだろうに』

『はっ、騎士ねえ。……そんな立派なモンじゃねえよ、俺は』



 誰にも真実を語らず。極力、誰とも関わらず。

 マーサから時折届く手紙に書かれている彼女の様子。

 それを心の支えにして、俺は十年という果てしない泥の中を這いずり回った。


 いつか、彼女が王宮から逃げ出す日が来るかもしれない。

 オズワルドが約束を破り、彼女を殺そうとする日が来るかもしれない。

 その時、約束を守って誰よりも早く彼女の盾となるために。

 俺はずっと、王都の最も暗い底から彼女のいる王宮を見上げ続けていたのだ。


 そして、数日前。

 その日は、最悪の形で現実のものとなった。


 オズワルドの本格的な謀反。

 俺と密かに繋がっていた乳母マーサの死。

 そして降りしきる雨の中、金貨を握りしめて逃げ込んできた彼女の姿。



『騎士など探していません。他でもない貴方を探していたのです』



 十年の時を経て、俺の腕の中に飛び込んできた彼女。

 その身体は、ひどく震えていた。

 守れなかった。

 彼女の平和な日常を、俺は守り切ることができなかった。


 だが同時に、俺の全身の血が恐ろしいほどに沸騰するのを感じていた。

 もう、彼女を遠くから見守る必要はない。


 俺の手で、俺の力で、直接この腕の中に彼女を囲い込み守ることができる。

 俺は用心棒リカーという最高の偽装を盾にして、十年経った今再び彼女の隣に立つ理由を手に入れたのだ。




 ◇◇◇




「……んっ……りかるど、さま……」



 背中から聞こえた微かな寝言に、俺はハッとして思考の海から引き戻された。

 夜の山道。冷たい風が吹き抜ける中、俺はゆっくりと足を止めた。


 背中の彼女は、俺の首元に顔をすり寄せてきた。

 そうして深く安らかな寝息を立てている。

 その体温が、革のコート越しにじんわりと俺の背中を温めていた。


 三日前の酒場で彼女が俺に向けて放った、昔の騎士様の言葉。

 そして、靴の痛みを必死に隠そうとしていた彼女の切なすぎる強がり。


 彼女はもう、とっくに気づいているのだろう。

 俺が、リカルドであるということに。


 それでも彼女は、俺の嘘を暴こうとはしなかった。

 俺が過去を隠したがっていることを察して、俺の用心棒としての芝居に健気に付き合い続けてくれている。



「本当に、あの頃の泣き虫な姫様とは大違いじゃねえか」



 俺は無意識のうちに口角を上げていた。

 そして、そんな自分に気づき小さく息を吐く。

 彼女の身体をわずかに揺らして背負い直すと、片手をそっと彼女の頭へと伸ばした。

 眠っている彼女の金色の髪を、かつて王宮の庭園で泣く彼女をあやした時とまったく同じ手つきで優しく撫でる。



「……でかくなったな、姫様」



 声に出したその呟きは十年分の重みが乗り、愛おしさに満ちていた。

 彼女が起きていたら決して口には出せなかったその言葉。


 幼かったあの日の少女は痛みに耐え、笑えるくらいまで成長した。

 自らの足で歩こうとする、気高く美しい王女になったのだ。

 俺が命を懸けて守り抜いてきたものは、決して間違っていなかった。


 だが、この幸せが永遠に続くわけではないことを、俺は誰よりも理解していた。

 彼女を北の辺境――俺の部下たちがいるグレイフォールへと送り届ける。

 そして彼女が反乱軍をまとめ上げ、真の女王として玉座を取り戻したその時。


 大逆人の汚名を着たままの俺は、彼女の前から姿を消さなければならない。

 彼女の輝かしい未来の足枷にならないように。


 ――それが、俺が十年前から決めていたこの命の使い方だ。


 俺はただの泥にまみれた影でいい。

 彼女が眩い光の中で笑ってくれるなら、俺は地獄の底で笑って死のう。



「……あと少しだ。玉座まで、俺が必ず連れて行ってやる」



 俺は、背中の彼女のぬくもりを心に刻み込むように深く息を吸い込んだ。

 決意を新たに、再び夜の山道へと足を踏み出していく。


 誰にも見られない月明かりの下。

 そこでだけ、俺はリカーという偽りの皮を脱ぎ捨て彼女だけの騎士に戻ることが許されていた。






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