12. 十年前の回想と彼の背中
熱に浮かされたような意識の中。
私は冷たい大理石の床に立っていた。
見覚えのある玉座の間だ。
だが、そこの主である父様の姿はどこにもない。
その代わりとでもいうように、幼い私の横には、叔父であるオズワルドが厳しい表情をして立っている。
『皆の者、見よ! この大罪人の恐ろしき陰謀を!』
石造りの広間に、叔父の芝居がかった声が反響する。
高く冷たい音を立てて、大理石の床に二つの証拠品が投げ出された。
一つは父様の命を奪おうとした、紫色の毒薬が入った小さな硝子の小瓶。
そしてもう一つは、王国最強の騎士団長が肌身離さず持っていたはずの白銀のペンダント。
『この男は王女を誑かし自らが王座に就くために! 邪魔な王を毒殺しようとしたのだ!』
叔父の狡猾な扇動に、周囲を取り囲む貴族たちがざわめき始める。
彼らの視線の先には、純白のマントを血と泥で汚された一人の騎士がいた。
両手を背後に縛られながらも、決して背筋を曲げない気高き英雄。
私を甘やかし蜂蜜入りのミルクを淹れてくれた優しい人。
誰よりも誇り高い憧れの騎士様。
――違う! 彼はそんなこと絶対にしないっ!
心が張り裂けそうだった。彼が父を殺すはずがない。
それはすべて、王座を狙う叔父の汚い罠だ。
その真実を、他でもない私が叫ばなければ。
この気高い英雄を、悪人にしてはいけない。
『ちが……っ、彼は……!』
必死に声を振り絞ろうとした、その瞬間だった。
大理石に膝をついていたリカルドが、ゆっくりとこちらを振り向いたのだ。
『──王女様、お静かに』
静かながらもよく通る声。その声色は氷のように冷たかった。
だが、私を見つめるその藍玉色の瞳の奥。
そこには、慈しむような色が揺れていた。
当時の私にはわからなかった。
もし私がここで叔父に反論し、彼を庇えばどうなるか。
王女もまた、この大罪人と共謀して王を殺したのだ。
叔父はそう言って、必ず私を断罪しただろう。
父様以外に私を守る手駒が何もない王宮で、今、私を守る術はない。
彼はそれを見越していたのだ。
『ふっ……言い逃れはしないのだな。ならば、これ以上の問答は不要! 連れて行けっ! この大罪人を王宮から身一つで追い出すのだ!』
叔父の勝ち誇ったような命令が下る。
彼は一切の弁明をせずただ静かに、すべての罪を認めるように深く頭を垂れた。
――ぱっと、場面が切り替わる。
鼓膜を殴りつけるような豪雨の音。
王宮を逃げ出したときと同じくらい、土砂降りの雨が降っている。
その中を幼い私が走っていた。
傘も差さず、引き止める侍女を振り切って、たった一人で王城を出ようとしている彼の背中に追い縋る。
『待って! 待って、行かないでっ!』
泣き叫ぶ私の声が聞こえたかのように、ぴたりと彼の足が止まる。
『噓でしょ! だって、私知ってるもんっ! リカルド様が、悪いことなんてするわけない……っ!』
ようやく彼に追いついた私が、彼の背中のマントを掴む。
彼を絶対に行かせないという固い意志を込めて強く握りしめた。
そして、彼のマントに顔を押し付けながら必死に「行かないで」と繰り返した。
雨なのか、涙なのか、もう自分でもわからないくらい顔が濡れていた。
彼が父様を毒殺しかけた。
そんな濡れ衣を着せられたまま彼が何も言わずにいなくなってしまう。
そのことが、どうしても許せなかった。
『やだっ! お願い……私を置いていかないで……っ!』
泣き喚く私の声に、彼は振り返らなかった。
ただ、彼の身体はマント越しにもわかるほど震えていた。
そのまま、どれほどの時間が流れただろうか。
彼は前を向いたままゆっくりと顔を上げた。
冷たい雨の空を仰ぎ見た彼はひどく掠れた、低い声を絞り出す。
『……泣かないでください、姫様』
その声にはかつての優しい響きと共に、血を吐くような悲痛な決意が込められていた。
『私は大罪人です。このまま貴方の傍にいれば、貴方まで罪に問われてしまう。だから……行かなくてはならない』
『やだ……っ! やだぁ……っ!』
『……ですが』
私がさらに強くマントを握りしめると、彼はゆっくりと振り向いた。
私の頭に優しく手を置き、宥めるように撫でる。
『ですが、私はずっと姫様の近くにいますよ』
『え……?』
私が顔を上げると、彼は何かを決意したような目をしながら私への最後の誓いを口にした。
『貴女がこの先大きくなって、いつか戴冠するその時まで。私は決してお傍から離れません。たとえ姿を変え、名を捨てようとも、必ず貴女の盾となりましょう』
『リカルド、さま……』
『だから、もう泣かないでください。次にお会いする時はどうか、貴女の気高い笑顔を見せてくださいね』
そう言い残すと、彼は私の手を静かにマントから外した。
そうして、再び雨の向こうへと歩き出してしまう。
遠ざかる冷たい甲冑の音を聞きながら、私は王宮の石畳にへたり込んだ。
――あの日彼が背負って行ったものは一体どれほど重く、冷たいものだったのだろう。
◇◇◇
「……っ」
熱っぽい微睡みの中で、私の頬に生温かい涙がツーッと伝い落ちた。
冷たい雨の感覚が、ゆっくりと遠ざかっていく。
「……んっ……」
私は重い瞳をゆっくりと開いた。
視界の先には深い藍色に染まった夜空が広がっている。
その中で、無数の星々がきらきらと輝いていた。
私の目の前には、無造作に伸びた銀髪の襟足と逞しい背中があった。
足の激痛は鳴りを潜め、静かに熱を伝えてくるだけになっている。
「起きたか、お嬢ちゃん」
私が身じろぎをすると、リカーは肩越しにこちらを見て低く呟いた。
「よく眠ってたな。よだれとか垂らしてねえだろうな」
「垂らして、ないです」
「ならいい。……足の具合はどうだ。痛むか」
「いいえ、もう痛くないです。貴方が手当てしてくれたおかげですよ、リカー」
私は彼の広い背中に頬を擦り寄せた。
彼は一瞬だけ歩みを遅らせ、フッと自嘲気味に口角を上げた。
「ほんと、手のかかる依頼人だ。俺の給料、相当ふっかけてやらねえと割に合わねえな」
「なら……私が女王になったら、お城の金庫ごと貴方にあげますよ」
軽口を叩き合う。
普段通りの用心棒と雇い主の会話。
だが、今の私には彼のこの口の悪い悪態が、どんな甘い言葉よりも愛おしくてたまらなかった。
私は、彼の首に回した両腕にぎゅっと力を込めた。
あの日。冷たい雨の中で離してしまったマント。
二度と届かないと思っていたその背中に、十年という果てしない時を越えて、私はこうしてしがみついているのだ。
彼は、嘘つきだ。
父様を殺していないのに、自ら罪を被った。
どこへも行かないと言いながら、私の目の前から姿を消した。
頑ななまでにスラムの用心棒として、露悪的に振舞っている。
だが、彼は誠実な人でもある。
姿を変え、名を捨て、薄汚れた用心棒の皮を被ってでも。
彼はあの日誓った通り私の傍から離れてなどいなかった。
そして、今、私をずっと守り続けてくれているのだから。
私は彼の外套の分厚い生地を、もう二度と離さないと誓うようにきつく握りしめた。
「っと……なんだよ、苦しいぞ。首絞める気か」
「違います。貴方の背中がすごく大きくて、温かいなって思っただけですよ」
「……アホか。寝言は寝て言え」
照れ隠しに吐き捨てられた言葉を子守唄にして。
私は、あの日流し尽くせなかった十年分の涙を彼の背中にこっそりと染み込ませた。
次に目覚めた時は泣き顔ではなく、彼が望んだ気高い女王の笑顔を見せよう。
心の中でそう誓いながら、私はいつの間にか深く、温かい眠りの中へと再び落ちていったのだった。




