第5話:でも、あなたのことは忘れないわ
「憂患に生まれ、安逸に死す」
——『孟子』告子下
「今日はまさかお前とイリスが当番か」
「いい機会だな」
「じゃあ先に寮に戻るね、バイバイ」
夏恋が教室を出て行った。
「高橋くん、今日は二人で当番ですね。よろしくお願いします」
「うん、よろしく」
イリスはほうきを持って掃除を始めた。
「あの……イリスさん、そのしおりを見せてもらえますか?」
「箱から出てきたあのしおりのこと?」
「そう」
「いいよ」
イリスは鞄のポケットを開け、しおりを取り出した。
(なんかこのしおり、すごく見覚えがあるな……)
「このしおり、イリスさんにとって大切なものなんですね」
「そう言えるかも……でも、私が持ってたことのないものなんだけどね。ところで高橋くんはゲームが好きなの?」
「うん、数少ない趣味だからね」
「こっちは掃除終わったよ。モップ掛けお願い」
瞬がモップ掛けを始めた。
白夜は机の上に座り、掃除をする二人を見ていた。
「お前、あいつがずっとチラチラお前を見てるのに気づいてないのか?」
(それはきっと俺のイケメンな顔に惹かれてるんだな)
瞬は得意げに顎を上げた。
「俺はお前がそんなにイケメンだとは思わないけどな。昔は俺に告白してきたイケメンなんてたくさんいたけど、みんな断ってきたぞ」
「高橋くん……」
その時、イリスが歩いてきた。
「子供の頃に仲の良かった友達っている?」
「え?なんでそんなこと聞くの?」
「ただ高橋くんのことを知りたいなって」
イリスは少し恥ずかしそうにうつむいた。
「俺もあんまり友達は多くなくて、よく一人でいたよ」
「本当?もしかしたら何か忘れてることない?子供の頃のことって忘れやすいでしょ」
イリスは笑顔を浮かべていたが、わずかに悲しみが滲んでいた。
「引っ越す前には確かにすごく仲の良い友達がいたよ。でも名前はちょっとあやふやだな」
「へえ?それで、どうやって知り合ったの?」
「そうだな……確かしおりがきっかけだった気がする……」
瞬は突然その場に立ち止まった。遠い記憶が突然押し寄せてきた。
幼稚園の中。
「子供たち、遊びの時間だよ。みんなで遊ぼう」
「高橋くん、漫画ばかり読まないで、他の子たちと一緒に遊ぼう」
「いいや、小美先生。俺はここで読んでるから大丈夫です」
「わかったわ。でもあんまり遠くに行かないでね。私は他の子たちを見てくるから」
瞬は隅っこに座り、静かに漫画を読んでいた。
「小伊、遊びたくなかったら、高橋くんの隣に座ってなさい」
ピンクの髪の女の子がゆっくりと歩いてきた。
瞬が顔を上げると、女の子の青い瞳は澄んだブルーサファイアのようで、この世にこれほど純粋なものはないと思えた。
女の子は瞬の隣に座り、両手で膝を抱え、うつむいていた。
瞬の耳の根が少し熱くなった。
漫画を読んでいた手も思わず微かに震えた。
「パッ」と、しおりが本から滑り落ち、床に落ちた。
女の子が顔を上げ、落ちたしおりを見た。
「こ……これ、何?」
「しおりだよ。うっかり挟み忘れてたんだ」
瞬は照れくさそうに頭をかいた。
女の子は床のしおりを見ていた。淡い青色で、下には青い房がついている。
女の子はそんなものを見たことがなかった。
「しおりって何に使うの?」
「読んでる場所を印しておくための道具だよ。これ、好き?」
「うん。」
女の子はうなずいた。
瞬はポケットから模様入りのしおりを何枚か取り出した。
「見て、こっちのほうがもっといいのがいっぱいあるよ」
「わあ!」
女の子はさらに近づき、青い瞳が輝きを放った。
「選んでいいよ。お前のものだ」
「本当?」
女の子が笑った。
「本当だよ」
女の子はしばらく見比べて、最初の青いしおりを選んだ。
「普通のでいいよ」
瞬は他のしおりをしまった。
「なんで他の子たちと遊ばないの?」
女の子はまたうつむき、手をぎゅっと握りしめた。
「だって……友達がいないから……」
「じゃあ、俺が友達になってやるよ。俺も友達いないし」
瞬は漫画本を置き、女の子を見て、右手を差し出した。
女の子は顔を上げ、さっきまでこぼれていた涙をこっそりと拭った。そして瞬の手のひらに手を重ねた。
「うん!私、小伊って言うの」
「俺は高橋瞬だ」
「高橋くん?」
瞬は我に返った。
「ああ、思い出した。あの子、小伊って言うんだ」
「やっぱり覚えてたんだね」
イリスは瞬の肩に頭を寄せた。
「イリスさん……」
「私が小伊だよ、瞬」
イリスは瞬を抱きしめた。
「もう忘れちゃったのかと思ってた……でも私、絶対に忘れない!絶対に!」
「ごめん、気づけなかったよ」
「いいの、もう何年も経ってるし、大人になったらわからないよ。小伊なんて、ただの子供の頃のあだ名だしね」
「まさかお前もこの学校に来てるなんてな」
「運命が私たちを再会させてくれたんだよ。新入生の名簿でお前の名前を見た時、私もすごく驚いた」
「でも……今の状況は表向きほど穏やかじゃない」
「どういうこと?」
「学校が裏で何かを企んでる。大きな混乱が起きるはずだ」
瞬の真剣な表情に、イリスも不安そうな顔をした。
「学校がどうして混乱を起こすの?それに、どうしてそれを知ってるの?」
「学校の目的まではわからない。もしかしたら俺たちを試そうとしてるのかもしれない。どうやって知ったかって言うと、それは生徒会長のおかげだ」
「瞬、生徒会長と知り合いなの?」
「少し話をしたことがある。でもイリス、今確認したいのはお前の任務が何かってことだ」
「任務?何それ?」
「悪い、認めるけど、お前とお兄さんの話を盗み聞きしたんだ。学校は一部の生徒に任務を配ってる。その情報を把握しておく必要がある」
「はあ……わかったよ。私の任務は、できるだけ多くのクラスメイトと友達になって話すこと」
「え?そんな……」
「そういうこと。信じられなければ学校から送られたメールを見せてもいいよ」
「瞬、もしこの任務が実力を隠すって任務と同じで、複数の人に配られてるんだとしたら……」
(つまり学校は意図的に平和で友好的な環境を作り出そうとしている。それは橘先輩の忠告とは逆のことだ)
「そうすると、多くの人がこの偽りの平和に浸ってしまう。その時に学校が打撃を与えれば、大きなダメージになる」
(その通りだ。これが学校の目的の一つに違いない)
「小伊、今わかってるのは、学校が一部の生徒に“自分の本当の実力を隠せ”って任務を与えていることと、もう一部はお前みたいな任務で、残りは俺みたいに何もないってことだ。そして学校はこの安楽な環境を作り出そうとしている。でも学校の意図はそれだけじゃない。これらはみんな、俺たちを打撃するための準備なんだ」
「じゃあ……私たちはどうすればいいの?」
「この学校の仕掛けに備えるしかない」
翌日。
「わかった。じゃあイリスさんも一緒に準備するんだね。それにしても、まさか二人が幼なじみだったなんてね」
夏恋は右手で頬杖をつき、左手にペンを持って紙にぐるぐると丸を描いていた。
「うん、そう。つまり今は三人で同盟ってことだね」
「それで、これから何をすればいいの?」
イリスは瞬の机に手をついた。
「もちろん学校のいわゆる“打撃”を突き止めることだ。つまり次の行動を見つけること」
「なんか学校に反抗してるみたいな感じがする」
「これは正当防衛だよ。学校が何か仕掛けようとしてるなら、それに対する対策を考える。少なくとも学校の罠に引っかからないようにね」
夏恋は左手を止めた。
「やっぱり他のクラスの情報も必要だと思う。学校はクラス間の競争を仕掛けようとしてるかもしれない」
「それも注意すべき点だね」
「大きなことはキャンパスウォールで確認すればいいよ」
イリスが笑った。
「え?この学校ってキャンパスウォールに掲示板があるの?」
「バカね、キャンパスウォールは仮想のものよ。生徒が自主的に運営してて、匿名で投稿できるんだ。告白なんかもよく載ってるよ」
「ただのゴシップの巣窟じゃないか……いてっ」
夏恋が瞬の背中を叩いた。
「それだけじゃないんだから。いろんな情報が載ってるの。ほとんど日常的な情報ばかりだけど、それでも役に立つ情報を集めることもできるんだよ」
「そうなんだ。見てみるよ」
イリスはスマホを取り出し、SNSを開いた。
「これがキャンパスウォールか……見てみるよ」
「2Aの×××に告白、彼すごくかっこいい」
「3Bの担任と生徒が恋愛してるって噂、知ってる人いる?」
「軽音部がメンバー募集してます。入りたい人は友達追加してください」
「1Aの九条四郎の友達誰か知ってる?友達になりたいんだけど、彼の魔法すごくかっこいいんだよね」
「九条四郎?ここに彼の魔法がすごいって書いてある」
「今はA班の注目の的らしいよ。訓練場を丸ごと爆破したんで有名になったんだ」
(やっぱりSNSもチェックしないとダメだな。そういう情報は知らなかった)
「ただ訓練場を爆破したくらいで何がすごいんだ。お前なら学校全体を吹き飛ばすなんて朝飯前だ」
白夜は窓辺から降りて、瞬の机の上に座った。
「A班にはもっと強い奴らが実力を隠してるはずだ」
「じゃあ、私が他のクラスの情報を集めてくる」
イリスが言った。
昼休みの校庭。
瞬と夏恋は教室の方へ歩いていた。
「お前、昔イリスさんとどんな関係だったんだ?」
夏恋がニヤニヤしながら聞いた。
「せいぜい幼なじみってとこだよ」
瞬は首を振った。
「もう十年も会ってなかったんだ。彼女は幼稚園の時の友達でしかないし、まさかこんなに覚えてるなんて思わなかったよ」
夏恋は瞬の肩を叩いた。
「彼女がお前のこと好きだって思わない?普通、誰が十年も一人の人間を覚えてるもんだよ?」
「そんなことないよ。変なこと言わないでくれ」
瞬は顔をそらした。
「お前のことはもう知ってるんだ。証拠もここにある。もし学年中に知られたくなかったら、おとなしく金を出せ」
三人の長身の女子生徒が、紫色のショートヘアの女子生徒を壁際に追い詰めていた。
「お願い、誰にも言わないで……」
その子は泣きそうな声で懇願した。
真ん中の女子生徒がその子の腹を拳で殴った。
「おい、あっちで何やってるんだ?」
瞬が夏恋の袖を引っ張った。
「あの三人、イジメてるみたいだ」
瞬と夏恋は急いで走っていった。
「あ……あなたたちにお金をあげるから……」
その子が財布を取り出した。
「おい!お前たち、やめろ!」
三人の女子生徒が振り返った。真ん中の女子生徒が眉をひそめた。
「あんた誰?関係ないだろ、余計なことに首を突っ込むな」
「イジメはダメだ。見て見ぬふりはできない」
「あんた誰だと思ってるんだよ?どうする、喧嘩売ってるのか?」
「校則で喧嘩は禁止されてる」
「ははは、校則は魔法を使った喧嘩を禁止してるだけで、素手の喧嘩は禁止してないんだよ」
真ん中の女子生徒はそう言い終わると、すぐに飛びかかってきた。
夏恋は後ろに微かに下がり、構えた。
女子生徒が右にフェイントを入れ、右拳を夏恋に打ち込んだ。
夏恋が右に身をひるがえし、左手で相手の右拳を掴み、そのまま勢いよく右に投げ飛ばした。女子生徒は数歩よろめいてからようやく立ち止まった。
「お前、力強いな。二人とも行け!」
残りの二人の女子生徒は目を合わせ、左右から同時に飛びかかってきた。
二人は夏恋の下段を狙って攻撃してきた。夏恋は危険を察知して左に跳びのいた。
二人の攻撃は空を切った。
最初に攻撃してきた女子生徒が再び突進し、足を払ってきた。
夏恋は飛び上がってかわし、そのままかかと落としを女子生徒の胸に決めた。女子生徒は倒れて起き上がれなくなった。
残りの二人が両側から襲いかかった。
夏恋は左右の手でそれぞれ攻撃を防ぎ、さらに飛び蹴りで右の女子生徒を蹴り飛ばした。振り返りざま、アッパーカットを女子生徒の顎に決め、さらに手刀で腹を打った。これで三人全員がダウンした。
(風祭さん、体術めっちゃ強いじゃん。だから俺のこと殴る時もこんなに痛いのか)
「お前たち、俺の相手にはならない。潔く負けを認めろ」
三人の女子生徒がゆっくりと立ち上がった。
「白雪澪!お前の秘密、全校中にバラしてやるからな!」
先頭の女子生徒がそう叫び、他の二人を連れて走り去った。
壁際の少女は力なくその場に崩れ落ち、泣き出した。
夏恋は駆け寄って少女を起こした。
「大丈夫?もうあいつらは追い払ったよ」
「私の秘密、みんなにバラされる……あんたのせいだよ。お金を渡してればよかったのに、なんでわざわざ助けに来たのよ!」
少女は泣きながら言った。
「え?ご……ごめん。ただイジメられてるのを見て、そこまで考えが及ばなかったんだ。泣かないでくれよ……」
「あんたに何がわかるの!」
少女が突然叫び、夏恋の手を振り払って走り去った。
「おい!待って!走らないで!」
少女は速く走り、すぐに校舎の中に消えていった。
「どうしよう、高橋。私、おせっかいをしすぎたんじゃないか……」
(秘密……どうやらあの三人の女子がそれを知ってて、脅迫してたみたいだな)
「いや、あいつらが彼女をイジメてたのは事実だ。お前が助けたのは間違いじゃない」




