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バウムクーヘンという洋菓子について、俺は前々からある種の疑念、いや、サイコパス性とでも呼ぶべきものを感じている。
結婚式などの慶事で長寿や繁栄の象徴として引き合いに出されることが多いが、年輪とは、樹木が過酷な冬の寒さに耐え抜いた生存競争の記録であり傷跡だ。
それをわざわざ輪切りにして断面を晒し、お祝い事の象徴です、と笑顔で貪る。
それは自然界に対する、人類の極めて傲慢な捕食者としての振る舞いではないだろうか。
「……なあ、國木田。お前、さっきから私の持ってきたケーキを前にして哲学的な顔で見てないか?」
旧茶室の畳の上で、学園の王子様こと、剣道部主将の剱嵜さんが不満げに口を尖らせた。
彼女の目の前には、車のタイヤくらいあるのではないかと思えるほど巨大な、特大のバウムクーヘンが置かれている。
「俺はただ、苦労の結晶である年輪をスライスして食べるという行為の倫理的妥当性について思考を巡らせていただけだよ」
「お前はお菓子をなんだと思ってるんだ……もっと純粋に、ただの『美味しい糖分の塊』として愛せないのか。バウムクーヘンが泣くぞ」
「バウムクーヘンは泣かないよ。泣く器官がないからね。で、今日は一体何の騒ぎなの? そんなホールサイズの丸太を持ち込んで」
俺がそう尋ねると、剱嵜さんは待っていましたとばかりにバンッと畳の上に自分のスマホを叩きつけるように置いた。
「これを見ろ!」
画面には、彼女がひっそりと運営しているスイーツ紹介用の裏アカウント『@Rin_Sweet』のプロフィールが表示されている。そして、そのフォロワー数の欄には、燦然と『100,000』という数字が輝いていた。
「……10万?」
「そう! 10万! 記念すべき10万フォロワー突破だ! 褒めろ、称えろ、そして一緒に喜べ!」
彼女は歓喜のあまりバウムクーヘンを持ち上げると、その中心にある空洞から、望遠鏡のように俺の顔を覗き込んできた。
穴の向こうで、切れ長の整った瞳がキラキラと光を放っている。ただでさえ顔が良いのに、円形のフレームで切り取られることで、無駄に絵画のような構図になってしまっている。
「……あのさ、バウムクーヘンの穴から覗かれると、すごく返答に困るんだけど。ドーナツでやるやつじゃない?」
「ドーナツも食べたいのか!? 欲張りさんだなぁ」
「言ってないよ!? それにしても10万人か。地方の小都市の人口くらいいるね。『スイーツ市長』とでも名乗ったら?」
「もっとこう、インフルエンサーとしての威厳というか、カリスマ性みたいな表現はないのか!」
「じゃあ、スイーツ教の教祖。10万人の信徒を抱える教祖様が、今、放課後の旧校舎の床の上で、ヨレヨレの剣道着姿で丸太の穴からこっちを覗いてるわけだ」
「……その言い方だと、私がものすごく残念な生き物みたいに聞こえるんだが」
「事実じゃないか。10万人って言われてもピンとこないけど、例えばその10万人が全員横一列に並んで手を繋いだら、どこからどこまで届くと思う?」
俺の問いに、剱嵜さんはバウムクーヘンから顔を離し、少し真面目な顔で考え込んだ。
「……計算したことないけど、隣の県くらいまでは行くんじゃないか?」
「だよね。その隣の県まで続く人たちは、君がこっそりひっそり、ここでスイーツを食べている姿を知らないんだ。滑稽だと思わない?」
「滑稽とか言うな! それは……ネット社会における『情報の取捨選択』だ。美しい面だけを切り取って提供する、高度なプロ意識の賜物だよ!」
「なるほどね。それで、プロ意識の塊である『@Rin_Sweet』さんは、この巨大な年輪をどうやって解体するつもりなの? 年輪に沿って一枚ずつ地道に剥がしていく派? それとも、垂直にナイフを入れて断層ごと破壊する派?」
「バウムクーヘンの食べ方で派閥を作るな。普通に放射状に切るに決まってるだろ」
「剥がして食べるのも悪くないと思うけどね。あの、薄い層がペリペリと剥がれていく感触は、梱包材のプチプチを潰すのに似たカタルシスがあると思うんだ」
「お前のスイーツに対する視点は、常に作業的だな……まあいい。今日は特別だ。この10万人という数字は、私一人の力で成し遂げたわけじゃないからな」
剱嵜さんは備え付けのプラスチックナイフを手に取り、バウムクーヘンに慎重に刃を入れた。
「……俺もフォローした方がいい?」
「いや、お前はいい。『難しい方の漢字持ち友達』には、裏側を見られすぎているからな。今更フォロワーになられても調子が狂う」
「俺って友達なの……?」
俺はただ、勝手に部室で甘いものを食べているのを黙認しているだけの、しがない茶道部員のはずだ。
だが、剱嵜さんは悲しそうな顔をして手を止めた。
「えっ……ち、違うの?」
上ずった女子の声に戻ってそう言う。
うるうるとした上目遣いで俺を見てくるため、なんだかとてつもない罪悪感が襲ってくる
「まっ、まぁ……そういうことにしておくよ」
俺がそう言うと、彼女は安心しきった様子でにへらと笑った。
「良かったぁ……ま、キミがここで定期的にお茶を点てて、私の疲労を回復させてくれたからこそ、私は王子様の顔を保ちつつ、裏でスイーツの布教活動を続けられたんだ。だから、これはキミへの感謝の印でもある」
「なるほどね」
俺は小さくため息をつき、茶釜のお湯を柄杓で掬った。
シャカシャカと茶筅を振るう。今日はバウムクーヘンのカロリーと甘さに備えて、少し渋みを立たせた抹茶にする必要がある。
彼女はナイフと格闘しながらバウムクーヘンと向き合っている。互いの視線は交差しない。
でも、この並行線のような時間が、今の俺たちにはちょうどよかった。
「……ほら、お茶が入ったよ」
「ん。……あー、やっぱり國木田の淹れるお茶の匂い、落ち着く……」
お茶を出された途端、剱嵜さんの背筋を保っていた糸がプツンと切れ姿勢がぐにゃりと崩れた。王子様のオーラは完全に消え去り、美少女然とした女子になりきってしまう。
そして、いつもの溶け顔に戻りながら、彼女は切り分けたバウムクーヘンを紙皿に載せて、俺の方へと押しやってきた。
「……ほら、食べて。今日のは特別に甘くて美味しいはずだから。高級店のお取り寄せだよぉ?」
俺は差し出された紙皿を受け取り、自分の前に置いた。そして、ふと違和感を覚える。
俺の皿に乗っているバウムクーヘンの厚みと、彼女が自分用に確保したバウムクーヘンの厚み。
「……ねえ、剱嵜さん。これ、明らかに俺の分の方が分厚くない?」
俺の指摘に、剱嵜さんの肩がビクッと跳ねた。
彼女は俺と目を合わせようとせず、スッと明後日の方向へと顔を背けた。その耳の端が、ほんのりと赤く染まっているのが見える。
「っ……! 気のせいだって! ナイフを入れる時に地球の自転によって物理的な誤差が生じただけだって」
「地球の自転って……君の方が甘いもの好きなのに、俺に多く配分するなんて珍しいね」
「……うるさい。いいから食べて。私からのほんの感謝の気持ちだって言ってるじゃん……!」
顔を真っ赤にしてそっぽを向く彼女を見て、俺はそれ以上追及するのをやめた。これ以上いじると、彼女が爆発してせっかくのバウムクーヘンが粉砕されかねない。
「……いただきます」
渋めの抹茶を一口飲み、ほんの少しだけ大きめに切り分けられたバウムクーヘンを口に運ぶ。
しっとりとした生地と、外側にコーティングされた砂糖のシャリシャリとした食感。確かにそれは、いつもより少しだけ、甘みが強いような気がした。
「……美味しい?」
そっぽを向いたまま、剱嵜さんが小さな声で尋ねてくる。
「うん。年輪を貪るのも、たまには悪くないね」
俺の答えを聞いて、彼女は「素直じゃないな」と小さく笑い、自分の分のバウムクーヘンに口をつけた。
古い茶室に、シュンシュンと湯が沸く音と、静かな咀嚼音が響く。
10万人のフォロワーが知らない、10万分の1の秘密のお茶会は、今日も平和に過ぎていく。




