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延長コードという存在は、文明の脆弱性を象徴している。コンセントという不動の権威から、電気という恩恵を数メートルだけ無理やり引き延ばす行為。そこには本来なら届かない場所に手を伸ばすという人間の傲慢さと、コードの長さに縛られるという不自由さが同居している。
壁に繋がっている白い線が、今日の俺たちの放課後を支配していた。
「……國木田。ホットプレートの温度、これで合ってるのか? ダイヤルが『強』を指しているが、これはもはや『決戦』を意味する温度なんじゃないか?」
剣道着姿で髪の毛を後ろで一つ結びにした剱嵜さんが、ホットプレートの黒い鉄板を真剣な面持ちで見つめている。
「落ち着いてよ、剱嵜さん。ただの予熱だよ。この広大な黒い大地を均一に温めるには、それなりの覚悟と時間が必要なんだよ」
「覚悟……たかがホットケーキを焼くのに、そんな大層なものが必要なのか?」
「たかが、なんて言わない方がいい。これから焼くのは、君が愛してやまないスフレパンケーキじゃなくて、俺が愛する質量のあるホットケーキなんだ」
俺はボウルの中で生地を混ぜながら、静かに宣言した。どうやら彼女はパンケーキといえばスフレパンケーキというこだわりがあるらしく、昔ながらのホットケーキはあまり好きではないらしい。
「……スフレのふわしゅわ感こそが、現代スイーツの到達点だと言っただろ。お前の言うホットケーキは、地層の研究用サンプルか何かか?」
「失礼な。ホットケーキは、日曜日の朝の静寂とセットでなくてはならないものだよ?」
俺はホットプレートの表面に薄く油を引くと、高い位置から生地を落とした。
じゅわっ、という心地よい音が広大な鉄板に響く。ホットプレート特有の、どこか大らかな熱が生地を包み込んでいき、甘い匂いが部屋中に立ち込める。
「……いい匂いだ。卑怯なほどに」
剱嵜さんが、お腹を鳴らしながら畳の上に身を乗り出してきた。王子様の凛々しさは、すでにホットプレートの熱で溶け始めている。
生地の表面に、プツプツと小さな気泡が現れ始めた。俺はフライ返しを差し込み、手首の角度を計算して一気に裏返す。
「おお……!」
剱嵜さんの瞳が輝く。そこには、ホットプレートという広大な舞台で、完璧なきつね色に焼き上がった黄金の円盤が鎮座していた。
「……ほら、できたよ。バターは多めに、シロップは決壊するくらいかけるのが、俺流の『和の精神』だよ」
俺がたっぷりとメープルシロップを回しかけると、熱で溶けたバターと混ざり合い、きつね色の斜面をゆっくりと滑り落ちていく。その光景を見つめる剱嵜さんの喉が、ごくりと鳴っ
た。
「どこが和なんだ……あー、でも、美味そうだ。お前の焼いたこの分厚い質量、嫌いじゃないぞ」
彼女が焼きたてのホットケーキにフォークを突き立てようとした、その時だった。
「……にゃあ」
引き戸の隙間から、細く、控えめな鳴き声が聞こえた。
俺と剱嵜さんが同時に顔を向ける。
そこには、少しだけ開いた窓の隙間から、一匹の茶トラの野良猫が顔を覗かせていた。
どうやら、ホットプレートが放つ甘い匂いに釣られて、ここまで遠征してきたらしい。
「……猫だ」
「……みたいだね」
「國木田。こいつ、私のホットケーキを狙っている。その目が糖分に飢えている」
剱嵜さんが、自分の皿を抱え込むようにして野良猫を警戒した。
「野良猫にホットケーキは刺激が強すぎるよ……でも、せっかくだし、名前くらい付けてあげたら? また来るかもしれないし」
「名前? そうだな……この毛色、焼く前のホットケーキの生地の色に似ているな」
剱嵜さんは野良猫をじっと見つめ、人差し指を顎に当てて考え込んだ。
「……よし、『バニラエッセンス』だ」
「長くない? 呼ぶ時に舌を噛みそうだけど」
「じゃあ、略して『バニラ』。あるいは『エッセンス』」
「『トラ』でいいんじゃないかな、茶トラだし」
「平凡すぎる!」
剱嵜さんは憤慨しながらも、エッセンスに向かって「にゃ~」と可愛らしい声を出しながら指を差し出した。
すると、エッセンスは剱嵜さんに近づき、ぺろりと手をなめた。
「……なついたな。チョロい奴だ」
剱嵜さんの目尻が下がり、口元がだらしなく緩む。エッセンスは彼女の膝元に寄り添い、そのまま丸くなって寝転んだ。
彼女は猫の柔らかな毛並みを優しく撫でながら、完全に「ふにゃふにゃ」の顔になっている。その手つきは竹刀を握る時とは違い、ひどく甘やかで丁寧だ。
「……似た者同士だね、君たち」
「何がだ?」
「さあね。……お茶、入ったよ。冷めないうちに飲んで」
俺は少し渋めの抹茶を彼女の前に滑らせた。
しかし、剱嵜さんは抹茶にもホットケーキにも手を伸ばさない。いや、伸ばせないのだ。膝の上で完全に無防備な寝息を立て始めたエッセンスのせいで、彼女は身動きが取れなくなっていた。
「……國木田ぁ」
語尾が間延びした、特有の甘えたような声が部屋に響く。
「猫が退くまで待つしかないね。それ、君が重力として受け入れた結果だから」
「……違う。これは猫という名の引力だ。でも、私は今猛烈に糖分を欲している……。頼む、少しだけでいいから、それを私の口に運んでくれないか?」
彼女は膝の上のエッセンスを起こさないよう、首だけをこちらに向けて上目遣いで訴えかけてきた。王子様モードの凛々しさは欠片もなく、そこにあるのはただの限界を迎えた甘党女子の顔だ。
「……自分で切って食べればいいんじゃない?」
「動いたらこの絶妙なバランスが崩れるだろ! いいから、一切れでいい。私を助けると思って……っ」
俺は小さくため息をつき、茶筅を置いて彼女の隣へと移動した。
向かい合うことはないが、彼女の肩から微かに汗とシャンプーが混ざったような匂いが漂ってくる距離感。
俺はフォークとナイフを手に取り、シロップがたっぷり染み込んだ部分を小さく切り分けた。
「……ほら、口を開けて」
剱嵜さんは少しだけ躊躇する素振りを見せた後、観念したようにパクリとそれを口に含んだ。
咀嚼するたびに、彼女の頬が幸せそうに緩んでいく。
それと同時にヘアゴムを取り払い、髪の毛をおろす。
「……んんっ、美味い。キミの焼いたホットケーキ、最高……大好き……」
弛緩したのは表情に限らず、声帯もだったようだ。女子特有の甲高い声に変わって髪の毛をおろした彼女は、いよいよただの剣道部の美少女だ。王子様の見る影もないくらいふにゃふにゃだ。
「それはどうも。今日の稽古も相当ハードだったみたいだね」
「……わかる?」
「なんとなく」
彼女は少しだけ顔を赤くしてそっぽを向いた。そして、空っぽのままの口を微かに開けて待機している。
「……ねえ、國木田」
「何?」
「……もう一切れ、頂戴?」
俺は言葉を返す代わりに、静かにもう一切れのホットケーキを切り分け、彼女の口へと運んだ。ホットプレートの上では、予熱で温まったシロップが黄金色の湖を作っていた。




