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隠れ家という言葉には、抗いがたい魔力が宿っている。
人は誰しも、世界の中心から数センチだけズレた場所に、自分だけの領土を確保したいという根源的な欲求を抱えているものだ。
それは子供の頃の秘密基地作りから連綿と続く生業かもしれない。
だが、その領土が他者に侵食された瞬間、そこは聖域ではなく、ただの場所へと成り下がってしまう。
目の前では、学園の女子たちの初恋を一手に引き受けているはずの王子様が、タピオカの苦味から立ち直り、事前にコンビニで買ってきていたと思しき盛り盛りクリームあんみつと対峙している。
「……なぁ、國木田。あんみつにおける求肥の立ち位置って、ちょっと絶妙だと思わないか?」
剱嵜さんが、スプーンの先でピンク色の求肥をぷにぷにと突きながら言った。
「絶妙?」
「主役になれるポテンシャルがあるのに、あえて一歩引いて、寒天やあんこの引き立て役に徹している。あの奥ゆかしさ。あれこそが、現代社会に足りない『和の精神』の具現化だと思うんだ」
「……それは考えすぎだと思うよ、剱嵜さん。求肥はただ、そこにいて、甘くて、柔らかいだけだ。それ以上に重い責任を負わされたら、求肥だって困るだろうし」
「求肥の気持ちに寄り添いすぎだろ。あ、美味しい。この求肥、私の疲れを吸い取ってくれる……」
剱嵜さんが溶けそうな顔で求肥を口に運ぶ。その瞬間、彼女の背後にある見えない王子様オーラが、音を立てて霧散していくのがわかった。
その時だった。
廊下の遠くから、ギシッ、ギシッ、と複数の足音が近づいてくるのが聞こえた。
「……っ!」
俺と剱嵜さんの視線が、空中でぶつかる。
「……國木田。今の音、何?」
「……二足歩行の生物が複数、一定の目的を持ってこちらに近づいている音だね」
「そんな冷静な分析はいらない! ヤバい、剣道部の子たちかも!」
剱嵜さんが、手に持っていたスプーンをあんみつの中に落とした。
足音は確実に、この旧茶室を目指してきている。しかも、一つや二つじゃない。
「おい、本当にこの奥なのか?」
「ああ、主将の匂いがしたんだ! バニラと、あと……黒糖の匂いだ!」
引き戸の向こうから、聞き覚えのある剣道部員たちの声が漏れてくる。
「……主将を『匂い』で追跡するなんて、剣道部員は警察犬の訓練でも受けてるの?」
「感心してる場合じゃないって! どうしよう、この姿を見られたら、私の『孤高の王子様』ブランドが、あんみつと一緒に崩壊する!」
「ブランドって……ほら、君はあそこの屏風の裏にでも」
「ダメだよ! 机の上に茶碗が二つ出てるじゃん! 私が隠れても、國木田が誰かと密会してたのがバレる! ……こっち来て!」
剱嵜さんはあんみつの容器を抱えたまま、俺の制服の袖を強く引いた。向かった先は、茶道具をしまっておくための、畳半畳ほどの狭い物入れだった。
「ちょっ!? なんで俺まで!?」
俺の抗議も虚しく、彼女は俺を物入れの中に押し込み、自分もその狭い空間に滑り込んで、ピシャリと襖を閉めた。
直後、部室の引き戸が勢いよく開く音がした。
「主将! いらっしゃいますか!」
物入れの中は、完全な暗闇だった。そして、異常なまでに狭い。
俺の胸のすぐ数センチ前に、剱嵜さんの顔がある。彼女の息遣いが、俺の首筋に微かに当たる距離だ。古い木材と埃の匂いに混じって、彼女の髪から微かにシャンプーの香りと、あんみつの甘い匂いが漂ってくる。
そして、腕に大きな胸がぎゅっと押し当てられている。
(……近すぎるんだけど!?)
「……ねっ、ねえ、剱嵜さん」
俺は極力声を潜めて、目の前の気配に囁きかけた。
「しーっ! 聞こえちゃうから……!」
「そうだけど……その……当たってて……」
「我慢してよ。こっちだって、國木田の心音がうるさくて集中できないんだから……!」
「集中って何に?」
「あんみつの水平維持に決まってるでしょ。これ以上傾けたら、白玉が落下して大惨事になる」
「こんな密着状態で気にするのが、白玉の安否なの?」
俺たちのどうでもいい小声の論争のすぐ外で、剣道部員たちが部屋の中を歩き回っている。
「……誰もいないっすね」
「でも、机の上にお茶が二つ出てるぞ。それに、お湯も沸いてる」
部員たちの声が、襖のすぐ向こう側から聞こえた。
剱嵜さんの肩がビクッと大きく跳ねる。バランスを崩した彼女の体が前方に傾き、恐らく形がひしゃげているくらいに胸が押し当てられた。
柔らかい感触と、少し高くなった彼女の体温が伝わってくる。暗闇の中で、彼女がギュッと俺の制服の胸元を握りしめるのがわかった。
「……ヤバいっすよ、先輩。これ、もしかして……」
「ああ。旧校舎の『お茶会幽霊』の噂、マジだったんだ……! 出たばかりのお茶が二つ……俺たち、呪われるぞ!」
「ひっ……! 逃げましょう!」
ドタドタドタッ! という騒がしい足音とともに、彼らは嵐のように旧茶室から去っていった。
静寂が、再び戻ってくる。廊下の足音が完全に消えるのを確認してから、俺は小さく息を吐いた。
「……行ったみたいだよ、お茶会幽霊さん」
「……死ぬかと思った」
剱嵜さんが襖を開けると、夕暮れの光が物入れの中に差し込んできた。彼女の顔は、あんみつのサクランボよりも真っ赤に染まっている。
二人は無言のまま、もつれるようにして狭い物入れから這い出した。新鮮な空気を吸い込みながら、俺は少しだけ乱れた制服の襟を直す。
「というか、幽霊の噂なんてあったんだ」
「國木田のせいじゃない?」
「お、俺? まぁ確かに一人でここにいることが多いけど……」
「ま、そのおかげで助かったわけだけど……」
剱嵜さんはまだ赤い顔のまま、手に持っていたクリームあんみつの中から、最後の一つ残っていたピンク色の求肥をスプーンで掬い、俺の方へと差し出した。
「……あげるよ。私の、一番大事な求肥」
「……いいの?」
「秘密を共有した仲だし。それに……」
彼女は少し照れくさそうに視線を逸らし、口の中でモゴモゴと呟いた。
「……狭いとこで、その、ちょっとだけドキドキした代金、ってことで。そろそろ部活に戻らなきゃ。またね」
俺は差し出された求肥を、口に運ぶ。確かに、それは驚くほど甘くて、柔らかかった。




