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自然界において、警告色とは生存本能に直接訴えかける明確なシグナルだ。
ヤドクガエルやヒョウモンダコが身に纏う鮮やかな青やピンクは「私を食べると危険だ」という他者への強烈なメッセージとして機能している。
それなのに、現代のスイーツ界隈では、なぜかその警告色をふんだんに使った食べ物が『可愛い』『映える』という理由で持て囃されている。
人間の生存本能というものは、糖分と承認欲求という二つの甘い誘惑の前に、かくも容易く敗北してしまうものらしい。
そんなことを考えながら、俺はブレザーを脱いで制服のシャツの袖をまくり、電気コンロの上の茶釜を見つめていた。
視線の先、俺から少し離れた畳の上で、今日も黒髪の王子様がぐにゃりと溶けている。
学園の女子たちから黄色い悲鳴を浴びる剣道部主将、剱嵜さんだ。彼女の目の前には、プラスチックのケースに入った、まさにその警告色を体現したような物体が鎮座していた。
ピンク、水色、黄色。原色に近いマカロン生地の間に、これでもかというほど分厚いバタークリームが挟まっている。
トゥンカロンとかいう、太っちょのマカロンだそうだ。どうせなら和菓子を持ってくればいいのに、洋菓子を持ってくる辺りに彼女の気骨を感じる。
「……それは、どこから手を付ける正解が用意されている食べ物なの?」
俺は茶碗を温めながら、本から視線を上げずにぽつりと尋ねた。
剱嵜さんは畳に横たわったまま、トゥンカロンを睨みつけている。
「……わからない。私にもわからないんだ、國木田。これはスイーツというより、もはやジェンガに類するバランスゲームに近い感覚だ……」
低音の声が畳を這うように響く。今日の彼女は、どうやら生徒会の手伝いと体育の合同授業が重なったらしく、いつも以上にHPが削られているようだった。
「ハンバーガーのように上下から圧力をかけて圧縮するか、あるいは上から一段ずつ解体していくかの二択だと思うけど」
「バカ言え。こんな可愛らしいパステルカラーの層を破壊するなんて、芸術に対する冒涜だ。それに、圧縮したら中のクリームが逃げ場を失って爆発するだろう?」
「つまり、観賞用としてそのまま腐敗していく過程を楽しむ現代アートということでいいんだね?」
「たっ、食べるに決まってるだろ! 私は今、糖分を摂取しないと本当に死の淵を彷徨うことになるんだ……!」
剱嵜さんがむくりと起き上がり、スマホを取り出した。そして、慣れた手つきでトゥンカロンの周囲にフィルターで小さな造花を配置し、様々な角度から写真を撮り始める。
「……食べる前に儀式が必要みたいだね」
「儀式ではない。布教活動だ。この完璧なフォルムと色彩を、世界中の迷える子羊たちに共有する義務が私にはある」
「現代っ子だねぇ……」
「それは國木田が枯れてるだけだろう? 同じ年には思えないな」
「SNSとかやってるの?」
俺の質問に目がキランと光る。
「よっ、よくぞ聞いてくれた! 誰にも自慢できなくて! 見てくれるか!?」
「うっ、うん……」
剱嵜さんが見せてきたのはとあるSNSアカウント。@Rin_Sweetという名前のアカウントで、フォロワーは9万人もいた。
「これ……剱嵜さんなの?」
彼女はうんうんと何度も首を縦に振る。これもまた、彼女の隠された一面らしい。
熱心なスイーツインフルエンサーの顔がそこにあった。
「すっ、すごいね……」
そこまでして学校では甘いもの好きを隠さなければならないものだろうか、と疑問に思うも、彼女なりの理由があるんだろうと一人納得する。
数分間の厳かな撮影会の後、剱嵜さんはスマホを置き、意を決したように水色とピンクのトゥンカロンを両手で持ち上げた。
「……武士道とは、死ぬことと見つけたり」
剱嵜さんが静かに呟く。
「マカロンは武士の食べ物ではないと思うけど」
「これはマカロンじゃなくてトゥンカロンだ」
俺のツッコミを無視して、彼女はそう言うと大きく口を開け、トゥンカロンに食らいついた。
その瞬間、危惧していたクリームの爆発が見事に引き起こされた。
「むぐっ!?」
分厚いバタークリームが、マカロン生地の圧力に耐えきれずに四方八方へと押し出される。
その大半は彼女の唇を越え、鼻の頭や頬、さらには整った顎のラインにまでべったりと付着した。
「……んんっ、ふぁ、ふぁんがいふぁふぁい……(案外硬い……)」
口の周りをパステルカラーのクリームだらけにしながら、剱嵜さんが助けを求めるように俺の方を見た。
その顔は、泥遊びをして帰ってきた大型犬のようだった。学園の王子様の威厳は、現在マイナスを突破している。
俺は小さくため息をつき、茶道具の横に置いてあった除菌用のウェットティッシュを箱ごと畳の上を滑らせた。
「……顔、大惨事だよ」
「……っ!」
剱嵜さんは真っ赤になりながらウェットティッシュを引き抜き、慌てて顔を拭き始めた。しかし、焦れば焦るほどクリームは伸びて広がり、余計に悲惨なことになっていく。
「もう、嫌だ。なんでこんなに食べにくいの……でも美味しい……クリームが濃厚で、生地がサクサクで……でも顔がベタベタする……」
女の子の声に戻った剱嵜さんが泣き言と食レポが入り混じったカオスな呟きを漏らしながら、彼女は必死に顔を拭き続けている。
俺は柄杓で湯を掬い、あらかじめ抹茶を入れておいた茶碗に注いだ。茶筅を振るう。シャカシャカという規則正しい音が、古い茶室の空気を少しずつ整えていく。
トゥンカロンの強烈な甘さを中和するために、今日は少しだけ苦味を立たせた点て方にしよう。
「……お茶、入ったよ。クリームの油分を流すのにちょうどいいはずだから」
俺が茶碗を彼女の方へ押しやると、剱嵜さんはようやく顔を拭き終え、疲労困憊といった様子で茶碗を手に取った。
「……はぁぁ、ありがと。生き返る」
お茶を一口飲んだ瞬間、彼女の口から深いため息が漏れた。
そして、いつものように姿勢を保つ糸が切れ、ぐにゃりと畳の上に崩れ落ちる。
「……美味しい。苦味が……染み渡る……」
目尻が下がり、口元がだらしなく緩んだ「ふにゃふにゃ」の顔。さっきまでクリームと格闘していた悲壮感は消え去り、そこにはただ甘味と茶の渋みに溶けきった一人の女子高生がいた。
「それは良かった」
「……國木田のお茶がないと、私はあのトゥンカロンの甘さに殺されていたかもしれない……命の恩人だよぉ……」
「大げさだね。ただのお茶だよ」
「や、キミはわかってないんだって。この空間で、誰の目も気にせずに甘いものを食べて、お茶を飲む。これがどれだけ幸せなことか」
彼女はむにゃむにゃと口を動かし、目を閉じた。どうやら本格的に眠気の波が押し寄せてきたらしい。
「寝るの?」
「タイマーかけてるから。5分だけ」
「了解」
俺は再び本を開き、活字に目を落とす。互いの視線が交わることはない。
5分の間、聞こえたのは、時折剱嵜さんが寝返りを打つ衣擦れの音だけだった。
◆
その日の夜。
自室のベッドで横になりながら、俺はふと思い立ってスマホを取り出した。
SNSのアプリを開き、検索窓に「@Rin_Sweet」と打ち込む。
画面には、今日剱嵜さんが茶室で撮影していたあのトゥンカロンの写真がアップされていた。
『新作のトゥンカロン! 見た目はポップだけど、バタークリームのコクが深くて最高でした。見た目もお洒落 お茶の苦味と一緒に楽しむのが私流です♡』
そんな女子力全開のポエムとともに、完璧な構図で撮られた写真が並んでいる。
すでに数千のいいねがついており、コメント欄には「可愛い!」「どこのお店ですか?」といった絶賛の声が溢れていた。
俺は画面をスクロールしようとして、ふと指を止めた。
投稿された写真の、左上の隅。
花柄のフィルターでぼかされた背景の端っこに、見覚えのある白い布地が映り込んでいた。
どう見ても、俺の制服の袖だった。
「……詰めが甘いね。トゥンカロンみたいに」
俺は小さく呟き、スマホの画面をオフにした。
明日、彼女が茶室に現れたら、少しだけ苦言を呈する必要があるかもしれない。
もっとも、その時彼女がどんな顔をして言い訳をするのか、ほんの少しだけ楽しみになっている自分がいることも、また事実だった。




