1
歩くたびに、古い木張りの床が微かにきしむ音がする。
放課後の喧騒から完全に隔離された旧校舎1階の最奥に、俺しか部員のいない茶道部の部室はある。
引き戸に手をかけ、少しだけ力を入れて横にスライドさせる。カラカラという乾いた音が響き、埃っぽい空気の匂いが鼻先を掠めた。
中に入り、制服のブレザーを脱いでハンガーにかける。
その瞬間、俺はその場に凍りついた。
誰もいないはずの茶室に人がいたからだ。
手入れの行き届いたサラリとしたショートボブを後ろで一つ結びにした黒髪。切れ長の目と、中性的な整った顔立ち。
学園の王子様として女子生徒から絶大な人気を誇る剣道部主将、クラスメイトの剱嵜凛がそこにいた。
しかし、その姿は俺が知る王子様とはあまりにもかけ離れていた。
彼女は、汗を滲ませた紺色の剣道着を着用していた。道着の襟は少し着崩れ、袴も心なしかヨレている。
そして、最も衝撃的だったのは、大きなどら焼きを両手で持ち、口いっぱいに頬張っていた姿だった。
あんこが、彼女の唇の端から、今にも溢れそうになっている。
「……うわあああっ!?」
自分の声が茶室の天井に反射して、妙に大きく響く。
「んんんんんんんんん!?」
俺の声とほぼ同時に、剱嵜さんからも、押し殺したような、でも確実に「うわあああっ」という驚きの声が漏れた。
彼女は口にどら焼きを詰め込んだまま、彫像のように硬直している。
その目は驚きと恐怖、そして何より羞恥心に満ちて俺を睨みつけている。
俺はゆっくりと視線を彼女の口元から逸らした。
彼女の口元についたあんこ。そして、彼女の手に握られた、半分ほど食べかけのどら焼き。
よく見ると、彼女の剣道着の袴の上に、ボロボロとあんこと衣の欠片が落ちている。
「……あ、違う! これは、これは……栄養補給なんだ! けっ、稽古後の! 糖分補給の一環として……!」
剱嵜さんが、口の中のどら焼きを慌てて飲み込みながら、中性的なイケメンボイスで言い訳をしようとする。
しかし、焦れば焦るほど、彼女の声はイケメンのトーンから外れ、上ずって可愛らしい女子の声に変わっていく。
この人……声を作っていたのか!?
「……栄養補給にしては、少し……その……ボリュームが過ぎるように思えるけど」
「うっ、ううう、うるさい! これは私の……私のささやかな……癒やしの時間なんだ……っ!」
剱嵜さんが、毅然とした態度を取り戻しながらまたどら焼きを口に運んだ。今度は一口だけゆっくりと。
「……お茶、淹れようか?」
俺の質問に剱嵜さんはコクコクと頷いた。
知らない人ではないし、ただ隠れてどら焼きを食べていただけなので警戒する必要もない。
俺はゆっくりとお茶を点てる準備を始める。柄杓で湯を掬い、抹茶を入れておいた茶碗に注いだ。茶筅を振るう。シャカシャカというリズミカルな音が、お互いの動揺を少しだけ中和していく。
「……お茶、入ったよ。どら焼きに合うと思う」
茶碗を彼女の方に差し出すと、「ありがとう」とイケメンボイスで言い、お茶を口にした。
「……美味しい」
彼女は茶碗に口をつけ、ゆっくりと一口飲んだ。深く長い感嘆の息が漏れる。
次の瞬間、彼女の背筋をピンと伸ばしていた見えない糸がプツンと切れたように、姿勢がぐにゃりと崩れた。
彼女の目尻が限界まで下がり、口元がだらしなく緩む。
「うみゃぁ……」
さっきまでの凛々しい王子様の面影はどこにもなく、そこにはただの、甘いものに溶けきったふにゃふにゃの顔があった。
「それは良かった。けど……なんでここに?」
「今日は部活の朝練と昼練で一年生の指導をして、そのあと生徒会の連中に捕まってな。甘いものを摂取しないと死ぬんだ……國木田ぁ……見逃してくれないか……?」
彼女は畳の上で正座をしたままどら焼きを口に運んだ。
「大変だねぇ……前からここにこっそり来てたの?」
「いや、ちょっと前までは旧校舎の空き教室を使ってたんだが、最近カップルが入り浸るようになって行けなくなった」
「可哀想に……」
俺は自分の分の茶を淹れながら、適当に相槌を打つ。
彼女と向かい合って座ることはない。俺は茶道具の前に座り、彼女は少し離れた場所で寝転がっている。互いの視線は交差しない。それが、この空間の正しい使い方だ。
「……このどら焼きのあんこ、甘くて最高だ。お前の淹れたお茶の苦味と合わさって、細胞の隅々まで糖分が行き渡るのがわかる……夢心地だよ……」
「それは疲労困憊というより、単なる血糖値スパイクに近い感覚だと思うけど。眠気でしょ?」
「うるさい。今は現実を突きつけるな。私は今、どら焼きの妖精と対話しているんだ……」
剱嵜さんは目を閉じ、幸せそうにどら焼きを咀嚼し続ける。
ふと、剱嵜さんが口を開いた。
「ね、國木田、聞いてくれない?」
王子様然とした、低音ボイスではなく、甘く女の子のような話し方に驚く。
「な、何? っていうか声、いつもと違わない?」
「普段は作ってるからね。それより、私のご先祖ってさ、絶対に捻くれ者だと思うんだ。そう思わない?」
「遺伝って観点ならそうは思わないけど……」
「私の苗字の漢字、書ける?」
「難しい方の剱に難しい方の嵜だよね」
「そう! 難しい方に難しい方を重ねるのおかしくない? 普通一個までじゃん」
「あぁ……確かに。そういう意味だと、うちは捻くれてないかも。難しい方なのは國だけだし」
「あー、確かに。國木田も『難しい方持ち』だったね」
「ははっ、何それ」
「私達、『難しい方持ち友達』じゃない? 仲良くしようよ」
「え、嫌だ」
俺は平穏に過ごしたいだけ。学校で人気者の剱嵜さんと仲良くしているなんて知られたら、男子女子問わずに嫉妬の的になることは確実だ。故の拒否だ。
だが、剱嵜さんは意外な反応を見せた。
「え……」
剱嵜さんはどら焼きを咥えたまま目を見開いて固まる。まるで俺が意地悪をしているかのような雰囲気になり、罪悪感が芽生えてしまう。
「そっ、そんな顔しないでよ……」
「むぅ……なら、こんな顔」
剱嵜さんは一つ結びにしているヘアゴムと取って髪の毛をおろし、どら焼きをはむっと咥えて上目遣いで俺を見てきた。途端に王子様が美少女に変身する。イケメンでもあり、美少女でもあるなんて反則だ。
「……だめ?」
「う……い、いいけど」
俺は照れながら頷く。
「やった! ありがと!」
多分、この王子様は捻くれ者だ。そして、甘いもの好きで、案外女の子っぽい話し方をする。
どれも表の顔ではないことは明らかだ。
「……ここではそのキャラで行くの?」
「君は秘密を守ってくれるでしょ? 勘だけど」
「『学園の王子様の裏の顔は甘いもの好きの女の子でした』ってこと?」
「ふふっ、そういうこと。バラさないで……くれるよな?」
頑張って声を作った低音ボイスにおかしさを感じながら頷く。
「別に。静かにしてくれるならここは好きに使っていいよ」
「わかった。ありがとう」
俺は本を開き、活字に目を落とした。茶釜の湯が沸く音と、剱嵜さんがどら焼きを食べる微かな音だけが、古い茶室に静かに響いていた。
◆
翌日の昼休み。
俺は図書室に向かうため、渡り廊下を歩いていた。
前方からひときわ騒がしい集団が近づいてくる。中心にいるのは、昨日、茶室でどら焼きを頬張っていた剱嵜さんだった。
「剱嵜先輩、この前の試合、すっごくかっこよかったです!」
「凛くん、今度の日曜日、もし空いてたらデートしませんか!?」
女子生徒たちに取り囲まれながら、剱嵜さんは爽やかな笑顔を振りまいている。
「ああ、ありがとう。日曜は部活の遠征が入っていてね。すまない」
ハキハキとした少し低めの声。完璧な学園の王子様の顔。
俺は何事もないように、壁際を歩いて彼女たちの横を通り過ぎようとした。
すれ違う、ほんの一瞬。
剱嵜さんの視線が、俺の方を向いた。
切れ長の瞳が、かすかに疲労の色を帯びて揺れている。
『また茶室に行きたいんだが』
そんな無言のSOSが、視線を通して伝わってきたような気がした。
俺は歩みを止めることなく、ただ小さく、一度だけ瞬きをして応えた。
『今日の放課後も開けておくよ』
どうやら今日の放課後も、お湯を多めに沸かしておく必要があるらしい。




