37.それでも、守りたい
「レオン! お前、何をしている!」
真っ先に動いたのは、トムだった。
トムは人垣をかき分け、息子の腕を掴むと、そのまま強引に引き戻そうとした。
「放せよ! あの女は——」
「黙れ」
それは抑えられてはいたが、ひどく殺気だった声だった。
トムはレオンの耳元に顔を寄せ、怒鳴りつけたくなる衝動を抑えて囁いた。
「お前は今、何をしでかしたかわかってるのか」
レオンの口が、何かを言おうとして開く。
しかし、目の前のトムの形相を見た瞬間、その言葉は喉の奥に消えた。
セリーヌはそんなトムの横顔を目にした途端、体がこわばった。
抑えられてはいても、確かにそこにある怒気。青白く浮き上がったこめかみの血管。
あの頃と、何一つ変わらなかった。
(——大丈夫)
セリーヌは奥歯を噛み締め、震える手を強く握りしめた。
(もう、あの頃とは違う)
トムは素早く周囲を見回すと、努めて穏やかな表情を作り、深く一礼した。
「……申し訳ございません。溺愛していた妹が嫁いでしまってからというもの、どうにも精神的に不安定で……お見苦しいところをお見せしました」
しかし、そんなトムの言葉も虚しく、会場の空気はすでに変わっていた。
人々の視線が、ラリサとレオンを行き来する。
「フォークナー公爵家の御子息が、ああ言っているということは……」
「ラリサ殿下の証言は、やはり真実なのか……?」
「表沙汰にしない、とはどういう意味だ」
ざわめきが、波のように広がっていく。
「……クロエ」
窮地に立たされたトムが、セリーヌに強い視線を向けた。
その呼びかけには懇願と、そして命令が含まれていた。
「お前からも、はっきり言うんだ。自分はクロエ・フォークナーだと」
大聖堂が、静まり返る。
全員の視線が、セリーヌに集中した。
セリーヌは、無言でトムを見つめ返す。
(……落ち着いて。考えなければ)
うるさく騒ぐ心臓を無視して、目まぐるしく変わっていく状況を必死で整理する。
ラリサは先ほど、ロランが奴隷商人と思われる男も書類も全て始末したと言っていた。
それが事実であれば、セリーヌが偽物だという証拠は、今やロランが保管している奴隷売渡証書以外に存在しないということになる。
つまり、ここで嘘をつき通すことは、不可能ではない。
(でも)
ここで嘘をついたところで、騒ぎが大きくなってしまった以上、皇女の証言の真偽を確かめるための捜査が入るかもしれない。
もしそのせいで、ロランの大公としての権威が揺らぐような事実が発覚してしまったら?
それに、衆人環視のこの場で決着をつけなければ、ここにいる者たちは好き勝手に噂を広めるだろう。
セリーヌ自身、長い間そうして噂の的にされてきたからよく分かる。
噂がいかに人の口から口へと形を変え、やがて本人のあずかり知らぬところで独り歩きを始めるのかを。
そして、それがロランにとって致命的なスキャンダルにでもなってしまったら?
自分はきっと耐えられないだろうという確信が、セリーヌにはあった。
——ここで話すしかない。
権力の頂点に連なる者たちが居並ぶ、この場で。
(私のことは、どうなっても構わない)
するとその時、ロランの手がセリーヌの肩にそっと置かれた。
大きくて温かい手が、まるで「ずっとそばにいる」と言っているかのようだった。
「セリーヌ、君は何も——」
ロランの声が、耳元でかすかに震えた。
セリーヌはそんなロランの顔を、真っ直ぐに見つめて頷いた。
大丈夫です、と。
声には出さず、そう伝えるように。
肩に置かれたロランの手の力が、わずかにゆるんだ。その隙に、セリーヌは静かに前に出た。
(何があっても離れないと誓ったのに……それでも、やっぱり私はあなたを守りたい)
セリーヌは心の中でロランに謝ると、背筋を伸ばして前を見据えた。
「まずは、皆様にお詫び申し上げます」
セリーヌは静かに一歩前に進み出ると、居並ぶ王族と貴族たちに向かって、深く頭を下げた。
「私ごとで、おめでたい場を汚してしまい、誠に申し訳ございません」
そして顔を上げると、迷いのない瞳でラリサを見つめる。
「私がクロエ・フォークナーではないというラリサ殿下の告発は——事実です」
大聖堂が、どよめいた。
「待ちなさいっ!」
トムの声が、鋭く響いた。
その顔は、すでに蒼白になっている。
「お前まで何を言い出すんだ! お前はクロエだろう……? 私の愛する娘、クロエ・フォークナーだろう!」
動揺を隠しきれない声だった。
しかしセリーヌは、そんなトムの訴えをまるで気にすることなく続けた。
「私は、生まれてすぐ孤児院に捨てられました。母の名も、顔も、職業も、何ひとつ知りませんでした」
セリーヌの突然の告白を、誰もが固唾を飲んで見守っていた。
「それを恥だと思ったことは、一度もありません。なぜなら、私がどんな人間かを決めるのは——私を捨てた誰かではないからです」
すると突然、静寂の中、一つの笑い声が響いた。
「ほら見なさいよ!」
ラリサが、高らかに叫ぶ。
衛兵に抑えられながらも、その表情は歓喜に歪んでいた。
「全部私が正しかった! この女は卑しくも身分を偽って公爵家に入り込んだ、ドブネズミ以下の詐欺師なのよ!」
狂気の笑みが、あたりを支配する。
「このっ……!」
ロランが一歩踏み出した。
その顔には、抑えきれない怒りが滲んでいた。
「——それは違います」
しかし、先に反論したのはセリーヌだった。
その静かで力強い声に、ロランは思わず足を止めた。
セリーヌはラリサを真っ直ぐに見据えたまま、淡々と告げた。
「私は"自分を偽って公爵家に入り込んだ"のではありません。幼くして亡くなった公女様の代用品として——公爵に買われた、奴隷なのです」
「——っ!」
トムが、声にならない声を上げた。
その顔から、みるみる血の気が引いていく。
今にも倒れそうな様子で、杖に縋りついている。
「……奴隷?」
ルヴァニア国王の名代が、信じられないといった面持ちで声を上げた。
「まさか……各国共通の禁制である人身売買が、この帝国で行われているということですか?」
「そんなバカな」
皇帝の声が、素早く否定する。
「我が帝国でも当然厳しく取り締まっている。あり得ない話だ」
しかし、その言葉とは裏腹に、皇帝はどこか確信を持てないような表情を浮かべている。
セリーヌはそんな二人の声に、静かに答えた。
「……こちらをご覧ください」
そう言ってセリーヌはゆっくりと背を向けた。
指先が、少し震える。それでも、手は止まらなかった。
ドレスをわずかにずらし、背中を露わにする。
誰も、そんなセリーヌの行動を咎めなかった。
ただ、視線だけがその背に突き刺さる。
なぜなら——彼女が奴隷であることを示す焼印が、白い肌に痛々しくも、くっきりと刻まれていたからだ。
「セリーヌ……」
弱々しいロランの声が隣から聞こえる。
見なくてもわかった。
今、ロランがどんな顔をしているか。
(ごめんなさい、ロラン)
あたりが、静寂に包まれた。
誰かが、息を呑んだ。
そんな小さな音が、やけに大きく聞こえる。
人々の視線が、ラリサへと向いた。
それはもはや、皇女に向けるものではなかった。
違法な人身売買の被害者に向かって、詐欺師と罵り続けた女——その姿を、人々は静かに、冷たく見つめていたのだ。
そしてその視線は、じわじわと、トムへも向けられていった。
トムは唇を引き結び、動かなかった。
その目がかすかに揺れているが、いうべき言葉が、これ以上は出てこないようだった。
無理もない。フォークナー公爵家が人身売買に関わった上に、奴隷を亡くなった娘の代用品にしていた。
それが今、皇族と高位貴族の前で、公に晒されたのだ。
どう言い繕っても、もはや取り返しがつかない。
「お前は……」
トムの口から、かすれた声が漏れた。
その目には、怒りと、恐怖と——そして、どこか諦めに似た色が混じっていた。
「お前は、一体何をして……」
しかし、セリーヌはやはりそちらを見なかった。
セリーヌはドレスを素早く直すと、皇帝に向かって深く一礼した。
「一つ、誤解のないように申し上げておきたいことがございます」
その声は、衝撃的な告白の直後にしては、不釣り合いなほど穏やかだった。
「大公閣下は、私が公女様の偽物であることを、ご存じありませんでした」
「セリーヌ、それ以上は——」
ロランの声が、震えていた。
しかしセリーヌは、止まらなかった。
「全ての責任は、私を買い、公女の代わりとして大公家に送り込んだフォークナー公爵と——身分を偽り、大公閣下を欺いて輿入れした私にあります」
会場が、静かにセリーヌの言葉を聞いていた。
「……その告白が、何を意味するか。分かっているのか」
皇帝が、セリーヌに問いかける。
その声は静かだった。しかしその言葉の重さを、セリーヌは十分に理解していた。
平民が貴族を欺けば、死罪となる。それがこの帝国の絶対的な法だ。
「はい、全て理解しています」
それは、ずっと前から決めていたことだった。
ロランに全てを打ち明けたあの夜から——いつかこの言葉を言う日が来ると、覚悟していた。
胸の奥が、鈍く痛む。
ロランとの別離を思うと、どうしようもなく辛い。
しかし、セリーヌは真っ直ぐに背筋を伸ばしたまま、揺るぎない声で宣言した。
「私は自分の人生に責任を持ち——命を持って償います」
大聖堂に、長い沈黙が落ちた。




