36.崩れた仮面
天井から降り注ぐ光が、色とりどりのステンドグラスを透過し、聖堂内を幻想的に照らしている。石造りの床に、参列者たちの影が長く伸びていた。
大聖堂の中には皇族をはじめ、帝国内の高位貴族たち、そしてルヴァニア国王の名代が居並んでいた。
祭壇の前では、皇太子とルヴァニア王国の王女が、司祭に見守られながら結婚契約書にサインをしているところだった。
ペン先が羊皮紙の上を走る、かすかな音。それすらも、静まり返った大聖堂では、はっきりと聞こえた。
「神の御前において、この契約は聖なるものとなった。神がこの誓いを、永遠に祝福し給わんことを」
司祭の荘厳な声が、大聖堂の高い天井に反響する。
参列者たちは厳粛な空気の中、身じろぎひとつせず、その神聖な儀式を見守っていた。
その中に、セリーヌとロランの姿もある。
セリーヌはそっと瞼を伏せ、胸の内で静かに祈りを捧げていた。
(どうか、このまま無事に終わりますように)
ロランが、そっとセリーヌの手を握る。その手は温かく、力強い。
セリーヌは、その温もりに安心しながらも、どこか落ち着かない気持ちでいた。
(……ラリサ殿下は、本当に何かを仕掛けるつもりなのかしら)
セリーヌは式の間中、ラリサの動きに注意を払っていた。
しかし、特に変わった様子はない。
今も視線を上げると、祭壇の近くにラリサの姿が見える。
彼女は白地にゴールドの刺繍が施されたドレスに身を包み、穏やかな微笑みを浮かべている。
その姿はまるで清らかな春の女神のようで、セリーヌの命を狙うものの顔には、到底見えなかった。
新郎新婦が指輪を交換し、誓いのキスを交わす。
ふと、針の筵だった自分の結婚式を思い出し、セリーヌが思わず苦笑した、その時だった。
「——少しよろしいでしょうか」
凛とした、しかしどこか狂気を帯びた声が、祝福の声をかき消すように響いた。
その声は、祝福の空気を引き裂くように鋭かった。
参列者たちが、一斉にその声の主を見る。
ラリサだった。
その唇には、微笑みが浮かんでいる。だが、その目は笑っていない。
「皆様にお伝えしなければならないことがあります」
ラリサの声は、普段の優雅さを保ちながらも、どこか震えていた。
まるで、抑えきれない興奮が、声に滲み出ているかのように。
皇太子が、困惑した表情でラリサを見た。
新婦である王女も、戸惑いの色を隠せない。
だが、ラリサは構わず続けた。
「あの女性——クロエ・グランチェスターは、偽りの身分を名乗る詐欺師です」
そう言って祭壇の近くから一歩前に出ると、女神像を背にしたラリサは、セリーヌを指差した。
ラリサの言葉が大聖堂に響き渡るとともに、ざわめきが、波のように広がっていく。
「何だと?」
「詐欺師って……?」
あちこちから、驚きの声が上がる。
セリーヌは、息を呑んだ。
(……まさか)
毒殺か、誘拐か、あるいは直接的な暴力か——
これまでのラリサの行動から、そういった危険を警戒していた。
まさか、皇太子の結婚式という、重要な国家儀式の中で暴露してくるとは。
足が、震えた。
その時、ロランの手が、セリーヌの冷えた手を強く握った。
「大丈夫だ」
低く囁かれた声に、セリーヌは我に返る。
ロランの横顔を見ると、その表情は怒りに満ちていた。
「ラリサ、貴様……!」
ロランの低い声が、怒りに震えている。
だが、ラリサは構わず続けた。
「証拠があります」
ラリサは、従者に合図を送った。
しかし同時に、辺りに低い声が響いた。
「ラリサ。場をわきまえなさい。そのような話は後にしなさい」
皇帝だった。
声は穏やかであったが、しかしその奥には、これ以上続けることは許さないという、明確な意思が込められている。
ラリサの異様な空気に気圧されていた司祭が、場を仕切り直そうと口を開く。
しかし、その口から言葉が発せられることはなかった。
「……後?」
ラリサは、小さく呟いた。
「後って……いつ?」
ラリサの表情が、かすかに引き攣る。
何かをこらえるように、ポツリと疑問をこぼしたラリサの視線が皇帝の姿をとらえた瞬間、彼女の理性は完全に崩壊した。
「後って一体いつなのよっ!?」
ラリサの叫びが、大聖堂の空気を震わせる。
「お父様はいつもそう……いつもそうやって私の話を聞かない!」
ラリサは戸惑ったまま立ち尽くす従者から、肖像画をひったくった。
その動作は、到底普段の可憐な姿からは想像がつかないほど、荒々しいものだった。
ラリサが高々と掲げた肖像画に描かれていたのは、赤子の頃のクロエ・フォークナーだった。
アッシュブロンドの髪に、グレーの瞳。母親に抱かれた、小さな赤子の肖像画。
参列者たちが、掲げられた肖像画を凝視した。
「ご覧ください!」
ラリサの声が、さらに大きくなった。
「本物のクロエ・フォークナーは、母親に抱かれたこちらの赤子です。彼女の瞳はグレー。ですが、あの女の瞳はグリーンです!」
ラリサは、再びセリーヌを指差す。
「グレーの瞳を持つ赤子が、成長してグリーンの瞳になることなど、あり得ません!」
その言葉に、参列者たちのざわめきが、さらに大きくなった。
「確かに……瞳の色が違う……」
「これは、どういうことだ……」
人々の視線が、セリーヌに集中する。
セリーヌは、その視線に耐えながら、じっと立っていた。
(……どうしよう。どうすれば、この状況でロランを守れる)
その時。
「ふざけるな」
ロランの声が、冷たく響いた。
その声には、抑えきれない怒りが込められている。
ロランはセリーヌの手を力強く握ってから離し、一歩前に出た。
「瞳の色など、後からいくらでも描き変えられるだろう」
ロランはラリサを睨みつけながら、吐き捨てるように言った。
「くだらない……そんなものが、一体何の証拠になる」
その言葉に、参列者たちの空気が変わった。
「確かに……肖像画では……」
「証拠とは言えないだろうな」
人々のささやきが、あちこちから聞こえる。
他でもないロランからの反論に、ラリサの唇が微かに震えた。
一瞬、何かを堪えようとして——怒りに飲み込まれた。
「だって、他の証拠は全部あなたが始末したんじゃない!」
ラリサの声が、金切り声になった。
「バルドーとかいう男も! 書類も! 全部、全部あなたが……! こんな家畜以下の詐欺師なんかのためにっ!」
大聖堂が、静まり返った。
もはや、そこには人々が信じていた「女神」の姿はなかった。
優雅で、慈愛に満ち、誰に対しても穏やかな微笑みを向ける——そんな、完璧な皇女の姿は、どこにもなかった。
代わりにそこにいたのは、顔を歪め、金切り声を上げ、憎悪を剥き出しにした一人の女だった。
人々の視線が、ロランとラリサを行き来する。
だが、ロランは冷静だった。
「いくら皇女といえども」
ロランの声が、さらに低くなった。
その声には明確な怒りと、軽蔑が込められていた。
「この神聖な結婚式で、根拠のない中傷をすることは、決して許されない」
ロランの毅然とした態度に、ラリサの顔が怒りでますます赤く染まっていく。
すべてはロランのためなのに、なぜ分かってもらえないのか。
ラリサの手が、わずかに震えた。
周囲の空気が、明らかに変わっている。
皇太子夫妻への祝福の眼差しは、いつの間にか、ラリサへの疑惑と軽蔑の視線に変わっていた。
「兄上の結婚式で、何をしているのだ」
「まさかあのラリサ殿下が、このような方だったとは……」
ささやきが、ラリサの耳に届く。
ラリサには、なぜ誰も自分のことを信じてくれないのか、理解ができなかった。
誰よりも愛されている皇女であるはずの自分を、なぜ誰もが冷たい目で見つめてくるのか。
きっと何か誤解があるに違いないと、必死に声を上げようとする。
だがこれ以上言葉が見つからない。
そんなラリサの背後で、エリックが静かに口を開いた。
「ラリサ」
名前を呼んだ。ただそれだけ。
だがその一言には、兄としての叱責と、皇族としての警告が、両方込められていた。
エリックは、表情を変えずに立っている。
だが、その内心では、激しい動揺が渦巻いていた。
皇太子の結婚式という、これ以上ない公の場で。
証拠も不十分なまま、暴露に踏み切るとは。
まだ引き返せるところにいるのではないかと、妹に対する期待を捨てきれずにいたことを、エリックはようやく自覚した。
そして同時に、完全に壊れてしまった妹を目の当たりにし、胸が鈍く痛んだ。
それでも、エリックは冷静さを保った。
この場を、これ以上混乱させるわけにはいかないからだ。
「衛兵。皇女を控え室へ。……どうやら彼女は、体調が優れないようだ」
その言葉に、衛兵たちがラリサへと近づいていく。
そして抵抗するラリサを抑えようとしている時、新たな声が辺りに響いた。
「陛下」
それは、ルヴァニア国王の名代としてやってきた人物だった。
「王女の婚礼がこのような形になりましたこと、ルヴァニア王家として、然るべき説明と誠意ある対応を求めます」
淡々とした口調の中に、確かな怒りが見える。
皇帝が慎重に言葉を探していた、その時。
「表沙汰にしないと言ったのに、この嘘つき!」
怒りに満ちた声が、会場の後方から響いた。
参列者たちが、一斉に振り返る。
そこには、レオンが立っていた。
顔を真っ赤にし、ラリサを睨みつけている。
その目には、抑えきれない怒りと——狂気が宿っていた。
レオンは、人々をかき分けるようにして、ラリサに向かって歩み寄った。
「貴女は、表沙汰にしないと約束したじゃないか!」
レオンの声が辺りのざわめきをかき消したが、ラリサはその声に一瞥すら向けなかった。
「なのに……なのに、こんな場所で……!」
その言葉に、参列者たちがさらにざわついた。
「表沙汰にしない、とは……?」
「あの男は、フォークナー公爵家の……」
「では、本当なのか……?」
誰もが混乱し、情報を飲み込むので精一杯になっていた。
神聖なはずの結婚式は、もはや収拾のつかない混乱へと陥っていた。




