35.選んだ場所
結局その日、ステラに会うことを諦めたセリーヌは、ロランの執務室を訪ねることにした。
(エリック殿下に、きちんとお礼を伝えなくては)
真剣にルヴァニアへの同行を提案してくれた彼の厚意。
それに、きちんと応えなければならない。
セリーヌは深く息を吸うと、執務室の扉を軽くノックした。
「失礼いたします」
静かに扉を開けると、ロランはすぐに書類から顔を上げた。
「セリーヌ」
名を呼ぶ声が、柔らかい。
その声を聞くだけで、セリーヌの胸が温かくなる。
「お仕事中に申し訳ございません。あの……エリック殿下に、手紙を送ってもよろしいでしょうか」
セリーヌがそう切り出すと、ロランは少しだけ眉を上げた。
「エリックに?」
「はい。ルヴァニアへの同行を誘ってくださいましたから……お礼と、お断りを、きちんと伝えたくて」
その言葉を聞いた途端、ロランの表情が和らいだ。
セリーヌは、自らの意思で父親のいるルヴァニアではなく、ここにいることを選択したのだ。
その事実が、改めてロランの心を深い幸福で満たした。
「……そうか。もちろん、構わない」
承諾を得たセリーヌは、ロランの勧めで、その場で手紙をしたためた。
『直接お会いして、お話ししたいことがございます。殿下のご都合のよろしい時に、宮殿へ伺わせていただけないでしょうか』
書き終えたセリーヌは、ロランに手紙を差し出した。
「念の為、内容を確認していただいてもよろしいですか?」
「ああ」
ロランは軽く目を通すと、満足そうに頷いた。
「これなら、万が一誰かに読まれても問題ないだろう」
そう言うと、封筒に大公家の紋章が刻まれた封蝋を施した。
「ありがとうございます」
セリーヌが礼を述べると、ロランは立ち上がってセリーヌの元へと歩み寄った。
「お邪魔して申し訳ございませんでした」
「君が邪魔になることなど、あり得ない」
ロランの表情から、心の底からそう思っていることが伝わってくる。
そんなロランの気持ちに、セリーヌは顔を綻ばせた。
すると、ロランはセリーヌを当然のように腕の中へと閉じ込めてしまった。
「ロ、ロラン……?」
その呼びかけに答えはなく、代わりにセリーヌの髪がそっと耳にかけられる。
セリーヌは突然のことに戸惑い、心臓が早鐘を打った。
真っ赤に染まったセリーヌの耳元に顔を寄せると、ロランは低く囁いた。
「むしろ、もっと頻繁に来てほしいくらいだ」
その声は、甘く熱を帯びている。
セリーヌが心臓を忙しなく動かしていると、ロランの顔がゆっくりと近づいてきた。
「っ、お仕事中です!」
セリーヌが慌てて顔を逸らすと、ロランは少し残念そうに笑った。
「君がいるんだ、仕事など、手につくわけがない」
悪びれる様子のないロランは、不意をつくと、今度こそセリーヌの唇を奪った。
◇◇◇
数日後。
エリックから返事が届いた。
そこには簡潔に、『近日中にそちらへ伺う』と書かれていた。
(殿下が、わざわざ……)
セリーヌは、エリックの配慮に感謝した。
宮殿に行けば、ラリサと鉢合わせする可能性がある。
それを避けるための配慮だと、すぐに理解できたからだ。
そして、約束の日。
セリーヌは応接室のソファに、ロランと並んで腰を下ろしていた。
その顔には、明らかに緊張がにじんでいる。
(どこから話せばいいかしら……)
わざわざ忙しい公務の合間を縫ってきてもらうのだ。
過不足なくすべてを打ち明けた上で、隣国への同行を辞退するのが筋だろう。
その時、ノックの音とともに執事の声が応接室に響いた。
「エリック殿下がお見えになりました」
セリーヌたちが立ち上がると同時に扉が開き、エリックが穏やかな笑みを浮かべて入ってきた。
「やあ、セリーヌ。遅くなってしまってすまないね」
「そんな……! お忙しい中わざわざお越しいただき、こちらこそ申し訳ございません」
すっかり恐縮した様子のセリーヌに、エリックはふと、肩の力が抜けた笑みを浮かべた。
それを見たロランが、渋い顔で口を開く。
「——立ち話もなんだ。二人とも座ったらどうだ?」
ロランに促され、三人はソファに腰を下ろした。
それから紅茶が注がれ、しばしの歓談が始まった。
その間、エリックは嫌でも気付いてしまった。
ロランの手が常にセリーヌに触れていることに。
そして、セリーヌがロランに向ける笑みが——以前のそれとは明らかに違っていることに。
「……ロラン」
エリックは、わざとらしく大きなため息をついた。
「セリーヌは俺と話がしたいと言ってるんだがな」
呆れたような顔を作って言外に退席を促すと、ロランは堂々と答えた。
「妻を他の男と二人きりにさせるわけがないだろう」
その開き直った様子に、エリックは小さく笑った。
(ああ、やはり)
エリックは、二人の様子を見て確信した。
「……ついにお前たちは、思いを通わせたんだな」
その言葉に、セリーヌは顔を赤らめ、ロランはどこか誇らしげに微笑んだ。
「実は……」
セリーヌは意を決して、すべてを語り始めた。
二人の結婚が契約であったこと。
ラリサの輿入れと同時に離縁する予定だったこと。
そのため、離婚後の生活基盤をルヴァニアに移すつもりだったこと。
しかし——
思いを通わせて契約を破棄したこと。
「殿下にルヴァニアへの同行を提案していただき、とても光栄でした」
セリーヌは、エリックの目を真っ直ぐに見つめた。
「ですが……お断りさせていただきます」
セリーヌの声は、震えていた。
だが、その瞳には迷いがなかった。
「私の居場所は、彼の隣にあります」
そう言って、セリーヌは隣に座るロランを見上げた。
ロランは、優しくセリーヌを見つめ返している。
その目には、深い愛情が宿っていた。
エリックは、そんな二人のやりとりを静かに見つめていた。
(そうだったのか……)
契約結婚。
仮初の関係。
それでも、二人は本物の愛を見つけたのだ。
エリックは深く息を吐いた。
「……そうか」
そう言ったきり、エリックはしばらく黙り込んだ。
その瞳には、寂しさが滲んでいる。
(もし、公爵の命令で彼女が俺に近寄ってきたとき、手を伸ばしていたら——)
無意味だとは知りつつも、そんな“もしも”を考えずにはいられなかった。
いつから惹かれていたのか。
そんなことを考えても、今となっては意味なんてない。
エリックは笑顔を作ると、二人に向き直った。
「おめでとう。心から、祝福する」
どこか寂しげな笑みだったが、その瞳は優しさで満ちている。
エリックの言葉に、セリーヌは喜びから涙がこぼれ落ちそうになるのを堪えて、無防備な顔で笑った。
「ありがとうございます、殿下」
エリックは頷くと、少し考え込むような表情を浮かべた。
「……実は、セリーヌに贈りたいものがある」
「贈りたいもの?」
セリーヌは首をかしげた。
「ああ。だが、それは準備ができてからのお楽しみだ」
エリックは意味深に微笑むと、それ以上は何も語らなかった。
◇◇◇
その日の夜。
寝室のベッドの端に、セリーヌは小さくなって腰掛けていた。
こうして同じ寝室で夜を過ごすようになってから、しばらく経つ。
それでも——まだ落ち着けそうになかった。
「まだ慣れないのか?」
ロランはセリーヌを後ろから抱きしめると、優しく囁いた。
「……今でも、時々夢なんじゃないかと思うんです」
セリーヌの声が、小さく震える。
「あまりにも幸せすぎて……」
その言葉を聞いた瞬間、ロランの瞳が優しく細められた。
「幸せ、か」
ロランはセリーヌを抱きしめる腕に、力を込める。
そして、セリーヌの首筋に顔を埋めると、静かに息を吐いた。
「それでは、夢ではないという証明に——何度でも、こうしよう」
そう言うと、体勢を変えたロランは、セリーヌの唇に深く口づけた。
「ん……っ」
セリーヌの腕が、ロランの背中に回る。
月明かりが、二人を優しく照らしていた。
◇◇◇
——それから、しばらくの時が流れ。
ついに、皇太子の結婚式当日が訪れた。
セリーヌは馬車に揺られながら、緊張から表情を固くした。
ラリサが何かを仕掛けてくる可能性は、十分にある。それでも——
「大丈夫だ」
ロランが、力強くセリーヌの腰を抱いた。
「俺が必ず、君を守る」
その言葉に、セリーヌは頷いた。
馬車が、大聖堂へと向かっていく。
二人の運命を大きく変える、長い一日が——今、始まろうとしていた。




