第七章:新たな選択
あの嵐の夜の対峙から、一か月という月日が静かに流れ去った。
王太子イザイア様は、あの後『木漏れ日亭』の二階に数日間だけ滞在し、何事もなかったかのように王都へと帰っていった。別れ際、彼は「君の安全は私が生涯をかけて保障する」と静かに告げたが、その言葉に偽りはなかった。かつて王城や森の中で肌にピリピリと刺さるようだった、あの薄気味悪い「監視の気配」は、今や完全に消え去っていた。
それどころか、ドゥランシル王国の王都からは、旅の商人の口を通じて驚くべき政治的激変の噂がもたらされた。
──有力貴族であったセレナデル公爵家が、王家転覆を企てた国家反逆罪により事実上の解体へ追い込まれたこと。冷徹に私を駒として扱っていた父は爵位を剥奪されて幽閉され、公爵家の資産はすべて国庫へと没収されたという。
そして何より、その陰謀に一切加担していなかった公爵令嬢アリゼは、「過酷な政治闘争に巻き込まれた被害者」として扱われ、現在は公式には『心身の療養のため、身分を隠して国外の保養地で静養中』と発表されているらしい。
(イザイア様は……本当に約束を守って、私の守るべき『席』を作ってくださったんだわ)
実家の破滅を聞いても、不思議と涙は出なかった。私にとってあの家は冷酷な檻でしかなかったからだ。それよりも、自分がようやく「悪役令嬢アリゼ」という運命の配役から、本当に解放されたのだという実感が、じわじわと胸に広がっていった。
私は髪を茶色に染めたまま、酒場の女中「リル」としての日常を送り続けた。
朝一番の市場での賑やかな仕入れ、常連の冒険者たちと交わす気軽な軽口、エールの泡を完璧な黄金比で注ぐ技術──かつてドレスの裾を翻し、贅の限りを尽くしていた私が、今では数枚の銅貨のチップに相好を崩している。けれど、その泥臭い生活が、たまらなく愛おしく、誇らしかった。
そんなある日の午後、昼のピークが過ぎて客の途切れた店内で私がテーブルを拭いていると、主人が一通の分厚い封書を手にやってきた。
「おい、リル。お前に手紙だ。妙に上等な紙を使ってやがるし、仕入れの商人がわざわざ『信頼できる筋から直々に預かった』って持ってきたんだが……お前、本当はいいところの お嬢様なんじゃないか?」
主人が冗談めかして差し出してきた封筒を見て、私の息が止まった。
上質な羊皮紙、それを留める封蝋の紋章は──王太子妃専属の「薔薇」の刻印。
差出人の欄には、丁寧でどこか可憐な筆跡で『エリゼ・ライン』と記されていた。
私は震える手で封を切り、屋根裏部屋に駆け込んで、西日の差し込む小さな机の上で一人手紙を広げた。
『親愛なるアリゼ様へ
唐突なお手紙をお許しください。この手紙が、無事にあなたのもとへ届いていることを切に願います。
イザイア殿下から、あなたのすべてのことを伺いました。あなたが別の世界という場所から来て、私たちの過酷な「運命」を一人で知ってしまっていたこと。そして、身に覚えのない大罪で断罪される未来を恐れ、あの大雨の夜に一人で城を飛び出していったこと……。
お伝えしたいことがあります。私は、あなたを悪役だと思ったことは、ただの一度もありません。
確かに、王城でのあなたはいつも棘のある言葉を私に投げかけていました。でも、あなたの瞳の奥にあったのは、傲慢さではなく、張り裂けそうなほどの「孤独」でした。周囲の大人たちに利用され、誰からも本物の愛を与えられずにいたあなたを、私はただ羨み、そして恐れていたのです。立場が違えば、私たちはもっと早く分かり合えたはずだと、今なら確信しています。
あなたが身を隠しているあの町で、穏やかな日々を過ごせているのなら、これ以上の喜びはありません。ですが、もし……もしあなたの心が許すなら、私はもう一度、あなたとお話ししたい。今度は政治の道具としてではなく、ただの女の子として、お茶を飲みながらくだらないお話をしたいのです。
私は今も、工学的な義務からではなく、あなたを大切な友人だと思っています。
──エリゼ・ラインより』
ポツリ、と手紙の表面に涙が落ちて、インクがわずかに滲んだ。
ゲームの中の聖女エリゼは、私を破滅させるための宿敵だった。けれど、この世界に生きる本物のエリゼは、私の孤独を見抜き、私の生存を心から喜んでくれる優しい少女だったのだ。
私は手紙をそっと胸に抱きしめ、静かに涙を流した。前世からずっと私を縛り付けていた「悪役令嬢だから嫌われる」という恐怖の残滓が、彼女の温かい言葉によって、ようやく完全に溶かされていくのを感じていた。
私はペンを取り、インク瓶を開けた。
返事を書こう。「リル」としてではなく、「アリゼ」としての言葉で。自分の手で運命を切り開いた私だからこそ、今なら彼女と対等な友達になれる気がした。




