第六章:再会
ミルフェの町での暮らしが始まってから、一か月が過ぎようとしていた。
『木漏れ日亭』での女中仕事にもすっかり慣れ、エールを注文する荒くれ者たちの怒号を笑顔でいなせるようになった頃。その日は、夕食時のピークを前にした、奇妙に静かな夕暮れ時だった。
店内の客はまばらで、私はいつものように木製のテーブルをクロスで拭いていた。
カランコロン、と入り口のドアベルが鳴る。その瞬間、私は背筋にゾクッとするような、尋常ではない冷たい空気を感じて手を止めた。
入ってきたのは、長旅の汚れを思わせる黒い外套を深く羽織った、一人の青年だった。
フードの隙間から覗く、すべてを見透かすような鋭い吸い込まれそうな瞳。そして、外套がわずかに翻った瞬間に見えた──腰に差した長剣の柄。そこには、間違いなくドゥランシル王家の紋章が刻まれていた。
(……イザイア様!?)
心臓がドクンと跳ね上がり、呼吸の仕方を忘れたかのように喉が詰まった。
王太子、イザイア・ガブリエル・エリュシュオン。ゲームのヒーローであり、私に冷酷な断罪を突きつけるはずだった男。なぜ一国の次期国王たる人物が、護衛も連れずにこんな辺境の酒場に現れるのか。
彼は一瞬だけ、茶色く染まった私の髪に視線を走らせたが、表情を一つも変えることなく、酒場の最も奥まった薄暗い席へと歩を進め、静かに腰を下ろした。
「おい、リル。新規の客だ。注文を聞いてきてくれ」
厨房から主人の声が飛ぶ。私は生きた心地がしないまま、震える手で注文用の羊皮紙を握りしめ、彼の席へと向かった。声を出せば、アリゼだと一発でバレるかもしれない。私は極力俯き、平民の訛りを意識して低く呟いた。
「……ご注文は、何にいたしますか」
イザイアは私を正面から見据え、その氷のように美しい唇を開いた。
「……麦酒と、燻製肉を」
「か、かしこまりました……」
私は逃げるように厨房へと戻り、冷や汗が止まらない胸を押さえた。
──なぜここにいるの? 私を捕まえにきたの? あの時、黒棘の森で禁衛騎士が言っていた「聖女毒殺未遂」の罪で、私を処刑するために?
その夜、酒場が閉店し、私は恐怖に震えながら屋根裏部屋で荷物をまとめていた。今すぐここを出て、さらに遠くへ逃げなければ捕まる。衣服をリュックに詰め込んでいると、静かに、しかし拒絶を許さない重みを持ったノックの音が響いた。
「……リル。いや、アリゼ。話がある。開けてくれ」
ドアの向こうから聞こえたのは、紛れもないイザイアの声だった。
私は絶望に目をつむり、震える手でゆっくりと鍵を開けた。部屋に入ってきたイザイアは、外套を脱ぎ、静かに私を見つめていた。その瞳には、あのゲームの中で見せたような冷徹さはなく、どこか複雑な憂いが混ざっている。
「……アリゼ・ルーン・セレナデル。なぜ、何も言わずに国を捨てた」
私は護身用の短剣の柄に手をかけながら、決死の覚悟で睨み返した。
「なぜって……私が戻れば、あなたたちは私を『聖女暗殺未遂』の罪で断罪し、地下牢にぶち込むつもりだったのでしょう!? あの森で、あなたの禁衛騎士がそう言いましたわ! 罪を認めて大人しく降れと!」
私の叫びを聞いた瞬間、イザイアは驚いたように目を見開いた。そして、全てを理解したように深くため息をついた。
「……やはり、あの時の騎士が暴走したのだな。すまない、それは私の不徳の致すところだ」
「え……? 暴走……?」
「私は確かに、騎士団に命じて君を監視させていた。だがそれは、君を陥れるためではない。君の実家である公爵家が、君の預かり知らぬところで『王家転覆の陰謀』を進めており、君の我が儘や嫉妬をダシにして王家を揺さぶろうとしていたからだ。私は君をその政治闘争から泳がせ、保護するタイミングを計っていた」
イザイアの口から語られた真実は、私の想像を絶するものだった。
「だが、手柄を焦った現場の騎士が、君の深夜の逃亡を『聖女毒殺未遂の証拠』として勝手に利用し、強引に君を捕らえて拷問し、公爵家を即座に潰すための言質を取ろうと暴走したのだ。私はその報告を受け、すぐにその騎士を更怠し、すべての職権を剥奪した。そして、君を追いかけてここまで来た」
「じゃあ……あなたは、私を処刑するために追ってきたわけではないの?」
「そうだ。私は君がエリゼに嫌がらせをしていたことは知っている。だが、ドレスを切り裂いたのも、階段から突き落としたのも、君の傲慢な態度を利用して公爵家を貶めようとした、他の貴族令嬢たちの仕業だと調査で既に判明している。君が本当に犯した罪は、些細な嫉妬と言葉の暴言だけだ。そんなもので、君を一生牢獄に繋ぐつもりなど、最初から私にはない」
イザイアは一歩、私に近づき、真摯な目を向けた。
「だが、君は『断罪される運命だ』と怯えていたと聞いた。なぜ、まだ起きてもいない未来をそこまで確信していた?」
私は沈黙した。信じてもらえるはずがない。だが、このまっすぐな瞳に、もう嘘を吐くことはできなかった。
「……私は、別の世界から来ました。あなたのいるこの世界は、私の知る『乙女ゲーム』の世界で……私はその中で、あなたに断罪される運命の悪役令嬢だったの。だから、逃げるしかなかった」
突飛すぎる私の告白に、イザイアはしばらく呆然と立ち尽くしていた。しかし、やがてフッと小さく笑った。
「ゲーム、か。信じがたい話だが……君のその必死な目を見れば、それが紛れもない君の『真実』なのだと分かる。そこまで君を追い詰めていた王宮の環境を、未来の国王として謝罪させてほしい」
イザイアは深く頭を下げた。そして、顔を上げると優しく微笑んだ。
「王宮に戻る必要はない。公爵家は私が責任を持って解体し、君に害が及ばないようにする。君が望むなら、このまま『リル』としてミルフェに残ってもいい。私は、誰にも君の正体を明かさないし、追手も二度と送らないと誓おう」
「なぜ……そこまでしてくれるのですか?」
「君が、私が知るどの貴族令嬢よりも、自分の力で運命と戦おうとする、勇敢な女性だと知ったからだ。君は悪役などではない」
窓の外からは、いつの間にか雨が上がり、静かな月光が私たちの夜の再会を優しく照らし出していた。




