第三章:夜の脱出
三日目の夜。
昼間までの静けさが嘘のように、空は重苦しい鉛色の雲に覆われていた。遠くでゴロゴロと地鳴りのような雷鳴が響き、大粒の雨が窓を叩き始める。
天気予報通り、今夜は激しい雷雨だ。雨音と雷鳴が、私の足音や不審な物音をすべてかき消してくれる。天は私に見放されてはいなかった。
私は、昼間のうちに用意しておいた黒い防撥水の強固なマントを羽織り、極力膨らみを抑えた小さな革製のリュックを背負った。
中身は、数日分の乾パン、水筒、携帯用のランタン、詳細な地図、護身用の短剣──そして、公爵家で唯一、私を本物の娘として愛してくれた亡き母の形見である、紫水晶のネックレス。これだけが、私の過去との唯一の繋がりだった。
カチャ、と廊下からかすかな足音が近づいてくる。私はとっさにベッドに潜り込み、毛布を頭から被って息を殺した。
「アリゼ様、お休みになられましたか? 夜食をお持ちいたしましたが……」
ドア越しに聞こえたのは、侍女のマーサの声だった。しかし、その声のトーンはどこか不自然に硬い。
──気づいている。彼女はただの侍女じゃない。私の父、あるいは王家が送り込んできた「監視役」の一人だ。もしここで私が起きてドアを開ければ、荷物を見咎められ、その場で拘束されるだろう。
「……ううん、もう寝るわ。体調が優れないの。明日の朝まで、絶対に誰も部屋に入れないで頂戴」
私はわざと眠気と不機嫌さを混ぜた声で、低く応じた。
「……かしこまりました。では、ごゆっくりお休みくださいませ」
しばしの沈黙の後、足音がゆっくりと遠ざかっていく。その足音が完全に聞こえなくなるのを待ち、さらに心の中で百まで数えてから、私はガバと毛布を跳ね除けた。
部屋の明かりは一切つけない。暗闇に目が慣れるのを待ち、私は静かに、油断なく窓のラッチを外した。
ひんやりとした夜気と、激しい雨風が部屋の中に吹き込んでくる。
ここは城の二階。地面までの高さは約五メートル。下には、幸いにも手入れの行き届いた肉厚なツツジの茂みがある。
「……やるしかないわね。ここで怯んだら、三日後は地下牢の冷たい床の上よ」
覚悟を決め、私は窓枠に足をかけた。スカートの裾をしっかりと縛り直し、マントを体に密着させる。深く息を吸い、雷鳴が轟いたその瞬間に合わせて、私は夜の闇へと身を投げ出した。
ドサッ、と激しい衝撃が全身を襲う。
茂みがクッションとなり、骨折こそ免れたものの、鋭い枝が肌をかすってチクリとした痛みが走った。しかし、痛みに浸っている時間はない。
「誰だ! 今、庭園の方で物音がしなかったか!?」
遠くから、見張りの衛兵たちの声が聞こえた。松明の光が雨の中に揺れている。
私は姿勢を低くし、泥にまみれながらも、狂い咲く薔薇の生垣の影へと滑り込んだ。心臓が耳の奥でうるさいほどドクドクと鳴っている。
(見つかれば終わり。ここからは、時間との戦いよ……!)
衛兵たちの視線が逸れた一瞬の隙を突き、私は庭園の裏手にある古びた勝手口へと走った。かつて廃材の搬入に使われていたその扉は、鍵が錆びついており、事前に私が裏工作をして解錠しておいたものだ。
キィ、と小さな音を立てて扉が開き、私はついに、広大な王城の敷地外へと一歩を踏み出した。
目の前に広がるのは、暗黒の深淵のような「黒棘の森」の入り口だ。
雨はますます激しさを増し、私の足跡を綺麗に消し去っていく。私はフードを深く被り直し、振り返ることなく、未知なる闇の中へと駆け出していった。




