第四章:黒棘の森
森の中は、異様なまでの静寂と、それに相反する自然の轟音に満ちていた。
頭上を覆う巨木の葉が雨を遮ってくれるものの、地面はぬかるみ、一歩進むごとに足をとられそうになる。私はマントを泥まみれにしながら、事前に頭に叩き込んだ地図の記憶だけを頼りに、闇雲に足を動かした。
国境の検問を避けるため、私が選んだのは北西の険しい谷を迂回するルートだ。ここならどんな熟練の斥候でも追ってこられないはず──そう、確信していた。
しかし。
「──そこまでだ、アリゼ・ルーン・セレナデル令嬢」
地鳴りのような雷鳴の合間を縫って、背後から冷徹な声が響いた。
心臓が凍りつく。恐る恐る振り返ると、そこには雨に濡れて鈍く光る、黒いフルプレートアーマーを纏った男が立っていた。
フードと兜の隙間から見える鋭い眼光。その男が握る長剣の柄には、間違いなくドゥランシル王家の紋章──「禁衛騎士団」の刻印があった。
「……あなたが、なぜここに」
私は短剣を握る手に力を込め、声を震わせないよう必死に身構えた。
「あなたの不審な動きは、すべて王家直属の我々が監視していました。夜会を欠席し、深夜に城を抜け出し、このような禁忌の森へ逃げ込む……。フン、これ以上の『罪の証明』があるか」
騎士の言葉に、私は直感した。この男は、私を助けにきたわけでも、単に連れ戻しにきたわけでもない。
「罪の証明……? 私は何もしていません!」
「白々しい! 聖女エリゼ様への度重なる嫌がらせ、そして数日前の『毒殺未遂事件』! 貴様が裏で暗殺ギルドを動かしていた証拠は、すでに我々禁衛騎士団が掴んでいるのだ!」
(毒殺未遂……!? ゲームにはそんなイベント、もっと後にしか起きないはず……!)
頭の中が急速に回転する。そこで合点がいった。王家の上層部やこの騎士団は、肥大化した我が公爵家を完全に潰すため、最初から私を「主犯」に仕立て上げる気満々だったのだ。私が恐怖に駆られて城を逃げ出した瞬間を、彼らは「罪を認めて逃亡した決定的な証拠」として利用し、手柄を立てようとしている。
「王太子殿下からは『泳がせて動向を見ろ』と命じられていたが……ここで大人しく罪を認め、我が騎士団の軍門に降れ! さすれば、地下牢での処罰も少しは軽いものにしてやる!」
騎士が剣を抜き放ち、一歩を踏み出す。
──やっぱりそうだ。王太子イザイア自身は、まだ私を完全に黒だとは断定しておらず、出方を見ていた。なのに、この現場の騎士が手柄を焦って暴走し、私に「罪を認めろ」と迫っているのだ。ここで捕まれば、私は弁解の余地もなく「聖女を毒殺しようとした大罪人」にされてしまう。
「断るわ……! 私は、そんな身に覚えのない泥を被るために生きてるんじゃない!」
私は叫ぶと同時に、足元のぬかるんだ泥を騎士の兜に向けて思い切り蹴り上げた。
「ぐっ……!? 往生際の悪い!」
視界を奪われた騎士が怯んだ隙に、私は背を向け、全力で斜面を駆け下りた。
あらかじめ調べておいた地形だ。この先には、増水した激流の川と、大人一人がやっと通れるほどの狭い岩の隙間がある。重い鎧を着た騎士では、絶対に追ってこられない。
「待て! 逃げるな!」
背後で金属鎧が激しくぶつかり合う音と、怒号が響く。私は枝に髪を引っ掛け、頬を切られながらも、無我夢中で崖を滑り降り、濁流の川に飛び込んで対岸へと渡った。岩の隙間に身を潜め、荒い息を必死に抑える。
やがて、重い足音は川の手前で立ち往生し、苛立たしげに地面を叩く音を残して、徐々に遠ざかっていった。
「……はぁ、はぁ……。追っ手が、巻けた……?」
冷たい雨が、体温を容赦なく奪っていく。しかし、私の胸には絶望ではなく、確かな高揚感があった。
王家の思惑も、騎士の暴走も分かった。そして、王太子イザイアはまだ、私のことを完全な悪だとは信じ切っていないかもしれない、という一筋の光も。
「でも……まだ、終わりじゃない。生き延びてみせるわ」
私は泥を拭い、再び立ち上がった。国境の向こう側にある、まだ見ぬ自由な世界を目指して。




