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第二章:準備の日々


 アリゼ・ルーン・セレナデルという存在は、ドゥランシル王国のパワーバランスそのものだった。

 父は国政の実権を握る宰相であり、母は現王妃の従姉妹。血筋だけで言えば、平民出身の聖女エリゼなど足元にも及ばない。だが、その華やかな栄華の裏側で、我がセレナデル公爵家は完全に孤立していた。


 父は私を「王家に食い込むための最高級の駒」としか見ておらず、私がどれほど孤独を訴えても、返ってくるのは「王太子殿下の心を掴めぬ無能め」という冷徹な罵倒だけ。そして王家側は、肥大化しすぎた公爵家の権力を削ぐため、私の「失脚」を手ぐすね引いて待っている。

 つまり、この王城は、私にとって味方が一人もいない、全面四面楚歌の檻だったのだ。


「アリゼ様、本日の夜会でお召しになるドレスをお試しになりますか?」


 豪奢な控室に、侍女のマーサがやってきた。彼女が広げて見せたのは、燃えるような真紅のドレスだ。かつてのアリゼなら「私にふさわしいわ」と喜んで袖を通しただろう。だが、今の私にはそれが、血に染まった処刑台の衣装にしか見えなかった。


「……いらないわ。今日は外出するから、片付けて頂戴」

「ですが、今夜の夜会には王太子殿下も出席されると伺っております。殿下の婚約者として、お顔を出されませんと、また周囲から──」

「知っているわ。だからこそ、行かないのよ」


 私は冷たく言い放ち、マーサを下がらせた。

 王太子イザイア・ガブリエル・エリュシュオン。ゲームのヒーローであり、私の「断罪」を冷徹に宣告するはずの男。

 今夜の夜会は、ゲームのシナリオ通りなら、私がエリゼにワインを浴びせ、それをイザイアに目撃されて決定的な破滅へと向かう「前夜祭」のはずだ。


(悪いけれど、そのシナリオには乗らないわ)


 私は部屋に鍵をかけると、素早く机の隠し引き出しを開けた。

 中には、ここ数日間、生きた心地がしない中でこっそりと集めた「脱出セット」が収められている。

 近隣諸国の詳細な地図、貴族の身分を隠すための質素な平民の服、これからの生活資金となる数枚の高額紙幣と宝石、そして──数か月前に偶然手に入れていた、他国の偽造身分証明書。


(問題は、どうやってこの厳重な王城、そして国境を抜けるか、よ……)


 机の上に地図を広げ、ペンでルートをなぞる。

 王都を出るには、厳重な警備が敷かれた三つの関所を越える必要がある。普通に街道を進めば、公爵家の令嬢である私は一発で捕まるだろう。


「……北の森ね。ここを通れば、関所の検問は回避できる」


 地図の北側に広がるのは、かつて強大な魔物が棲むと恐れられていた「黒棘の森」。

 現在は魔物こそ間引かれて安全とされているが、その鬱蒼とした険しさから、一般の旅人や商人は決して近寄らない。だが、そのおかげで国境守備隊の巡回ルートからも外れている。アリゼとしての幼少期の記憶を探ると、確かにあの森の奥には、国境の結界が薄くなっている「抜け道」が存在するはずだった。


 完璧な計画に見えた。しかし、私の胸には一つの大きな懸念が残っていた。


(……王家は、どこまで私の動きを把握しているのかしら?)


 実は、私がこうして脱出の準備を進めている間も、部屋の窓の外や、廊下の曲がり角から、かすかに「人の気配」を感じることがあった。

 あれは父が放った監視の目か、それとも──王家の隠密おんみつか。

 もし王家が私の「冤罪えんざい」を仕立て上げるために動いているのだとすれば、私のこの不審な動きすらも、彼らにとっては「罪を自覚して逃亡を図った証拠」として利用される可能性がある。


 特に、王家直属の「禁衛騎士団」は、王太子の手足となって動く冷酷な実行部隊だ。彼らは私を確実に「大罪人」として捕らえるために、網を張っているに違いない。


「でも、ここに残れば地下牢で行き倒れるだけ。一か八か、賭けるしかないわ」


 時計の針が静かに進む。

 あと二日。

 私はおぞましい未来から逃れるため、静かに、そして誰よりも慎重に、牙を研ぐように夜の闇を待った。


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