最後の敵
手を伸ばす。会いたかった。ずっと会いたかった。ようやく会えた今、俺は自分がヒエラを求めていたことを知った。
もう一歩--。
その時、ヒエラの顔が喜びに歪んだ。
もう半歩--。
その時、ヒエラの顔が哀しみに歪んだ。
「…ッ」
第六感が危険を告げた。と言っても止まれない。
だったら、跳ぶ。上へ。
ヒエラの目の前で踏み切る。前へのエネルギーが消えないので、頭をたたんで、回る。ヒエラの向こう側に足から着地。
簡単に言えば前転宙返りでヒエラを跳び越えた。
「イアン‼︎」
ヒエラの声を背中で聞くが、その声は今まで聞いたことのない音だった。
またも第六感が危険を告げる。
その場でしゃがむと頭があった空間を光るものが通り過ぎた。
向き直る。
その目は憎悪の涙に濡れ、かつての暖かな光は見る影も無い。
食いしばった口から呻き声をあげながら、もう一度コンバットナイフが迫る。狙いは、左眼か。
至近距離からの刺突に身をよじる。しかし、間に合わず側頭部を掠める。側頭部動脈が切れて血が噴き出す。
俺はそんなことを気に留めず、ナイフを掴んでしまおうとヒエラの右腕を狙って左手刀を繰り出すも、宙を斬る。瞬間、たたらを踏んだ俺にもう一度コンバットナイフが迫る。狙いは頸動脈。必死でよけるが、刃は皮膚を掠める。首の横を通過したヒエラの右腕を今度こそ掴まえて、左脇に抱える。途端にヒエラは足払いで俺の体制を崩そうとする。倒れてマウントを取られては元も子もないので、やむなく左脇から腕を放す。ヒエラは右腕を引き抜いた反動から、左手で俺の胸ぐらを掴んで、腰のひねりから音速に近い速さで右腕を振るう。
「クソッ…」
体はヒエラの強靭な握力で固定されていて、袈裟斬りを避けることは無理だと判断。左腕で受ける。
皮膚は紙同然に裂かれ、最大限力を込めた筋肉も、研ぎ澄まされた刃と最大限加速された力には叶わず、骨に当たって湿った響きを奏でる。焼けるような痛みが左腕を横断して、血飛沫が上がる。
その痛みが、『戦闘狂』を呼び覚ました。
だが、以前とは決定的に違う。
俺の意識も戦闘狂と化していた。
「…コロス」
俺は左腕を盾にして、もう一度ナイフを受ける。その間に右拳をヒエラの左肩にかます。
力が噴き出す。止まらない。
崩れた姿勢を直す間も与ず、足払い。受け身をとって背中を地につけたヒエラの両肩を掴んで、立ち上がらせて近くの塀に叩きつける。
「ッゲホッ」
喀血したヒエラを投げて、俺の中の『戦闘狂』は満足したらしい。俺は腰に吊るした剣を両方抜いて、投げられたヒエラの両頬を掠らないよう石畳の継ぎ目に突き刺した。
カツーンッ。と硬質な音がヒエラの鼓膜を揺らす。
が、その音が発生した直後、ヒエラは跳ね起きて、俺の右の肺にナイフを刺した。
ほんの僅かの距離で見合わせる。
「…どうして、殺そうとしなかったの…?」
この争いが始まった時とは違う涙で頬を濡らしたヒエラは、俺の闘い方に感づいていたらしい。
「…ううん、それだけじゃない。顔も傷つけないようにしていたでしょ…」
俺は立っていられなくなった。刺されるとこんなに気分が悪くなるのか。今にも吐きそうだ。
意識が少しづつ遠のいていく。体は冷える。歯がカチカチ鳴りそうなのを必死で、それこそ文字通り必死で堪える。力の入らない右手で、ヒエラの頬をなぞる。
「…俺は…、お前が…好きだからだ…」
そう言って、服の中の銀鎖を手繰る。その先に輝く二つのリング。
それを差し出す。
「…お前が…持って、いろ」
息が苦しいな。目の前がチカチカする。
「…お前に、殺されて…、良かった…」
「待って!」
最期にヒエラの願いを聞こう。俺はなんとか意識をこの世に繋ぎとめていた。
「…私も、貴方が、好きです…。だから…」
あとは言葉にならない嗚咽が続いた。
そばに座り込んでいるヒエラの顔は、いつも通りのヒエラだったことに俺は安心した。
空には、夕焼けの鮮やかな橙に負けない一番星の輝きがイアンとヒエラを見つめていた。
動かない左腕は置いておいて、なんとか右手を持ち上げる。
未だ泣き続けるヒエラの頭を胸に抱く。
もう乾いてかすれた息を、何とか音にする。
たったこれだけのことを言うために、残った命を使おう。
息を吸うと刺さったままのナイフから、ヒゥヒゥと空気の漏れる音がする。もう全身の感覚はない。
「…待ってるから、来るんじゃねえぞ」
その言葉を聞いたヒエラは、最期に最高の笑顔で応えた。その頬を伝う涙も一緒に、太陽は沈んだ。
俺も、暗闇に沈んだ。
次回で完結です。




