第九話:不敗の撤退戦
第九話:不敗の撤退戦
市姫が織田の残党によって奪い去られてから、十日ほど。
その間、今川軍は物見の網を張り巡らせて必死にその行方を追ったが、尾張の大気は、あの一件を境にして明らかに色を変え始めていた。
信長という巨木を失って動揺していたはずの尾張の民や土豪たちの間に、俄かに目に見えぬ芯棒が通り始めていたのである。今川方が各地に張り巡らせていた調略の糸は次々と断ち切られ、内応を約していたはずの豪族たちがことごとく口を閉ざす。清須城の孤立を狙った離間の計は空振りを続け、むしろ旧織田家の残党たちは、日を追うごとに結束の度を強めているかのようであった。
その変化の中心にある名は、もはや今川陣中の誰もが知るところとなっていた。
『――信照様が、市姫様をお救いになられた!』
『――米を奪い、民に施し、今川の軍勢を追い払うてくださる!』
尾張南部の荒れた廃屋に捨て置かれていたという、無名の異母弟・織田信照。
姿を見せず、城に籠もらず、民衆の海を泳ぎながら今川の足元を揺さぶるその男の名は、今や尾張の民にとって、信長亡き後の唯一無二の希望の光として仰がれ始めていた。
翔次は、あの草地で悟った自縄自縛――「生き残るために今川を勝たせようとする己の知恵こそが、信照の道を圧殺している」という逃れ得ぬ自己矛盾を胸の奥深くに抱え込んだまま、義元の軍議に列する日々を送っていた。
その日、沓掛の本営に集まった今川の首脳陣の表情は、一様に険しさを極めていた。
議題は、尾張北部の前線において兵糧の集積所となっていた要衝――篠木の砦の防備についてであった。
「太守様。篠木の砦、いかがいたしましょうか」
岡部元信が床几に進み出て、机上の絵図を指差しながら低い声で言上した。
「守備兵は三百余り。堀と柵を急拵えにて固めてはおりまするが……近頃、砦の周囲の山林に、不審なる人影が頻繁に出没してございます」
「敵の物見か」
義元が扇を弄びながら問うと、元信は苦渋を滲ませて眉根を寄せた。
「恐らくは。……されど、物見にしてはあまりに動きが大胆かつ不敵にすぎまする。あえて我が番兵の前に姿を現し、挑発するかのように鬨の声を上げては山野へと消える始末。……何か、大きな仕掛けの先触れかと」
元信の言葉に、翔次の胸の奥で冷たい警鐘が鳴り響いた。
朱槍を振るう猛将、川の水運を操る者、忍びを使う者、そして米や物資の流れを操る者。
これまで彼らが見せてきた戦い方は、常に今川の目を盗み、陰に隠れて補給や情報を寸断するものであった。その彼らが、なぜ今になって白昼堂々と姿を晒し、大軍の鼻先を掠めるような真似をするのか。
(市姫を手中に収めたことで、織田の名分が立った。……次は、今川の前進拠点を直接叩きに来る気か?)
翔次が口を開きかけた、まさにその刹那であった。
陣幕の裾が乱暴に跳ね上げられ、血と泥に塗れた伝令が転がり込んできた。
「ほ、報告! 篠木の砦、敵の猛攻を受けましてございます!」
息を呑む暇もなく、伝令の絶叫が本営を揺るがした。
「四方の林より突如として無数の喊声が湧き起こり、外柵に火が放たれました! 朱槍を掲げし敵の大将が先頭を切り、我が前衛は瞬く間に突き崩されております!」
「何じゃと!」
義元が立ち上がり、陣幕内が騒然となった。
だが、それは雪崩の如く押し寄せる凶報の、ほんの端緒に過ぎなかった。
立て続けに、馬煙を巻き上げて二報、三報の早馬が本営へと雪崩れ込んできた。
「北方の物見台、敵の奇襲により壊滅! 守備兵は散り散りに敗走いたしました!」
「街道沿いの兵糧蔵、二箇所が同時に襲撃を受け、炎上しております!」
「木曽川の浅瀬より、無数の船影が押し寄せ、河岸の継所を包囲中との報!」
あまりの事態の急変に、陣中の諸将は言葉を失った。
小競り合いなどという生易しい規模ではない。あたかも、何千、何万という見えざる大軍が、尾張北部の山野から一斉に湧き出し、今川の全拠点を一呑みにせんと包囲の牙を剥いてきたかのようであった。
「多すぎる……! 何たる兵力じゃ!」
「信長を討ったばかりの尾張に、これほどの大軍が隠れておったと申すか!」
諸将の間に、明らかな狼狽と恐慌の色が広がっていった。
歴戦の岡部元信ですら、絵図を睨みつけながら血相を変えていた。
「同時に四箇所、五箇所を攻め立てるなど……各個撃破を狙うにしても、兵の数が合わぬ。もしや、美濃の斎藤が織田の残党と結託し、国境を越えて大軍を送り込んできたのか……!?」
戦況の全貌を掴めぬ焦慮が、今川軍の中枢を急速に蝕んでいた。
だが――諸将が敵の大軍の幻影に怯え、右往左往する中、翔次だけは額に冷汗を浮かべながらも、冷徹に思考の糸を手繰り寄せていた。
(待て……。落ち着け。絵図をよく見ろ)
翔次は震える手で机上の尾張絵図を凝視した。
襲撃された地点は広範囲に散らばっている。篠木の砦、北の物見台、街道の兵糧蔵、川沿いの継所。
一見すれば、圧倒的な大軍による同時多発の総攻撃に見える。
だが――兵站と用兵の理を知る翔次の頭脳が、その光景に強烈な違和感を突きつけていた。
(大軍であるはずがない……!)
大軍ならば、要所へ兵を集める。それが兵を用いる道理だ。篠木の砦のような重要拠点を落としたいのであれば、全軍をそこに集中させて一気に踏み潰す方が遥かに早く、確実である。
それを行わず、あえて薄く広く兵を散らし、各地で太鼓を打ち鳴らし、鬨の声を上げさせている。
伝令の報告を思い出せ。太鼓と鬨の声ばかりがやけに多いと言っていたではないか。
(……陽動だ。寡兵による、戦力の偽装工作だ!)
翔次の脳裏で、敵の描いた絵図が鮮やかに浮かび上がった。
朱槍の将が派手に槍を振るって砦の注意を引き、川の衆が舟で川岸を脅かし、忍びの者が虚報を流して今川の目を眩ませる。実際の兵力はせいぜい数百、多くとも千に満たない手勢に過ぎない。
にもかかわらず、各地で同時に火の手を上げ、音を立てることで、今川方に「敵は大軍だ」「どこもかしこも包囲されている」という恐怖を植え付け、全軍を疑心暗鬼に陥れようとしているのだ。
そして――恐ろしいことに、今川の首脳陣は、その罠に完全にはまりかけていた。
「太守様! 直ちに各拠点へ救援の兵を送り、包囲を解かねばなりませぬ!」
「いや、街道の蔵を奪われては本隊の兵糧が尽きる! まず後方の安全を確保すべきじゃ!」
「大軍に包囲されては手遅れになる! 一度、全軍を沓掛の城まで引かせるべきでは――!」
諸将の意見は四分五裂し、怒号と悲鳴が陣幕を揺るがしていた。
大軍というものは、正面からの強敵に敗れるのではない。指揮系統が混乱し、互いが互いの動きに怯え、統率を失って将棋倒しになった瞬間に自滅するのだ。翔次は歴史の書物の中で、そうして無残に瓦解していった無数の大軍の記録を読んできた。
いま、目の前でその悪夢が現実になろうとしていた。
「――静まり召されよッ!」
陣幕の空気を切り裂くような、鋭く裂帛の気迫を込めた翔次の怒号が響き渡った。
諸将が息を呑み、一斉に翔次を振り返る。泥百姓の出と見下されていた青年の全身から、普段の温厚さを微塵も感じさせぬ、凄まじい覇気が立ち昇っていた。
「太守様、惑わされてはなりませぬ! 敵は、大軍などではございませぬ!」
「何じゃと……!?」
義元が目を見張った。翔次は絵図の上に拳を叩きつけた。
「これほど広大な戦線に兵を散らし、それぞれの拠点で鬨の声ばかりを響かせるなど、大軍の用兵ではあり得ませぬ! 敵の本体はせいぜい数百、多くとも千に満たぬ兵にございます! 朱槍の将や川の衆が手分けして火の手を上げ、太鼓を鳴らし、我が軍に『十倍の大軍に包囲された』という錯覚を植え付けているだけにございます!」
「錯覚……だと!?」
元信が目を剥いた。翔次は冷徹に頷いた。
「敵の真の狙いは、拠点の奪取にあらず。我らを恐慌に陥れ、慌てて救援の小部隊を各地へ送り出させ、それを各個撃破すること。そして、我が二万の軍勢の統率を内側から崩壊させることにございます! 今ここで恐慌に陥り、浮き足立って兵を動かせば、我が軍は自滅いたします!」
翔次の言葉に、陣幕内の熱気が一瞬で冷え込んだ。
元信が息を呑み、絵図を見つめ直す。
「……言われてみれば、被害の報告は火の手と喚声ばかり。我が兵の死傷の数は、砦を除けば驚くほど少ない……」
「信照の罠にございます」
翔次は義元の目を真正面から見据えた。
「されど、敵の術策を見抜いたからとて、勝てる戦ではございませぬ。篠木の砦の外柵はすでに破られ、兵站の要所が脅かされていることは事実。……太守様、ここは退くべきにございます」
「退く……!?」
武闘派の将が色をなしたが、義元が手を挙げてそれを制した。その双眸に、鋭い光が宿る。
「続けよ、翔次。そなた、いかにして退く」
翔次は息を吸い、脳裏の盤面を急速に展開させた。
勝つ必要はない。領地を誇る必要もない。
局地の勝ち負けなど敵にくれてやればいい。大事なのは、今川二万の兵を一人でも多く生かし、軍団の骨組みを無傷で後方へ逃がすことだ。
「篠木の砦への援軍は、直ちに打ち切ります」
翔次の冷徹な一言に、諸将が息を呑んだ。
「見捨てるのか!」
「見捨てるのではございませぬ、土地を捨てて兵を拾うのです! 砦の三百を救うために千の援軍を送り込めば、敵の伏兵の餌食となるだけ。砦の守備兵には、裏手の隠し道より密かに脱出するよう合図を送り、城そのものは敵にくれてやります。土地は後からいくらでも奪い返せますが、死んだ兵は二度と戻りませぬ!」
翔次は絵図の上に朱の筆を走らせた。
「そして、本隊は直ちに整然と後退を開始いたします。後退先は、尾張東部の拠点――沓掛と鳴海を結ぶ守りの拠点まで。全軍を一息に下げるのではなく、二段構えの『守りの陣』を敷いて、敵の追撃を削ぎ落としながら退きます!」
「守りの陣、とな」
元信が身を乗り出した。翔次の筆先が、街道沿いの丘陵と河川を指し示した。
「元信殿。後方に控える貴殿の手勢五百を直ちに動かしていただきたい。まず第一の備えとして、あの丘の陰に弓兵と長槍を伏せます。追撃に逸る敵の先頭――おそらく主槍の将が率いる猪武者どもの一団が伸び切ったところを、高所より一斉に射すくめて鼻先を挫く! 敵を全滅させる必要はございませぬ、足を止めさせればそれでよいのです」
「うむ……!」
「そして第二の備えとして、川の渡河地点に兵を置きます。川を渡れる場所を狭い瀬に限定させ、敵の舟や歩兵が密集したところを迎え撃つ。この二つの伏兵が時を稼いでいる間に、今川の本隊は、隊列を崩すことなく、整然と後方へ後退を完了させるのでございます!」
一語一語、淀みなく繰り出される撤退の軍略。
それは、恐慌に陥っていた諸将の頭を冷やすに十分な、圧倒的な明快さを備えていた。
義元は長く翔次を見つめていたが、やがて床几を蹴るようにして立ち上がった。
「聞いたか、皆の者! 我が今川の軍配は、すべて翔次に預ける! 元信、直ちに指示通りに伏兵を配せ! 全軍、隊列を乱すべからず、整然と兵を引けッ!」
「ははッ!!」
諸将の迷いは消え去り、今川の大軍は一糸乱れぬ規律を取り戻して動き出した。
そこからの戦いは、まさに翔次の描いた筋書き通りに展開した。
篠木の砦は陥落し、激しい炎を上げて黒煙を天に噴き上げた。しかし、翔次の指示によって退路を確保されていた守備兵の大半は、深手を負うことなく包囲を脱出していた。
砦を落とし、勢いづいた朱槍の将率いる織田の精鋭が、鬨の声を上げて街道を追撃してきた。
「今川の雑兵どもを一人も逃すなッ! 殿に勝利の首を捧げるのじゃッ!」
朱槍を振り回し、猛然と突進してくる敵の騎馬隊。
だが――その先頭が丘の狭間に差し掛かった瞬間、草叢から無数の矢が雨のように降り注いだ。
「伏兵かッ!?」
先頭の騎馬がばたばたと倒れ、敵の追撃の足がぴたりと止まる。
岡部元信率いる第一の伏兵陣であった。朱槍の将が伏兵を蹴散らそうとした時には、元信の手勢は深追いすることなく、整然と後方の川岸へと後退していた。
続いて川岸に迫った川の衆の舟部隊も、翔次があらかじめ渡河地点を限定させていたため、狭い水路で今川軍の長槍の槍衾に阻まれ、それ以上の追撃を断念せざるを得なくなった。
忍びの者が放った偽情報も、翔次が本隊の連絡路を一本に絞り込み、符牒を用いた厳重な確認を行わせたため、もはや今川の隊列を混乱させることはできなかった。
「慌てるな! 歩みを緩めるな! 隊列を保て!」
翔次は前線で刃を交えることなく、本隊の中央にあって、次々と届く物見の報告を絵図の上に落とし込み、敵の追撃速度と味方の後退速度を測りながら、冷静沈着に軍令を出し続けた。
局地戦では、確かに負けている。砦は奪われ、蔵は焼かれた。
だが、今川の二万の軍勢は、大きく隊列を乱すことなく、平時の行軍のごとく整然と、一兵でも多くを生かして後方の守りの陣へと収容されていったのである。
夜が訪れる頃、今川軍は沓掛の堅陣へと完全に後退を完了していた。
追撃してきた織田の残党勢力も、今川の鉄壁の陣容を見て深入りを諦め、北の闇へと兵を引いていた。
被害の総括がなされた本営の陣幕に、静かな、しかし確かな驚嘆が満ちていた。
「太守様……。篠木の砦と兵糧蔵二箇所を失いはいたしましたが……我が軍の死傷者は、わずかに数十名。本隊の将兵は、ほぼ無傷にございます」
元信の報告を聞いた義元は、深く、長く息を吐き、床几から歩み出て翔次の前に立った。
その双眸には、畏怖にも似た深い光が宿っていた。
「……見事じゃ、翔次」
義元の低く重い声が、静まり返る幕内に響き渡った。
「予は生涯、これほど見事な退き口を見たことがない。局地において破れながら、全軍の崩壊を完璧に防ぎ、敵の策をことごとく空振らせて軍を救うた。……勝つことよりも、負け際を統御することこそが、真の用兵の極致。そなたは、まさに不敗の軍師よ」
岡部元信をはじめとする諸将もまた、深々と頭を垂れ、翔次に対して心からの敬意の眼差しを向けていた。
もはや、この青年を百姓の出と侮る者は、今川家中には誰一人として存在しなかった。
だが――諸将の賞賛を一身に浴びながら、平伏する翔次の胸を灼いていたのは、勝利の誇りなどではなかった。
(……まただ)
翔次は泥を握りしめ、胸の中で乾いた血を吐く思いであった。
(また、今川を救ってしまった……)
局地では敗れ、全軍を保つことでは勝つ。一つの戦では敗れながら、軍そのものを生き残らせる。
兵を死なせず、軍を保ち、今川義元の命脈をまた一つ繋ぎ止めてしまった。
自分が生き残るために振るったその「不敗の手腕」が、信照の渾身の奇襲を無力化し、織田の再興の道を再び暗闇へと押し戻しているのだ。
賞賛されればされるほど、己の罪は重くなり、自らを縛る縄はきつく食い込んでいく。
陣幕を出た翔次は、夜空に浮かぶ冷たい月を見上げた。
暗雲垂れ込める尾張の北の空に、今宵もまた、姿なき魔王の不気味な気配が漂っている。
歴史を狂わせた軍師と、歴史の外から生まれた魔王。
血を流さぬ泥沼の死闘は、いま、真の泥濘へとその歩みを進めようとしていた。




