第八話:自縄自縛
第八話:自縄自縛
市姫の奪還作戦が無残な失敗に終わってから、七日が流れた。
尾張北部の寒村において今川の包囲網を嘲笑うかのように突破し、姿を消した織田の残党勢力。その背後に掲げられていた「織田信照」という織田信長の無名な異母弟の名は、今や尾張全土の国人や百姓の間に、燎原の火のごとく広がり始めていた。
今川軍の本営においては、この屈辱的な失態を機に、岡部元信をはじめとする重臣たちが信照討伐を声高に叫び、警戒の網を幾重にも張り巡らせていた。太守・今川義元もまた、姿を見せぬこの未知の怪物をかつてなく警戒し、事あるごとに翔次を御座所へ召し出しては、北方の情勢について諮問を重ねていた。
軍師としての翔次の地位は、皮肉にも、この敗戦を経てさらに重きをなしてきていたのである。
だが、本営の熱気から隔絶された陣屋の隅で、翔次の魂は、これまで経験したことのない奇怪な惑いと暗雲に呑み込まれていた。
初夏の風が吹き抜け、青々と茂り始めた尾張の山野から、湿り気を帯びた草木の匂いを運んでくる。
兵糧の継所の検分という名目で陣所を抜け出した翔次は、雑木林の切れ目に広がるなだらかな丘の上に立ち止まり、一人、眼下に広がる街道の往来を見下ろしていた。
桶狭間の合戦から、まだ二十日にも満たない。
だが、かつての孤独な生からこの血生臭い乱世へと叩き落とされ、信長を死なせ、義元の命を救い、元康の手を握りしめてきた翔次にとっては、すでに十年もの歳月を生き抜いたかのような重苦しい疲労が、骨の髄まで沈殿していた。
立ち止まった翔次の胸裏を去来したのは、萱津の村より戻った斥候がもたらした、あの信じ難い言上であった。
『――我が君、信照様の命により、姫君をお迎えに上がった!』
『――信照公が、今川から取り返した米を、村々へ施して回られた!』
奪った兵糧を私兵の蓄えとせず、困窮する百姓どもへ惜しげもなく分け与え、民心を丸呑みにしていった男。
朱槍を振るう猛将を前面に立たせ、川の水運を操り、忍びの者をもって今川の大軍を翻弄した男。
(織田信照……)
翔次は乾いた唇を舐め、その名を心の中で静かに反芻した。
信長の膨大な兄弟譜の片隅に、わずか一行、母親の身分の低さゆえに廃屋同然の屋敷に捨て置かれていたと伝わる、無名の若輩。
己が暗記していた史書の記憶には、およそ合戦の功名も、天下の趨勢に関わる記述も存在しなかった日陰者である。
だが――現実に起きていることは何か。
その男は、信長が死んだまさにその瞬間から、歴史の表舞台に忽然と姿を現し、神算鬼謀としか思えぬ鮮やかさで今川の急所を抉り抜いているのだ。
そこまで考えた刹那、翔次の胸の奥底に、ある一つの、禁断の思いが芽生え始めた。
それは、身の毛もよだつほど都合が良く、しかし一度思い浮かべてしまえば抗うことのできぬ、甘美な光を帯びた淡い期待であった。
(……もし、あの男が)
翔次は息を呑み、拳を固く握りしめた。
(もし、あの織田信照という男が……信長の代わりに、この乱世を背負い直すために現れた器なのだとしたら――?)
思考が、熱病のように加速していく。
自分は桶狭間で信長を死なせてしまった。その保身の一言によって、日本の歴史の骨組みをへし折り、己が知っていた未来の道筋を粉々に吹き飛ばしてしまった。その罪悪感は、夜ごとに胃の腑を灼き、今なお翔次の背骨を押し潰し続けている。
だが、もし――。
信長という巨星が堕ちた代わりに、この未知の異母弟が立ち上がり、散り散りになった織田の英傑たちを再び一つに束ね、美濃を切り従え、上洛を果たし、戦国の動乱を泰平の世へと導いてくれるのだとしたら。
たとえ翔次の知る歴史とは道筋が異なろうとも、最終的に辿り着く結末――天下の統一と、戦なき世の到来という巨大な潮流そのものは、この男の手によって再び取り戻されるのではないか。
(そうだ……。そうであってくれれば……)
翔次の喉から、掠れた息が漏れた。
もし信照が、信長の代わりとなって歴史の軌道を修復してくれる英雄であるならば。
自分が信長を死なせてしまったあの取り返しのつかぬ大罪も、結果として、幾ばくかは許されるのではないか。歴史を完全に滅ぼしたのではなく、新たな英雄の道を拓くための苦難の契機であったと、いつの日にか、自分自身を許すことができるのではないか。
胸を焦がすようなその希望は、暗黒の泥濘に沈む翔次にとって、溺れる者が差し出された細い藁にすがるような、切実極まる救いであるように思えた。
――だが。
その甘美な救済の幻影は、次の瞬間、翔次自身の冷徹な理性の刃によって、無残なまでに叩き斬られることとなった。
初夏の風が止み、丘の上の木々が重苦しい葉擦れの音を止めた。
翔次はふと顔を上げ、自らが背にしてきた今川軍の本営を見渡した。
見渡す限りの平野に整然と張り巡らされた、白布の幔幕。
沓掛から鳴海、大高に至る街道を、絶え間なく行き交う小荷駄の隊列。
整然と積み上げられた兵糧蔵の群れ。
そして、西の山裾に堅陣を敷き、泥と血にまみれた長槍を整然と並べて今川の先鋒を担う、松平元康率いる三河武士団の威容。
二万余の今川軍は、動揺するどころか、日々、尾張の肥沃な大地に深く、強固に、その根を張り巡らせつつあった。
その圧倒的な軍勢の姿を、翔次はこれまで、己が知恵を絞って築き上げた「生き残りの証」として、誇らしげに眺めていたはずであった。
だが――今、その同じ光景が、翔次の瞼の裏に、全く別の、悪夢のような意味を帯びて焼き付いてきた。
(待て……)
翔次の心臓が、冷たい氷の刃で貫かれたように、激しく脈打った。
(この大軍を……これほどまでに盤石なものにしたのは、一体、誰だ?)
思考が、凄まじい早さで逆回転を始めた。
桶狭間の豪雨の夜。田楽狭間の窪地で休息を取り、信長の奇襲を受けて討ち取られるはずだった今川義元を、高所へ退かせ、生き延びさせたのは誰か。
――己だ。命乞いのあまり口走った、翔次の一言であった。
合戦の翌朝。大勝に浮かれ、兵糧の補給も顧みずに京都への上洛を焦り、自滅の道を突き進もうとしていた今川軍を押し留め、「上洛を捨て、尾張を完全に領国化して東海の大国を築くべし」と説き、不敗の戦略を授けたのは誰か。
――他ならぬ、翔次自身であった。
そして、大高城への兵糧入れで使い潰され、怨嗟を爆発させて今川から離反するはずの松平元康の苦衷を救い、恩賞を与え、今川軍最強の先鋒・防波堤としてその足元に繋ぎ止めてしまったのは、誰であったか。
――それもまた、翔次が元康の手を握りしめ、義元へ直訴した結果であった。
さらに、木曽川の水運を警戒し、継所を分散させ、伝令の路を幾重にも張り巡らせて今川の兵站を破綻から救い続けているのは、誰の知恵か。
翔次だ。
後世の歴史書から引き出した、合理的かつ冷徹なる兵站理論そのものであった。
「……あ」
翔次の唇から、掠れた声がこぼれ落ちた。
全身の毛穴という毛穴から、おびただしい冷汗が吹き出していた。膝の力が抜け、立っていられなくなる。
翔次はそのまま、青草の生い茂る地面へと、崩れ落ちるように膝をついた。
(俺だ……。俺が、今川を……大国のまま維持できるように、仕立て上げてしまっているんだ……!)
血の気が完全に引いていく。
脳裏に浮かび上がったのは、あまりにも明快で、あまりにも残酷な、世界の構図であった。
もし――翔次が先刻抱いた淡い期待の通り、織田信照という男が、信長に代わってこの乱世を前に進めるべき真の英主であったとしよう。
その男が、いかに四天王の異能を解き放ち、いかに人心を掌握する術を心得ていようとも。
いま、その信照の行く手に立ち塞がっているのは、史実のように太守が桶狭間で首を討たれて次第に衰退していく今川家ではないのだ。
義元という稀代の政治家が未だ健在であり、松平元康という最強の盾を先鋒に配し、兵糧の弱点を塞ぎ、尾張を一歩一歩確実に干し上げようとしている、容易には崩れぬ「東海の大国」なのだ。
そして――その巨大極まる鉄壁の城壁を、外から叩いても決して崩れぬように、内側から補強し、隙間を埋め、知恵の漆喰を塗り固め続けているのは、誰なのか。
(俺だ……! 俺自身が、信照の行く手を、完全に塞ぎ立てているんじゃないか……!)
めまいを覚えるほどの衝撃が、翔次の頭蓋を殴りつけた。
翔次は草を両手でむしり取り、額を泥に擦り付けんばかりにして震えた。
生きるためであった。
刀の扱いも知らぬ身で、この殺伐たる戦国の地獄に放り込まれた若者が、首を撥ねられぬため、必死に頭を絞り、義元に己の価値を示してきたのだ。
元康に寄り添い、過酷な境遇から救おうとしたのも、決して偽りの情ではない。人の痛みを理解し、少しでも無用な流血を減らしたいという、翔次なりの誠意であったはずだ。
だが――その誠意と、その生存のための知恵が、結果として何を生み出しているのか。
「生き残るためには……」
翔次は泥を握りしめ、呻くように呟いた。
「生き残るためには、今川に必要とされ続けねばならぬ。太守様に重用されるためには、今川を勝たせ続けねばならぬ。……だが、今川が勝てば勝つほど、信照が織田を再興する余地は、圧殺されていくんだ……!」
これこそが、翔次を絡め取った自縄自縛の正体であった。
命を保つためには、今川の軍師として盤石の策を出し続けねばならない。
しかし、今川を盤石にすればするほど、自分が信長を死なせた贖罪として縋ろうとしていた「信照による歴史の再興」の芽を、自分自身の手で徹底的に摘み取ることになる。
では、信照を勝たせるために、今川を負けさせる策を献じることができるか?
できるはずがない。今川が敗れれば、軍師である翔次の首は義元によって即座に撥ねられるか、さもなくば戦乱の泥濘の中で雑兵に討ち取られて終わるだけだ。
今川を裏切って信照のもとへ走るか?
それも論外であった。信照の居所も、その手勢の全容も分からぬ今、陣を抜ければ脱走兵として岡部元信の追っ手に斬り殺されるのが関の山だ。
翔次は、天を仰いだ。
青く澄み渡る初夏の空が、まるで己の愚かしさを嘲笑うかのように、どこまでも冷たく広がっていた。
(俺の知恵が……俺の未来の知識が、信照の首を絞めている)
かつて、四畳半の部屋で軍書を貪り読んでいた頃、翔次は「もし戦国へ転生すれば、知識を使って天下を動かしてやる」と傲慢に夢想していたものだ。
だが、現実はどうだ。
知識を口にすれば英雄が死に、知識を駆使して生き延びようとすれば、自らの望む未来を自らの手で永遠に闇へと葬り去っていく。
己が生きるために振るう知恵のすべてが、己を縛る太い縄となって、手足を、首を、呼吸すらも締め上げているのだ。
「……ふ、ふふ」
翔次の喉から、掠れた乾いた笑いが漏れ出た。
膝を泥についたまま、肩を小刻みに震わせる。
「はは……あはははは……!」
それは、喜びの笑いなどでは断じてなかった。
あまりにも理不尽で、あまりにも救いのない、己という存在の滑稽さに耐えかねた、自嘲と絶望の哄笑であった。
歴史を知る男が、歴史を狂わせ、狂った歴史を戻そうとする誰かの道を、己の生き残りのために自ら塞ぎ立てている。
喜劇だ。これほど残酷で、これほど無意味な茶番が、この乱世のどこにあるというのか。
「俺は……」
翔次は笑いながら、熱い涙が頬を伝って泥の上に落ちていくのを感じていた。
「俺という人間そのものが……この戦国にとって、最大の災いではないか……」
陽が西の山並みへと沈み、空が血のような朱色に染まる頃、翔次は重い足取りを引きずりながら本営の陣所へと戻った。
御座所へ入ると、義元が床几に座し、広げられた尾張の絵図を険しい眼差しで見つめていた。
「戻ったか、翔次」
義元の静かな声が、疲弊し切った翔次の鼓膜を打った。
「北の信照なる小童、萱津の周辺の豪族どもへ密かに使者を送り、我が軍への協力を阻んでおるらしい。……姿を見せず、米を施し、人心を掠め取るあの魔王の息根を、いかにして止めるべきか。翔次、そなたの次なる策を聞きたい」
義元の双眸には、翔次に対する絶対の信頼が宿っていた。
その信頼の重みが、いまや翔次の首に巻き付いた鉄の鎖のように重かった。
義元を裏切ることはできない。裏切れば死ぬ。
だが、義元のために最高の手を打てば、信照は滅び、歴史は永遠に暗黒へと閉ざされる。
翔次は喉の奥で血の味を感じながら、深々と平伏した。
「……太守様。信照の策は、現場の小競り合いにございます。正面より攻めるは下策。……まずは、敵が拠って立つ兵糧と退路を、徹底して干し上げる大包囲の布陣を敷くべきかと存じます」
「うむ、やはりそなたの眼に狂いはないな」
義元が満足げに頷いた。
頭を下げた翔次の瞳から、光が消えていた。
また一つ、自分の口から出た知恵が、信照の退路を塞ぎ、歴史の息の根を止める楔となって打ち込まれていく。
生きるために、世界を壊し続ける。
この地獄のような自縛の檻から逃れる術は、もはや何処にも残されていなかった。




