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狂った歴史と、不敗の軍師~信長を死なせた男、今川家を支えて魔王に挑む~  作者: チャプタさん


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第七話:魔王の爆誕

第七話:魔王の爆誕


 夜明け前、尾張北部の寒村を包み込む大気は、墨を流したように重く、そして不気味なまでに静まり返っていた。


 今川義元の御座所を辞した翔次は、冷え切った夜気の中を歩み、包囲網の最前線に位置する岡部元信の陣所へと足を運んでいた。胸の奥底で澱のように沈み、じわじわと冷たい刺創を広げていくあの拭い難い胸騒ぎを、どうしても己の目で確かめずにはいられなかったからである。


「元信殿。村の内に、変わった動きはござらぬか」


 翔次の問いに、漆黒の当世具足に身を固めた元信は、腕を組み、闇に沈む家並みを凝視したまま低く唸るように答えた。


「静まり返っておる。犬一匹、声を上げぬ」


「……それが、あまりに不自然に思われませぬか」


「不審を抱かぬわけではない。されど、我が配下が街道を塞ぎ、川岸を固め、北の山道には元康の三河勢が陣を敷いておる。夜陰に乗じて逃げ惑う足音もなければ、屋敷を固めて矢を番える気配もない。ただ、死人のように息を殺しておるだけかもしれぬ」


 元信の声には、歴戦の武将たる鋭い警戒と、包囲を完了させたことによる微かな自負とが綯い交ぜになっていた。


「東の空が白み次第、太守様の命を受けた使者を立てる。それまでは指一本動かすな、陣形を崩すなと下知してある」


「御意にございます」


 翔次は元信の傍らに立ち、濃紺から白銀へと移ろい始める山の稜線をじっと見つめた。


 市姫――信長の妹君にして、当年十三歳となる織田家の姫君。


 この幼き少女を保護し、今川の膝下に迎えることさえできれば、四分五裂した織田の残党どもが寄り集まるための最後の大義名分は消滅する。旗頭を失った「幻影の織田軍」は烏合の衆へと解体され、尾張平定の道筋は盤石のものとなるはずであった。


 机上の計算において、一切の狂いはない。


 だが、その冷徹な確信の裏側で、翔次の皮膚は粟立ち続けていた。


(静かすぎる……。なぜ、護衛の武士どもがうろたえる物音一つ聞こえてこないのだ……?)


 やがて、夜の帳が破れ、薄桃色の朝光が湿った草木を照らし始めた。


 義元の命を帯びた今川の使者が、白布の旗を掲げ、静まり返る村の入口へと歩を進めていった。本隊の陣幕の前では、岡部元信が刀の柄に手を掛け、少し離れた山裾の隘路では、松平元康率いる三河武士団が長槍の穂先を揃えて見守っている。


 使者は村落の木戸の前に立ち、腹の底から声を張り上げた。


「今川治部大輔義元公の使者である! 屋敷におわす市姫様に申し上げる! 太守様は姫君を粗略に扱うお心など毛頭ござらぬ! 名門織田家の血筋を尊び、万全の安全をお約束いたす! 速やかに木戸を開き、御姿を現されよ――!」


 静寂が、一瞬だけ続いた。


 使者の言葉の余韻が山野に吸い込まれた、まさにその刹那であった。


 ――破ァッ!


 木戸の奥、朽ちかけた廃屋の土壁を粉々に吹き飛ばし、凄まじい轟音とともに猛り狂う一筋の雷光が躍り出てきた。


「――なッ!?」


 翔次は息を呑み、総毛立った。


 砂煙を突き破って突撃してきたのは、血と泥に塗れた虎皮の陣羽織を翻し、身の丈を越える朱槍を風車のごとく振り回す巨漢であった。


 飢えた狼のごとき双眸を爛々と輝かせ、地を揺るがす咆哮を上げながら今川の先鋒へと突っ込んでくる。


(あの朱槍……まさか、織田家に仕えていた猛将か!)


 翔次の喉から、絞り出すような息が漏れた。


 武者の槍撃は、まさに鬼神のそれであった。先頭の使者など目もくれず、街道を固めていた今川軍の槍衾のど真ん中へ単身で飛び込み、長槍の柄を薙ぎ払って前衛の足軽数名を瞬く間に宙へと跳ね飛ばす。


 その背後から、死を恐れぬ十数名の敗残兵が鬨の声を上げて雪崩れ込んできた。


「怯むなッ! 殿の御意志はここにおわす! 今川どもの首を獲れェッ!」


 巨漢の絶叫が木霊し、今川の陣形が正面から引き裂かれた。


「狼狽えるな! 取り囲んで突き伏せよ!」


 岡部元信が怒号を上げ、太刀を抜いて前進しようとした。


 だが、今川の陣の崩れは、正面の突撃にとどまらなかった。


 ざざんッ、と村の西側を流れる細い川の浅瀬から、重い水飛沫の音が響き渡った。


 朝靄の立ち込める川面から、枯草や泥で偽装された数艘の平底舟が、矢のような速さで岸辺へと突っ込んできたのである。


 舟から飛び降りてきたのは、鎖帷子を着込み、鉈や鉤槍を手にした屈強な男たちであった。水底の地形を完璧に知り尽くしたその足取りで、川沿いを警固していた今川の別動隊の背後へ音もなく回り込み、瞬く間に退路を断ち切っていく。


(川並衆までいるのか……!)


 翔次は絵図を握りしめたまま、愕然とした。


 川の水位が浅い今朝の刻限を見澄まし、舟の喫水を極限まで下げて潜んでいたのだ。水運の利を熟知した野武士の頭領が、完璧な時機で今川の脇腹に刃を突き立てていた。


 さらに、混乱の極みに達した陣中へ、東西の物見から息せき切った伝令が相次いで転がり込んできた。


「ほ、報告! 北の山道より、敵の別動隊数百が裏をかいて突撃してまいります!」


「いや、それは誤報にございます! 山道に敵影なし、敵の本隊は東の街道より清須城の残党が押し寄せております!」


「何だと!? どちらが真実じゃ!」


 元信が血相を変えて怒鳴り返す。


 食い違う二つの報せ。翔次は頭を抱え、戦慄に唇を震わせた。


(偽報だ……! 忍びが我が軍の物見を捕らえ、偽りの情報を吹き込んで同士討ちと混乱を誘っている……!)


 敵は目に見える突撃だけでなく、目に見えぬ情報の網までも張り巡らせ、今川軍の指揮系統を徹底的に麻痺させていた。


 武勇。水運。情報。


 三つの異能が寸分の狂いもなく噛み合わさり、今川の大軍を前にして、わずか小勢の奇襲部隊が戦場を完全に支配していた。


「元康殿! 北の山道を死守してくれ!」


 翔次は混乱の怒号を貫いて叫んだ。


 山裾に陣取る松平元康は、すでに事態の異常性を察知していた。


「応ッ!」


 元康の号令一下、三河武士団が槍を揃え、山道から退却を試みようとする敵の進路を塞ぐべく疾風のごとく展開した。元康の冷静な用兵によって、北への突破だけは阻止されようとしていた。


 だが――敵の真の狙いは、山道への退却などではなかった。


「市姫は……!?」


 翔次が叫び、村の中心部にある屋敷へ視線を走らせた瞬間、彼の息が止まった。


 屋敷の裏手、崩れた土塀の隙間から、あの朱槍の武者が腕の中に小柄な人影を抱きかかえ、風のように駆け抜けてくる姿が見えた。


 粗末な麻の小袖をまとい、豊かな黒髪を乱した、可憐なる少女。


 年の頃は十三、四。信長に生き写しの凛とした気品を湛えたその瞳が、戦火の煙の向こうで、一瞬だけ翔次の視線と交錯した。


 お市――。


「者共、引けェッ! 姫君をお救い申したぞッ!」


 武者の野太い咆哮が、朝露の山野を揺るがした。


 その声を合図に、川並衆は舟を焼き払って草叢へと散じ、街道を混乱させていた残兵たちも四方の山林へと姿を消していった。


 朱槍の武者は少女を抱えたまま、元康の三河勢が塞ぐ山道をあざ笑うかのように、あらかじめ川並衆の手の者が切り拓いていた竹林の隠し道へと飛び込み、瞬く間に朝靄の彼方へと消え去ったのである。


「追え! 一兵たりとも逃すなッ!」


 元信が太刀を振り回して叫ぶも、川沿いの細道には倒木と逆茂木が巧妙に仕掛けられ、今川の騎馬隊はことごとく足を取られて落馬した。


 完全なる敗北であった。


 今川の大軍が誇る包囲網は、わずかな手勢によって紙切れのごとく破られ、目標であった市姫を眼前で奪い去られたのである。封鎖したつもりの道筋は、敵が用意していた退路のすべてではなかった。地形を知り尽くした者たちによって、翔次の絵図から漏れ落ちた道が、最初から用意されていたのだ。


 太陽が高く昇る頃、戦場には惨憺たる静寂が戻っていた。


 村落の広場には打ち捨てられた今川兵の遺骸が横たわり、負傷者の呻き声が重苦しく満ちていた。


 本営の陣幕へ戻った翔次は、床几に座す義元の前に膝を折り、額を泥に擦り付けた。


「……太守様。万死に値する不覚、申し開きもございませぬ。市姫の身柄、敵の残党によって強奪されましてございます」


 義元は扇を握りしめたまま、微動だにせず、ただ氷のように冷たい沈黙を保っていた。


 幕内には重苦しい殺気が満ち、岡部元信もまた血刀を傍らに置いて平伏していた。


「……して」


 義元の低く押し殺した声が響いた。


「我が軍の包囲を破り、予の眼前から織田の姫を奪い去ったその残党どもは、何者じゃ。武に秀でる者、川の衆、忍び……それほどの者どもを従え、この陣を破った大将の素性は割れたのか」


「は……」


 翔次は言葉に詰まった。


 朱槍を振るう猛将。水運を知り尽くした川の衆。偽りの報せを操る忍び。


 そのいずれにも、翔次の知る歴史の面影がちらついていた。だが、それらの者を一糸乱れぬ連携で動かした「真の頭領」の名など、翔次の知る歴史の何処を探しても存在しないのだ。


 その時であった。


 陣幕の裾を跳ね上げ、泥にまみれた一人の斥候が転がり込んできた。


「申し上げます! 村の生き残り、および近隣の土豪より、火急の情報を得ましてございます!」


「申せ!」


 元信が鋭く促す。斥候は息を呑み、震える声で言上した。


「織田の姫を奪い去りし武者ども、退却の折、村の長に向かってこう叫んだとのこと……! 『我が君、信照様の命により、姫君をお迎えに上がった!』と……!」


「……信照?」


 義元が眉をひそめ、反芻した。


「織田の身内か。……信照とは、いかなる男じゃ」


 斥候は恐る恐る言葉を継いだ。


「は……亡き織田信秀の九男。信長の異母弟に当たる者とのこと……。されど、家督争いの列にも加わらず、表立って武功を挙げたという話も聞かぬ、無名の若輩にござります!」


 ――織田、信照。


 その二文字を耳にした瞬間、翔次の頭蓋の奥で、落雷のような衝撃が炸裂した。


(……織田、信照……!?)


 脳裏の歴史書が、猛烈な速度で頁をめくり、該当する記憶を検索する。


 知っている。


 確かにその名は、信長の膨大な兄弟譜の片隅に、わずか一行、注釈のように記されていたはずだ。


 信秀の側室の子。信長より遥かに年下で、歴史の表舞台に一度たりとも名を残すことなく消え去った、超絶無名の武将。


 信長とは数回顔を合わせたことがあるかどうかも怪しい、歴史の影の底に埋もれた存在。


(馬鹿な……! なぜ、そんな男が……!?)


 翔次の全身の血が逆流した。


 なぜ、歴史の片隅に埋もれていた無名の男が、信長の敗死直後に姿を現し、あの朱槍の猛将を従え、川並衆を動かし、忍びに偽報を操らせ、今川の大軍を出し抜いて妹を救出できるのだ。


 そんな怪物が信長の弟に潜んでいたなどという記述を、翔次は後世のいかなる書にも見た覚えがなかった。


 さらに、追い打ちをかけるように、斥候の口から信じ難い報告がもたらされた。


「太守様、それだけではございませぬ……! 姫を連れ去りし一団は、萱津の周辺で我が軍が兵站のために集めていた米蔵を破り、奪い返した米を……ことごとく、近隣の百姓どもへ施して回ったとのことです!」


「何じゃと……!?」


 義元が目を見張った。


「奪った兵糧を、己の軍勢の糧とせず、百姓に配ったと申すか!」


「はっ! 『今川の過酷なる軍税から民を救うため、信照公が施された米である』と触れ回っており……尾張北部の村々では、すでに農民どもが『信照様こそが我らの真の主君』と歓喜し、拝み倒しておる由にございます!」


 ――米を奪い、己の私利とせず、民に配る。


 その報告を聞いた瞬間、翔次は立っていられなくなり、膝から崩れ落ちそうになった。


 領地を奪うのではない。城に籠もるのでもない。


 力による支配だけに頼らず、民衆に恩義を施すことで人心そのものを味方へと変えていく。姿を隠すことで実態を掴ませず、大義の象徴たる妹を手中に収めて正統性を確立する。


 それが何を意味するのか、翔次には理解できなかった。


 ただ一つだけ確かなことがある。


 これは、翔次の知る戦国の覇者たちの誰一人として見せたことのない、恐るべき人心掌握の術である。


 そうとしか、思えなかった。


 歴史のどの頁にも記されていなかった、存在しないはずの弟。


 清須の城にすら姿を見せず、名利を求めて表舞台に立つこともなく、暗闇の奥深くに沈黙を守りながら、東海の大国今川を手のひらの上で弄ぶ男。


「……尾張の、魔王か」


 義元の口から漏れた呟きが、冷え切った陣幕の空気を凍りつかせた。


「姿を見せず、富を民にばら撒き、異能の者どもを自在に操る。……信長などより、遥かに底の知れぬ怪物が、尾張の闇に産声を上げおったな」


 翔次は、震える拳を泥に突き立てたまま、動くことができなかった。


 自分が桶狭間で信長を死なせた。


 未来を壊した。


 その代償として、歴史が狂ったなどという、生易しい話ではない。


 己の現代知識すら全く通用しない、恐るべき深謀遠慮の魔王を、自らの手でこの乱世に解き放ってしまったのだ。


 東の空を見上げた翔次の視界は、暗澹たる絶望の色に染まりきっていた。


 永禄三年、初夏。


 翔次の知る歴史像は完全に砕け散り、その前には、一筋の光も見えぬ未知の暗黒が、底なしの口を開けて広がっていた。

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