第六話:消えた天下人の未来
第六話:消えた天下人の未来
松平元康の陣所を辞してから、数日が流れていた。
三河衆に対する恩賞は、今川義元の裁可を経て、滞りなく陣中に下された。
大高城への決死の兵糧入れの功に対し、米三千石が優先して配分され、前線の過酷なる警固は駿河衆との輪番制へと改められた。功のあった三河の諸将にはそれぞれ感状と加増が下され、若き当主たる元康の家中における威信は、今川の傘下においてかつてなく高まることとなった。
血を流しながらも報われず、今川の捨て石と見下されて鬱屈していた三河武士団の陣営には、ようやく生気が蘇りつつあった。彼らにとって、本営の太守へ直訴し、正当な報いを勝ち取ってくれた「鍋蓋翔次」という名の謎めいた軍師は、暗闇に差し込んだ一筋の光明に他ならなかったのである。
その日、翔次は義元からの新たな下命――尾張北部における守りの陣の立て直しと、三河衆の陣割りの見直しを伝えるため、再び西の陣所を訪れていた。
用向きを伝え終え、配下の将たちが引き下がった後、床几に腰掛けていた元康が、ふと面を上げて翔次を見つめた。
「鍋蓋殿。此度の一件、まことに……まことに、感謝の言葉もございませぬ」
元康は立ち上がると、歩み寄り、翔次の両手を自らの掌で包み込むように強く握りしめた。
節くれ立った、泥と鉄の匂いが染み付いた、若い武士の力強い温もりであった。
「鍋蓋殿がおられねば、某は、三河の者たちの血涙を誰にも届けることができず、ただ無為に今川の軛の下で潰えていたことでございましょう。……この御恩、生涯忘れ申さぬ」
元康の双眸には、濁りのない純粋な信服の光が湛えられていた。
その手の生々しい熱を感じた刹那――翔次の背筋に、再び氷柱を突き立てられたような激しい悪寒が走った。
「……元康殿」
「いかがなされたか、鍋蓋殿。手が、震えておられるが」
元康が訝しげに眉をひそめた。
「……いえ。何でも、ございませぬ」
翔次は引き攣る頬を必死に抑え、辛うじて頭を下げた。
陣所を辞し、夕闇の迫る畦道を本営へ向かって一人歩みながら、翔次は自らの右手を凝視した。
指先が、止まることなく小刻みに震えていた。
(俺は……何をやってしまったんだ?)
脳裏に浮かび上がるのは、書物の頁をめくるたびに胸を躍らせた、あの偉大なる天下人の生涯であった。
松平元康。
史実において桶狭間で義元が討ち死にした後、独立を果たして徳川家康と改名し、信長と清州同盟を結び、武田の猛攻に耐え、豊臣の天下を見届けた果てに、関ヶ原を制して二百六十年に及ぶ泰平を築くはずだった不世出の天下人。
その不撓不屈の英主が、いま、己の手を握りしめ、涙を浮かべて今川への忠節を誓ったのだ。
自分が大高城の功を認めさせ、三河衆の不満を巧みに宥め、今川家の重臣としての確固たる地位を与えてしまったがゆえに。
(俺が……徳川家康を殺した)
信長を殺した。そして今また、徳川家康という未来の天下人の運命を、己の手で決定的に歪めてしまったのだ。
信長の命を奪っただけでは飽き足らず、自分は今また、未来の天下人をその宿命の軌道から引きずり下ろし、今川という巨大な体制を守るための頑丈な歯車へと作り替えてしまったのだ。
信長が死に、家康の道も消えたのであれば、この乱世の終着点は一体どこへ向かうのか。
誰が天下を平らげるのか。
答えなど、暗澹たる夜の闇のどこを探しても見当たらなかった。
その夜、己の陣屋に戻った翔次は、板敷きの上に突っ伏したまま、一睡もできずに朝を迎えた。
闇の中で目を閉じれば、燃え盛る桶狭間の炎と、稲光の中で朱槍を振るっていた信長の鬼神の如き顔、そして昼間に見た元康の信服に満ちた瞳が、瞼の裏に、幾度となく甦る。
未来の知識という唯一の羅針盤は、自らの手で完全にへし折った。
だが、いくら悔恨の泥濘に身悶えしようとも、明日は容赦なくやってくる。
この狂った歴史の中で生き残るためには、今川義元という大名の屋台骨を支え続け、目の前の戦を一つずつ処理していくほか、翔次には生きる術が残されていなかった。
翌朝、本営の中枢で義元に復命した翔次は、元康との間に結ばれた信頼の糸を、さらに深めていくこととなった。
元康は軍議の折、常に翔次の意見を最優先で伺うようになり、今川の重臣たちが翔次の素性を訝しんで反発するたびに、元康が自ら進み出て翔次の策を強力に支持した。
岡部元信が冷徹な武辺の視点で陣営の守りを固めるならば、元康は実動部隊の先鋒として、翔次の描いた兵糧の道筋と守りの絵図を寸分の狂いもなく地上に具現化していったのである。
軍務の合間、二人はしばしば夜の陣屋で盃を交わすようになった。
「鍋蓋殿は、いかにして物事の本質をそこまで見抜かれるのか」
ある静かな夜、粗末な薬酒を満たした土器を傾けながら、元康がぽつりと漏らした。
「……ただ、大局を盤面のごとく眺め、利害の筋道を追っているだけにございます」
翔次は苦笑を浮かべ、曖昧に言葉を濁した。元康は深く追及することなく、自らの盃を見つめた。
「某は……この乱世にあって、いかに生きるべきか、常に胃の腑が締め付けられる思いでおりまする」
元康は腹に手を当て、苦渋に満ちた息を吐いた。
「今川様の大恩を仇で返す気は毛頭ござらぬ。されど、三河の山河と、飢えに喘ぐ領民の顔を思えば……大国の狭間で翻弄される己の無力さが、夜な夜な胸を焼き尽くすのでござる。胃の腑が痛み、眠れぬ夜が幾度あったことか」
翔次は盃を止め、目の前の十八歳の青年の横顔を見つめた。
(……この若武者もまた、己と同じく、張り裂けんばかりに胃の腑を痛めておるのだ)
後の天下人とて、生身の人間であったのだ。家臣団の命と領民の生存を一身に背負い、大国の冷酷な論理に押し潰されそうになりながら、激しい胃の痛みに耐えて耐えて耐え抜いている。
かつて生を受けた世で珍しき姓を呪われ、誰とも繋がれずに胃の腑を痛めて孤立していた己の姿と、戦国の地獄で板挟みに遭いながら耐え忍ぶ若武者の姿が、痛切に重なり合っていた。
「元康殿」
翔次は静かに語りかけた。
「それがしも、同じでございます。己の立てた策一つで、何千の兵が死に、何万の民が泣くかと思えば……夜ごとに胃の腑が引き裂かれる思いに苛まれます。……されど、逃げる道はございませぬ。なればこそ、少しでも無駄な血が流れぬよう、知恵を絞り尽くすより他はないのです」
元康は顔を上げ、翔次の目をじっと見つめ返した。
言葉はなくとも、通じ合うものがあった。
今川の重臣と客分という立場を超え、乱世の重圧に胃を痛めながら歩む二人の男の間に、生涯崩れることのない奇妙で深い絆が、静かに結ばれた瞬間であった。
だが、二人が足元を固めていく一方で、尾張北方の情勢はいよいよ不穏の度を深めていた。
木曽川沿いで暗躍する「幻影の織田軍」は、今川軍の拠点を巧みに避けつつ、尾張の各地で旧織田家の残存兵や物資を吸い上げ、その実態のない影を日に日に巨大化させていた。
「翔次。北の残党ども、いまだ正体は掴めぬのか」
数日後の軍議において、義元が地図を前に険しい表情で問うた。
「姿を見せぬ敵に補給線を脅かされ続けていては、清須城への総攻めも覚束ぬ。この幻影を叩き潰す手立てはないのか」
諸将が沈黙する中、翔次は一歩前へ進み出た。
「太守様。幻影の織田軍が姿を見せぬのは、彼らが自らの拠点を明かさず、民衆の海に溶け込んでいるからにございます。されど、彼らが織田の残党である以上、決して捨て置けぬ『急所』が一つだけございます」
「急所とな。何じゃ」
「――織田の血筋にございます」
翔次の言葉に、義元の目が細められた。
「信長公が討ち死にいたした今、織田の家臣団は四分五裂の状態にあります。北で暴れる者たちも、何らかの大義名分がなければ、長きにわたって人を惹きつけることは叶いませぬ。……調べによれば、織田の血筋を引く姫君として、信長公の妹君であられる『市姫』が、北方の何処かに匿われていると聞き及びます」
「市姫……」
義元が反芻した。翔次は頷き、言葉を継いだ。
「当年十三歳になられると聞く、織田家の姫君にございます。もし、北の残党どもがこの姫君を擁立し、旗印として掲げれば、尾張中の豪族が再び織田の旗の下に結束いたしましょう。逆に、我が方が先手を打って市姫の身柄を保護し、手中に収めることができれば――敵は大義の核を失い、幻影の織田軍は烏合の衆へと瓦解いたします」
「なるほど」
義元は膝を打った。
「織田の血筋を押さえ、いずれ我が今川の縁者へ嫁がせれば、尾張の領国化における大義名分もまた、我が今川のものとなるわけじゃな」
「御意にございます。血を流して残党を追うより、彼らが掲げんとする旗そのものを奪い去ることこそ、最も確実な平定の道と存じます」
「よい。直ちに織田の姫の所在を突き止め、身柄を確保せよ!」
義元の下命を受け、今川軍の探索の網が尾張全土へ向けて張り巡らされた。
翔次はこれまでに蓄積した地誌の知識と、商人や農民から集めた幾つもの証言を照らし合わせ、深く考えを巡らせた。
北の残党が小荷駄を頻繁に送り届けている集落。
織田家の家老の落武者が目撃された街道。
川並衆の舟が夜間に荷を揚げた痕跡。
いくつもの断片的な噂の糸を手繰り寄せていくと、尾張北部の山裾に位置する、ある名もなき寒村が一つの焦点として浮かび上がってきた。
「太守様、市姫の潜伏先、突き止めましてございます」
三日後、翔次は義元の前で絵図を広げた。
「萱津の北、山林に囲まれし小村の奥に、かつて織田家の隠れ宿館として使われていた屋敷がございます。そこに手勢数十名とともに匿われているとの報が、複数の筋から合致いたしました」
「見事じゃ、翔次!」
義元の声が弾んだ。翔次は冷徹に作戦を指示した。
「作戦は夜半に決行いたします。村に通じる道は三つ。東の街道、西の川沿い、そして北の山道でございます。東の街道と西の川沿いは岡部元信殿の精鋭が封鎖し、北の山道への退路は、地の利に明るい松平元康殿の三河勢にお願いしたく存じます」
翔次は元康を振り返った。元康は引き締まった面持ちで深く頷いた。
「三河衆にお任せあれ。蟻一匹通しは仕りませぬ」
「頼もしい限りじゃ」
義元は満足げに頷き、諸将を見渡した。
「姫君の身に傷一つ負わせてはならぬ。包囲を完成させたのち、明朝、使者を送って開城を促す。……元信、元康、抜かりなく陣を敷け!」
「「ははっ!」」
その夜、作戦は瞬く間に手はずが整えられ、静かに開始された。
月光を隠す薄雲の下、岡部元信率いる本隊が音もなく東の街道と川岸を押さえ、松平元康率いる三河勢が裏手の山道を完全に遮断した。
村を取り囲む林の随所に今川の旗が掲げられ、篝火が闇を裂いて点々と灯っていく。
包囲網は、寸分の隙もなく完成した。
村の中にいるはずのお市と護衛の手勢は、完全に袋の鼠であった。
本陣の幔幕の前で、翔次は冷たい夜風に吹かれながら、北の村落を見つめていた。
(市姫……当年十三歳の少女か)
未来を歪め続ける己が、今度は信長の妹君たる少女の運命までも、今川の政略の具として奪い去ろうとしている。
歴史を狂わせた罪悪感は、胸の底で重く疼いていた。
だが――これで織田の残党は旗印を失う。無用な野伏の戦は終わり、尾張は平和のうちに今川の領国となり、これ以上の流血は止まるはずなのだ。
(これで、終わるはずだ……)
翔次は己にそう言い聞かせた。
やがて、山道の封鎖を完了した元康から、陣幕へ伝令が駆け込んできた。
「報告! 三河勢、北の山道の退路を完全に遮断いたしました! 包囲網、完成にございます!」
義元が床几から立ち上がり、満足げに笑った。
「勝負あったな。翔次、そなたの策、見事であったぞ」
「……はっ、ありがたき仕合わせに存じます」
翔次は平伏した。
だが――頭を下げた翔次の胸の奥で、言いようのない悪寒が、急速に膨れ上がっていた。
何かが、おかしい。
絵図の上では、完全な包囲が敷かれている。
逃げ道はない。
それなのに――なぜだ。
村の中から、犬一匹の吠え声すら聞こえてこない。
逃げ惑う村人の気配も、屋敷から漏れる灯火の光も、一切存在しない。
そして何より、各所の見張りに立てたはずの兵たちから、何の連絡も届かない。
静かすぎる。
まるで、最初から誰もいない空っぽの墓場を取り囲んでいるかのような、不気味極まる静寂が、尾張の夜を支配していた。
(……罠か?)
翔次の心臓が、早鐘のように打ち始めた。
永禄三年、五月末。
歴史の狂いが生み落とした、未知なる怪物の真の咆哮が、闇の向こうから、静かに忍び寄っていた。




